仕事の時間というくびきからは、しばし解放されたものの、私がやりたいことはこれまでと全く変わらない。いつもと同じように起きて始動しながら、おぼろげにコーヒーを飲みながら、ブログを書きながら、一日にやることの大まかな確認をする。
会社からの指令はないから、自分で自分に指令を発しなくてはならなくなっただけである。それと来月から無収入になるといった事実。この厳しき現実と、私はきちんと向かい合いたい。
こんなことを朝から書くと何やら深刻な書き出しだが、これまでの人生で経験した逼迫した状況に比したらくらべものにならないくらい、私は落ち着いている。
なぜなのかは先日も書いたので重複は避けたい。この年になると最低限生きてゆくことできれば後は、今日一日をいかに過ごせるかが、一番の私の重要なことだからである。
体が元気に動きさえすれば、あとは何とかなるといった確信のようなもの、能天気さが私の性格の中にはいかんともしがたくある。18歳から 培ってきた何とはなしの、自分を信じるよりほかには方法がない,といった塩梅。
体、つまりは命があるのだから、命を大切にしてスリリングにスイングするしかない。意識がかろうじて未だ研ぎ澄まされる。どっちに向かって歩いていけばいいのかと。これまでにも何度もそのような経験を潜り抜けた先に未来があった。
私の中には、未来につながる今があるだけである。(過去には執着しない)だからブログが書けるし、書ける間は書きたい。今がすべてである 、今日一日の過ごし方を静かな朝に考えるひと時がことのほか私には大切だ。
話を変える。修業のつもりで始めた時折の時間を見つけての飛び込みのネギの行商を毎日ではないが、ほぼ2週間終えた。あと10日ほどでこの行商は時間的にできなくなる。(ありがたいことに定期的に数件のお店から注文が来るので、そのお店の配達はネギがある限り続ける)
春から植える作物、畑の準備に取り掛からないといけないからだ。だが農閑期にほんのわずかな時間を見つけての、思いつき現代行商は、私の中にまたもやいろんな刺激を与えてくれた。
厳しき現実の中に、なんともはや 素敵に市井に生きる人間の姿に出会えたからである。こればかりは、ネギを行商しなかったら出会うことができなかっただろう。ネギが出会わせてくれたともいえる。
こんな時に私は、ほんわかとした幸福感に浸れる。この人にはまた会いたいなと思う。もし自分がこれから企画することがあれば招待したいとさえ思う。
自分の体の中の澱をを破壊し、 風を吹き込むためには、書物をはじめあらゆる新しい出会いが不可欠だが、人間との直接の出会いは、私にはライブそのものと言える。
オーバーだが、ちょっぴり自分を破壊しないとやはり新しい自分には出会えない、まさに自分とはシェイクスピアが言うように、自分で自分を思い通りにはできない(十二夜、ヴァイオラのセリフ)器なのだ。
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