日々の暮らしに大部の時間をとられ、ゆっくりと落ち着いて考える余裕もないなんてことは、やはりまずいと、時折反省する。
反省する力がないと、ほんとうにだめだなあ、とかろうじて踏みとどまる。玄米の朝粥をかみしめながら、藤原新也さんのWMを読む。
何が真実か、正義の戦いなんて存在するのか、宗教とは何か、民族とは何か、元々人間は同じ種から派生した末裔たちではないか、とか。
報復、憎しみの連鎖は、いつまでもやまず、永遠に続くのではないかとか、間もなく63歳にもなる私だが、オーバーではなく世の中に出てからずっと心のどこかで考え続けてきた果てなき終わりなき問いは、私の中でいよいよもって泥沼化、混沌化の極みと化してきつつある。
国内でも、ただ単に人を殺してみたかった、というような事件が若い女性の中にも表れてきている。どこかでつながっているかのような気がしてならない。
これをどういうふうに、受け止めたらいいのか。恐ろしい、理解できないというような 、私には関係ない、といったくくりでは済まない何かが、時代の病巣としてあるのではと、私は感じる。
安直なコメントは書けもしないが、このふわふわした奇妙な時代の空気感のようなものは、私なりに受け止めながら生きてゆかなと、やはりどこかまずいとの感性は、持続したい。
さてどうすると私は自分に問う 。今のところただただ静かに土の上で生活するくらのことしかもいつかない。
それとシェイクスピアを声に出して読みながら、ささやかに自分の中での楽しいことを見つけてゆく営みの中で、気持ちの安らぐ居場所を持続する。
戦後急激な都市化の中で、物と金に心が翻弄化されてきた私の人生のひずみへの反省が、私を岡山に移住決断させ、いままた農の世界へと向かわせている。
世界の都市化した世界に住む大部分の人々は、途方もなき孤独化の中で居場所がなくなりつつあるのでは、といった認識が私にはある。それをお金をで消費して満たす循環構造から私はおさらばしたい。
土を耕し、朝日に感謝し、水をおいしく感じることくらいから、ゆったりと生きてゆく覚悟を決める。無人の爆撃機の途方もない値段は、人間を狂わせるには十分である。宝くじに群がる人々の群れ。
一輪数百円の ネギは、水と光と土の産物。お金では作れないのだ。戦艦や潜水艦や、空母や、一機数十億円ともいわれる爆撃機をはじめとする、天文学的な武器弾薬のお金の世界、いったいどこの誰がつくっているのか、原発も。
でも食えないのだ。命は生み出しえないのだ、おそらく愛も。書いているとむなしくなるのでやめる。何度も書いているが、自分の中に希望の種を育ててゆくしか、自分にはほかに方法がない。
わずかな食べ物があれば、命は続いてゆく。命の継続のためにこそお金は有効に使わないと、明らかにこのまま行けば正当化の争いの果て、人類は消滅するだろう。善も悪もない。平和とはまず人を殺さないことだ。
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