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2013-07-28

暑いさなか、涼しい朝、第二回人生途上トークとDVD上映会を考える

二十歳の時に買った本・ピーター・ブルックは前人未踏の私が出会えた演劇人

この39カ月、ブログを毎日ではないにせよ書きつづけてきて原稿用紙に何枚になるのだろうか。計算はしないがおそらくはかなりの枚数になるだろう。この間も書いたが、かなりの精神の調節管理にはなっていることは、書いている私自身が一番よくわかっている。

 
12歳まで、限りなく本に触れることがなく、ひたすら遊び呆けていた私の少年時代から考えると、今本の無い暮らしは、ちょっと考えられない。性格の本質的なことはともかく、時代環境要因、多様な芸術文化、ヒトとの出会いで才能もないのに多少とも、私は緩やかに変化してきた(とおもいたい)。

 
311でわずかな時間ではあったが、東北の被災地に立ったことは、今も私の中では大きい。一瞬でなし崩しに、分身である肉親も含め、命、所有していたすべてのものが無くなるという経験をしたことのない、私には限りなく遠い感覚というしかない。がしかし、東北へ足を向かわせた何かが、私の中に在ることは事実である。

 
そのことは、今後これから遺された(どれくらいの時間が私に在るのかは神のみぞ知る)私の歩みの中で、胸に手を当てて考えてゆきたい。

 
さて、今第二回、途上トークDVD上映会を、8月末か、9月頭にはやりたいと考えている。

作品は黒沢明監督の作品の中から選ぶことにした。やはり私の人生で見た中学一年生の時に見た・赤ひげ、や・高校生で見た、椿三十郎、天国と地獄は、少年期から青春期にかけて見た映像作品の中で、私に大きい影響を与えたからだ。

 
映画という新しい娯楽芸術分野が始まり100年とちょっと、こないだのゼフィレリの作品が、おおよそ50年前、そしてこの20年時代環境の激変、CG映像ハイテクの進化は、果たして映画という芸術の人間作家精神を豊かにたらしめているのか否か、はなはだ個人的には懐疑的だ。

 
それは何故なのかは、浅薄な個人的な意見だが、骨太な大きなテーマに果敢に挑む映像作家がいなくなりつつあるということ、(いや私が知らないだけで、世界にはきっといる)すべては商業主義の(これは演劇や文学も含め、あらゆる分野に及ぶ)構造の中にどっぷり人間が取り囲まれている、ということに尽きるのではないかというのが、私の認識です。機器や物に取り囲まれ、深い呼吸がができない危機。

 
退職後、ようやくゆっくりと昔個人的に私に影響を与えた映画を、有難いことにDVDで少しずつゆっくり見ているのだが、戦後、録音技術やあらゆる機器が貧困な中(今と比較すると月とすっぽん)、お金もなく、理解者も少ない中、よくぞこんなにもすぐれた作家魂あふれる映画人たちがいたことに、びっくりしてしまう。

 
61歳の私が生まれる前の作品を(文学、音楽、絵しかり)今見て、ある種の若い時とは異なる冷静な感動を受けるのは何故なのだろう。一言でいえば、作家的精神、(シナリオに人間が書かれている)器の大きい映画人(映画に限らない)がわんさかいたということに尽きる。

 
人間には感動し考えるという、心のバネを神様が与えてくださったのだから、どんなにささやかではあれそのバネがあるうちは、個人的に今しばらくやり続けたい。現在地を確認するには過去を振り返るしかない。私が尊敬する方たちは、悪戦苦闘の中、今も時代に安易に迎合せずその渦中を生きている。

 

 

2013-07-23

取り留めなき4日連続のつれづれなる朝ブログ


N氏の和紙の作品
 

連続4日ブログを書くのは極めて珍しい。おもいのたけをささやかに書きつづれるというのは、ありがたき幸せというほかはない。今はもう私の記憶の中にしかないが、私が生まれた家には本というものがほとんどなかった。

 
敗戦後、両親がロシア人にすべてを没収され、北朝鮮から当時3歳の姉と、1歳になっていなかった兄の4人で引き揚げてきて、再び日本で教師になり、すべて借金して建てた家。母は祖父母の面倒と5人の子育てで忙しく、父の給料では本なんか買う余裕もなかったのだとおもうし、本なんか読む時間もなかったのだ。大陸での牧歌的生活から、全くあらゆることがひっくり返った中からの一からのやり直し。

 
私は保育園にも幼稚園にも行っていない。生まれてすぐ父の仕事で3歳までを高千穂というところで過ごし、4歳から小学校に入学するまでは生家の周りでほとんどの時間を過ごしていた。両親は生きるのに忙しく、私は文字というものを全く知らずに一年生になった。

 
いきなり入学した小学校で、同じ年頃の男女がわんさかいたのには驚いたが,もっと驚いたのはかなりの子供たちが文字なるものを読み書きできたことだ。私のコンプレックスというのか、小さきトラウマは、今考えるとあそこに起因しているのではないかという気がしている。

 
父は町中から離れた、田畑の中の限りなく安い土地に家を立てたので、私の幼少期には、周りには全く他の家はなかった。考えてみると6歳まで、私は全くの自然の中で育ち、家族や親せき、モノ売りやわずかに家にやってくる人たち以外の人は知らない、極めて限られた場所が世界のすべてという環境の中で過ごしていた。

 
だから私は小学校6年生まで教科書以外の本を読んだ記憶はない。ただ田舎町に貸本屋があり、漫画は読んでいた。6年生で海沿いの田舎町から、日の影の炭鉱町に転校したが、この6年生の一年間だけ過ごした炭鉱町で私が初めて経験した出来事の数々が、今考えると決定的にその後の人生を左右していることが、今わかる。

 
井の中の蛙を、初めて体験した一年間ということが言えるとおもう。そのころからようやっと、頭の中にいろんな光が入り始めたような気がするが、短い朝のブログでは今はとても書けない。だが、この年になっておもうのは文字という観念が入り込む前に、ただひたすら自然の中に何の制約もなくおっぽり出されていて、家のまわりの自然の中で、夢中で飽きもせず遊べた幼少期こそが、私にとっての黄金期であり、そこに私の原感覚が宿っているというまぎれもない事実に最近気づかされるのである。

 
考えてみると、この半世紀の社会とは限りなく自然から切り離された、自然を不自然に人工加工する、養老先生風にいえば、限りなく人間の都合のいいように作り変えてきた脳化社会を、いまだ驀進中という感じの私は認識だ。行き着くところまでゆくのではという苦い認識。

 
物心ついてから、私もなんとか脳化社会を生き抜いてきたわけなのであるが、もう今後は限りなくその脳化社会とはおさらばして、あの原感覚の世界へと回帰してゆきたいというのが、ささやかな私の希望である。

 
熱い夏、水田の用水路でパンツ一枚になり無心で遊んでいた、原風景。農業(機械、農薬はなく水は限りなく安全で美しかった)ではなくお百姓さん、漁師や、職人さん(鍛冶屋・鋳掛屋・畳や・豆腐屋etc)が、暮らしのあちこちにいて、人間が人間らしい顔をしていたあの頃、面白い大人がわんさかいた。

 
勉強する、学ぶということ、仕事、はたまた生きるということは何か。何のために生まれてきたのか。チベットの少年オロ・祝(ほうり)の島・この2本のフィルムを61歳の今、何かの縁で企画する自分がいる。これは逆説的にいえば、無知なるがゆえに(私の企画はほとんどがそうである)企画出来るのだという、苦い自覚が私にはある。

 
人間が自ら作り出した機械や機器に取り囲まれながらも、それに魂を売り渡さず、生きてゆくための大切なこと、感謝の一念。お金では買えない世界を、大事に守っている人びとがこの惑星にいまだ住んでいること。企画者のはしくれとして、こちら側からやがてはあちら側へゆく前に、ささやかに企画したい。やれるうちに。

 

 

 

 

 

 

2013-07-22

過去の人々の仕事や生活に学ぶことがこれからの私の未来時間になる


自分で漉いた和紙にN氏が書かれた文字・言葉

こうも暑い日が続くと、早寝早起きがやはり一番私には過ごしやすいような気がしているこの頃だ。とくに瀬戸内の凪はからだにこたえる。この夏、平日は講座を受けているので、土日は出かけず家で身体が消耗しないように過した。

 

さいわい新陳代謝がまだよい方なのか、汗をよくかくので、昨日なんか3回水を浴びては何かをすると言った按配で知恵をつかっている。書いたり読んだり学んだりは早朝から御昼までにとどめ、午後は風通しのよい場所で猫のように体を休めながらのらりくらりの、夏を過ごしている。

 

昨夜も9時には横になり4時には眼が覚めたので、おもむろに起きて静かにブログを書いている。ちらっと選挙結果を昨夜見たが、おおよその予想通りで、眠くなるまでは脚本家としてすごいお仕事をされた、橋本忍さんの複眼の映像という、黒沢明さんとのことについて書かれた本を読んで過ごした。

 

このような本に巡り合うと、退職してよかったとおもう。時間に余裕なくば、先ず読めないのだから。そして繰り返し書くが、心身健康な人生の時間というものは限られている、という物理的現実を、現時点でかなり私は深く受け止めている。

 

ところで、永遠と一日、という映画のタイトルがあった(ような気がする)が、この年になると一日穏やかに意識して過ごせることが、なんともはやあり難い。母が届けてくれたナス、ししとう、ピーマン、玉ねぎ、は天ぷらにして、トマトとキューリはサラダ、そうめんをたくさん湯でて、夏の昼食を、昨日家族全員でした。平凡なお昼の、小さいころを思い出す日本の田舎の夏。

 

歳を重ねると、身体は否でも保守的になるが、齢80歳の母の一日の過ごし方をそれとはなしに観察していると、まさに理想の過ごし方をしているように私には最近感じられる。身近に御手本が存在しているというのは実に有難い。退職してからは母と話をすることが増えた。座学ではなく実学。

 

これもまた、時間に余裕なくば叶わぬことである。ことほど左様に自分に与えられている人生の時間をいかように過ごすかは、各々各自の全き自由である。けっして浮足立つことなく、淡々と一日を送る母の姿は無言で私に何かを伝えている。

 

昨日に続いてのとりとめなき朝ブログ、本であれ、母からであれ、今の私より過去に生きた人々から、直接であれ間接であれ学ぶことが、これからの私の未来時間になりそうである。

 

 

 

 

 

2013-07-21

参議院選挙の朝に思う


N氏の造形和紙で漉いた衝立障子

さて参議院選挙の日の日の朝である。すでに蝉しぐれが真夏を告げている。夏といえば私の中では蝉しぐれ、それと勢い良く伸びた稲穂。海と川、風鈴の音、スイカ、かき氷、などなど宮崎の故郷の子供時代のあれやこれやを、今も私は懐かしくおもいだす。

 
おそらく元気で身体が動く間は、これから繰り返しおもいは、古里の少年時代へと老いてゆくに従って、回帰してゆくようにおもえる。考えてみると世界のなんたるかを何も知らなかったあの頃が、いわば自分の黄金時代だったのだという思いが、歳を重ねるに従ってしてきたのである。

 
あの頃の自分をおもいだすとどういうわけなのか、今も元気が出てくるし、私がアジアやアフリカの村を訪ねたりしたくなる大きな動機は、舗装されていない小道や路地を歩き、地に足がついた暮らしを今もしている現地の方々と触れることで、安心するということがおおきい。

 
もうあの頃には還れない都市化された自分の心と体を洗いに行っているような感覚とでもいえばいいか。小さいころから、日本は資源の無い国とおそわってきたが、正直世界30カ国以上旅してみておもったことは、鉱物資源はともかく、海山川がもたらす自然界の山海の珍味は、世界屈指の豊かな国というほかはない。それとこの日本列島で生きてきた無名の民の遺してきた文化的感性のすごさ、それは言葉として遺されている。

 
そのような国に生まれ落ち、この年歳まで生きられたこと、それ一つとっても、なんとありがたきことかと、朝の涼しい風を浴びながら小生、感謝の思いが夏の雲のように湧いてくる。

 
とりとめ無き朝の一文、とりとめなきたわごととして読み飛ばしてくださるとうれしい。昨日、なかにし礼さんの小説、長崎ぶらぶらぶし、を読み終えた。ゆっくりゆっくり亀のように読み進む、ときおり手を休め物思いに耽りながらまた読む。私にとってのいい小説は(正直あまり小説は読まないのだが)想像力を限りなく刺激する。

 
省略と推敲に推敲を重ねた日本語の(私の読めない言葉がたくさんあった)素晴らしさ、やはりプロの作詞家というのか、詩人の紡ぎだす言葉は、貴方の過去など知りたくないの、の私が知る流行歌の作詞家の、私が勝手に思い描いていた、なかにし礼さんのイメージを完全に覆した。

 
短いブログで書くことではないが、小説を読みながら、桃山晴衣さんのことが、しきりと私には憶いだされた。桃山さんのお仕事と、小説の主人公の生き方が途中からダブり始めたのである。底辺に生きた人々の消えゆく歌・唄・うたを、日本各地を訪ね収集し、それを現代の歌として蘇らせた桃山さんのお仕事は、時代がすすむに従って底光りするように私には思える。

 
さて大事な国の行く末を左右する選挙である。本当に国民の力が、如実に試されていると私はおもう。戦後生まれの私は、平和ということの有難さの実感が薄い世代に属するのかもしれないが、穏やかに、つましくも安全で地に足の着いた暮らしが続く国づくりを掲げる候補者をと考えるが、、、。

 
ともかく選挙に足を運ぶこと。投票率が限りなく上がってほしい。自分の権利を放棄するのは、自分を放棄するようなものだと私は考えている。

 

 

 

2013-07-20

ゆっくりとほのかに何かが立ちあがる感覚が育ってきているのを感じる夏の土用の朝


先日訪ねたN氏の和紙の造形オブジェ・畳くらいの大きさ厚さは1センチ以上はある

文章をパソコンで書きながらも、ITライフは限りなく少なく過そうという感じで私は過している。それはやはり年齢的なことがおおきい。私に残されたこれからの人生の時間を考えると、自分自身の内面を考える、見つめてみたいという欲求が強くなり、わけても身体が動くうちに、書いたり動いたり、声を出したりできる、自分という摩訶不思議な器との時間を大切にしたいという思いが、強くなってきている。

 
もう私くらいの年齢になると、新しい情報なんかにはそんなにときめかない、これまでに巡り合うことのできた、ヒトや書物ほか私の宝物との時間を深めてゆきたいとの思いにとらわれる。再読、再再読することで深く染み入ってくるような感覚が育ってきているように思えるのだ。歳を重ねて走れなくなった分、ゆっくり細部に思いが及ぶような案配。

 
パソコンでは調べ物をしたり、ブログを書いたりするくらいで、それ以外ではほとんど触ることはない。紙一重の感覚であり、私自身行ったり来たりを普段はしながら(バーチャルとリアルを)暮らしているわけだが、リアルな世界の方がやはり落ち着くのは、10歳までテレビが我が家にやってくる前に、私という器の原感覚ほとんどが出来上がったということに起因しているとおもう。(そのことはまた書きたい)

 
人間というのは、自分という器のくびきからは、逃れられない、ある種の限界を生きざるを得ない(とくに私のような凡人は)生きものだとおもうが、だからこそ何かにすがって、日々の営みの平衡感覚を保とうとするのだとおもう。

 
もうあと3カ月もすると、ブログを書き始めて4年になるのだが、本当にあっという間の時の流れの感覚、(だが以前にはない自己受容が始まっている)おそらくこれからその感覚は加速度的に増えてゆくような気がするが、そのことを受け入れながら、歩みたいという思いだ。はなはだ自己満足ではあれ、先のことはともかく、書き続けたから今を迎えることができているという安堵感が、ささやかに私を包む。

 
オーバーに言えば、書きつづけなかったら変に煮詰まった、思考整理のはなはだ不得手な中年おじさんになっていたのではないかとい言う気がするのだ。どんな拙文であれ、自分なりのその一日を書くことでいわば体調管理をしてきたのだという認識、ブログは公の中での自分との対話なのだ。

 
さて、今そんな私の暮らしの中で、今私はついこの間まではおもいもしなかった座学を平日受けている。今週も昨日金曜日まで、毎日6時間講習を受けた。あとひと月続くが、完走したらブログに書けたらとおもう。

 
何故、そんなことを学び始めたのかについても書けるものなら書いておきたいとの思いがあるが、一言でいえば自然の流れの現時点でのひとつの帰結なのだとおもう。

 
今朝はここまでにとどめ置くが、退職して早4ヶ月、ゆっくりと歩く、ゆっくりと声を出す、ゆっくりとDVDを見る、ゆっくりとヒトと話す、ゆっくりと本を読む、ゆっくりと旅をする、あらゆるゆっくりとの中に、若いころには持ち得なかった充実がほのかに立ちあがってきたのである。

 

2013-07-15

徳島の山奥の上那賀町・拝宮・轟という地名のところに住む、手漉き和紙造形作家を訪ねました


しばらく文字だけのブログになるかもしれませんがご容赦ください。書いていることのあれやこれやを想像して読んでくださると、小生かたじけなく嬉しくおもいます。

 

さて、徳島の阿南市から、60キロの距離にある山の奥地、(那賀川の上流)標高600メートル、上那賀(かみなか)の轟という在所で、紙すき(和紙の造形作家)をされているN氏宅に一晩御邪魔し、昨日の夕方帰ってきました。

 

私の文章力ではとても伝えきれるものではないくらい、都市現代人の私には、まさにありきたりな表現ですが、N氏は生まれた場所の秘境の地で、(まさに孤高を保ちというほかはない)御夫婦と息子さんの3人で暮らしておられました。

 

着いたのが、夕方の5時過ぎ、昨日御昼前N私宅を辞するまでわずかな滞在ではありましたが、この間の上京とはまったく異なる充実感に浸ることになりました、現場に足を運び自分の身体で見ないと分からない感覚です。

 

一言、私にとっては、初めて行った土地なのになぜか懐かしい、我が故郷の、ご先祖も、その昔このようなところで自然に寄り添い、ひっそりと静かに暮らしていたに違いないと、おもえるような四国山地の、今風にいえば、限界集落(好きな言葉ではない)の地で、N氏は和紙の原料の楮の樹の皮を、かっては捨てていた部分まで全部使い、漉いておられました。

 

大から小(大きいのは畳一畳位の分厚い造形アートもある)、様々な色、模様、形、独特の夥しい工房の二階の作品群に圧倒された。そのうち、何枚か写真でアップできればと思います。

 

N氏は小さな森の巨人という表現がぴったりの方でありました。刃物を研ぐ姿や、鹿の肉を自ら研いだ包丁で切りわける姿は、私にはとてもかっこよく、男のはしくれとしては、羨望の念を持ちました。森の住人という形容が私には一番ぴったりという気がしました。その地に生まれ、その森の中でいまだに少年のように物づくりをして遊んでいる稀人。

 

私はあらゆる意味でコンプレックス(最近はいい意味で捉えなおすことにしています)が強いのですが、生業ではなく普通の男として鹿の肉を解体できるなんて、現代では限りなく少数者でしょう。夜、自ら囲炉裏に炭をおこし、鹿肉の火の通りがいいように、切り込みをゆっくりと入れてくれました。

初めて天然の鹿肉を食べましたが、簡単には火が通らず身が締まっていて、噛むほどに肉のうまみが、口の中に広がり単純な言葉では表現できない、鹿の生命を頂いているという、感覚を持ちました。

 

なんと、氏の家のすぐそばまで鹿がやってくるのです。私も小鹿を見ましたが、楮の樹の葉や、作物を食べてしまう増えすぎた天敵の鹿が、畑の網などにかかってしまうと、氏やその地に住む方たちは昔から、貴重な肉として食料にしてきたわけです。その伝統がいまだ受け継がれ、マムシなんかもすぐにさばける、生き抜く知恵が詰まった身体と、必須な腕を皆持っているわけです。

 

いまだ、このような暮らしの中で、和紙すきを持続、生活しておられるということの大変さ、先祖代々の在所の歴史を、今に受け継ぎ、和紙の持つしなやかな強さに、生命力と可能性を吹き込み、便利さと共にひ弱になった現代人の暮らしをも逆照射する氏独自の仕事は、私に深い問いを投げかける。

 

相当前に、一度個展でたまたま眼にして、買い求めた小さな作品が玄関に今も飾られているが、その作家に会うことが出来、杯を汲みかえし(御酒を控えられているとのことでしたが、その夜は少し飲まれました)わずかではあったが御話もできた。

 

氏の漉いた便箋や名刺用の、紙をほんの少し求めてきたの。これからはインターネットの暮らしの中に、ある意味での対極的な時間、墨を磨り文字を書く暮らしをしたいと私は願っている。

 

家族3人で漉いた、和紙に文字を書くとき、おそらく私はきっと、自分の両親や祖父母他、私の御先祖様たちと交信するかのような錯覚に陥るのではないか、という気がする、紙の霊力が私に何か力をくれるような。

 
最後に奥さまの、みちこさん(文字は正確には知らないので、平仮名にします)手作りのお鮨と野菜料理、シンプルでおいしかった。すべて、御酒に合いました。大変お世話になりました。この場を借りてお礼を伝えたく思います。ありがとうございました

無題・パソコンの調子悪く・写真アップできずごめんなさい。


退職後丸3カ月が過ぎ、新しい日々が、これまでのように、あたふたとではなく落ち着いて、意識的に過ごせる、つまりは限りなく制約の少ない、自主的な人生を歩み始められている幸福を噛みしめている。今こそすべてである。

 

75日から始まったのだが、今私はこれから8月末までの平日、これまで受けてみようとは考えもしなかった講座を受けている。まだ始まったばかりで続くかどうかも分からないので(いろいろと個人的なことを抱えているので)その講座を完了したら、このブログでお伝えしたいとおもう。(それまでブログを書く回数が減ります)

 

物心ついたころから、生と死ということが頭から離れず、またわずか61年の人生で、ヒトや、世の中は激変するということを、私なりに身につまされながら歩んで生きてきた。なんとか身過ぎ世過ぎこの年まで生きてきたが、この浮世というものの不確かさ、明日はどんなふうになるやもしれぬという、綱渡り的危うい時代状況は、なんともはやいかんともしがたく、ある種の言葉にできない不安感とともに、私の中にこの数十年居座っている。

 

私自身が明らかにこの21年で、平和ボケしているという認識がかろうじてある。私自身のガラパゴス化をなんとかしたいがために、企画を続けているし、人生途上トークを始めたのもそこに全ては起因しているということが、この間やってみて良くわかった。途上トークで私の生きた61年間という時代を振り返り、そこからまた新な一歩をとおもうのだ。

 

朝からこんなことを書くと何やら深刻だが、今日もまた世界をあまねく照らす陽は昇ってきた。なるようにしかならない、という自明の理の前で、私は今しばらくの間、あたふたと生きることになるような気はしてはいるが、やがてはそんなことさえできなくなるのだから、書いたり動いたり出来るうちに、悔いのないように、生きなくてはとおもわずにはいられない。

 

さて今日から、一泊二日で、徳島の山の中で(連れて行っていただくので、どこかよく場所を知らない)和紙を作られている方を訪ねる。これは念願というと大げさだがもう10年近く前、倉敷でのこの方の個展を見たことがあり、あまりにも素晴らしかったので、チャンスがあったらどのようなところで和紙を漉いているのかを、この眼で見たかったのである。

 

それが今日叶うのだ。嬉しい。人知れず山奥で、和紙をすいている方に私は限りなく惹かれる。私は和紙の素晴らしさにひかれる。和紙に筆で字を書きたい、今ようやくその季節が私の人生に訪れたのだ。だが、いい和紙は今の時代限りなく値が高い、だが書けるうちに可能な範囲で書きたいのだ。

 

やがて、企画も辞め、ブログも辞め、いわゆる老人になった時、父には囲碁があったが、

私にはない。だが父の遺した硯があるので、好きな言葉、好きな文字、歌や詩などを、誰に倣ったのでもないのだが、我流自在に書きたいという、ささやかな思念(おもい)があるのだ。

 

初めて経験するこの年になっても、生まれいずる悩み(ヒトにとって最も大切なことではないか)からヒトは解放されない。父も(おそらくこの世の大半の方が)おそらくはそうであったとは思うが、人間はいくつになっても、悩み続ける生きもの(だからこそ美や芸術が生まれる)なのであるからこそ、人間らしく生きるとは、という、哲学的絶対矛盾からは逃れられそうもない。

 

ならば、ハムレットのように敢然と、何事かに向かうしかない。

2013-07-09

第一回DVD上映とトーク・無事終わりました



本当に久しぶりのコメントを岡さんから頂きました。第一回のDVD上映会に関して、岡さんは中学3年生の時に高知の映画館で見られたとのことでしたが、私と彼女は感性に似たところがあるからなのでしょう。こういうコメントを頂くと、なんというのでしょうか、案ずるより産むがやすしというのでしょうか、参加人数の多寡ではなく、企画することで何かが見えてくるということがやはりあるのです。岡さんもいまだ、胸がキュンとなる感性を持ち続けているのですね。

 

さて、初めてのDVDとトークの会、ヒダカトモフミ支援会員に案内を送ったくらいでほとんどPRもせず、当日を迎えました。事前の予約は5人でしたが、当日4人、計九人の方が来てくださいました。ロミオとジュリエットのフィルムが長かったので、私のトークは1時間もなかったのですが、なにはともあれ、無事終えることができました。

 

アットホームな顔の見えるささやかな会でしたが、これからの人生の時間を、これまで出会えた貴重な方々と共通感覚を共有できるような、そしてまたお互いが楽しく刺激し合えるような、晩年希望を持って生きる。上手くは伝えられないのですが、小さきコミュニティ感覚の企画を地道に続けて行けたら、おもわぬことが起こるとの思いを新たにしました。

 

生きているのもまんざらではないとの思いを共有できるような、手の届く企画。(次回も楽しみにしています、なんて言葉を頂くと、企画者としてやはりやってよかったとおもう、次につながるのです。お相撲のように年に6回やりたくなりました)

 

これほどばらばら、無意識の断絶感覚のような、(金に人心がへばりつけられ身動きが取れないこれを何とかしたい)ヒトとヒトのコミュニケーションが暗礁に乗り上げたまま、どうして良いのかああわからない、ような、時代状況の渦中を生きざるを得ない、私を含めた多くの都市人民ライフは、心の脱水状況におちいらないように、何よりも心から笑いあえる仲間、場、よりどころをもたなければ、窒息してしまうのではないかというのが、この十数年の私の時代認識です。

 

さてどうすればいいのかという思案橋の果てに、今回の企画が生まれたのです。はなはだ個人的な企画ですが、岡さんが私に薦めてくれる映画もあるので、ゆくゆくは私だけの世界ではなく、参加メンバーの、岡さんのこれはというフィルムを上映したり、枠を壊し、双方向企画をというのか、まあ、つまりは出会えた仲間と遊びたいのです。

 

何が飛び出すかわからない、ヒダカトモフミと今を生きる時間を即興で過す、ピンで時間を止めるかのような、たまさかを共有し触れ合えるミニ企画を続けます。ともに小さな旅もしたい。

 

それからこれは社会的に生きている一人の人間として、企画者として何としてもやらなければならない、チベットの少年・オロ・のフィルムと本橋成一氏がプロデューサーを務めた、愛弟子、はなぶさ・あや(はなぶさの漢字はパソコンでは出ない)監督の・祝(ほうり)の島・の2本のフィルムの上映会を秋に連続して行いたいと考えています。これについては、このブログでまた、しっかりと伝えます。私にとっての大きな企画です。

 

ともあれ、そのささやかな隙間に超ミニ企画も続けます。虫のように生きながら、ときおり、天から眺めるような企画もやらなければと、考えています。どうかどうかよろしくお願い致します。最後に、第一回の上映会トークにいらしてくださった方々に、この場を借りて心から感謝します。ありがとうございました。

 

2013-07-07

七夕の今日、第一回DVD上映トークをします


531日のブログに私は椎名誠さんのことについて書いている。起きて朝すぐに、身体があまり起きていないときに書いた記憶がある。いわゆるニュートラルな状態で、思いつくままに書いたものである。

 

私は9割のブログ、起きてそんなに時間が経っていない、身体が非常に謙虚な時にブログを書いている、ように思う。何故なのか考えると、やはり眠ることによって、身体がリフレッシュされ、オーバーに言えば生き返ったかのような感じが、朝の時間のしばらくには、あるように思えるからだ。

 

昨日の続きに今日があることは、自明の理なのだが、明らかに昨日と今日は違う一日なのだ。そしてその一日は、もう2度とやってこない、自分の人生で最も新しい時間というわけだ。可能なら、その一日を新鮮に、もう歳だなどと思わず、生きる方法のようなことを探してみたいものだという、いい意味でのじたばた感が、恥ずかしくはあれ、いまだ止まない自分がいる。(止んだら素直に止めます)

 

高峰秀子さんの本で知ったが(斎藤明美著・高峰秀子の捨てられない荷物)谷崎潤一郎が言っているそうである、「われという人の心はただひとり、我よりほかに知る人はなし」と。まさに然りと思う。がしかし、私は憧れの高峰さんとはほんの少し、考え方に相違があって、今しばらくヒトとヒトの間、人間(自分にとっての)の関係性ということを考えてみたいという、いわば煩悩のような、熾きがいまだ止まないのだ。

 

だからDVD上映トークをやりたいのではないか、というようなことを昨夜考えているうちに眠りに落ち、起きてつらつら書きとめておこうと、書いているわけだ。DVD上映会で何を上映するのかも知らせていなかった(その時点では何をやるか決めあぐねていた)が、上映するのは、フランコゼフィレリ監督のロミオとジュリエットに一週間前にきめ、17歳で観て以来、落ち着いて45年ぶりくらいに一人静かに見た。

 

観て良かった。やはりこの作品に出会わなかったら、今の自分はないということが、はっきりと確認できた。その細い糸が、シェイクスピア遊声塾にも繋がっているということも。

 

半世紀近く前の、それもちいさな画面のDVDでしか観ていないのに、すぐれた作品は古びない。400年も前のイタリアはヴェローナの若い男女の悲劇を、45年前の九州の田舎の映画館で、異国の高校生が見ても感銘を受ける、芸術的感情のエッセンスとは一体何なのか。生と死、血と暴力と愛。

 

一人の田舎者の少年の人生を、ある意味で狂わせてしまったほどに、出会うタイミングがあまりにも、主人公たちと近かったというしかない。

 

それにしても映画的に、膨大な台詞を大胆にカットして、異国の田舎の高校生をびっくりさせた、ゼフィレリの気品と中世の香りにあふれた演出力、美的造形力は、芸術性と娯楽性を兼ね備えていて、今も61歳の私を驚かす。そして、すぐれた演出家の手にかかると、シェイクスピアが、時代を超えて忽然と生き返ることも。

 

このフィルムは長いが、今見ても一気に引き込まれる。したがって、今日の私のトークは30分くらいしかしゃべれない、ないそでは振れないが、先のことはあまり考えず、とりあえず第一回、始めようとおもう。

2013-07-06

老春、上京三日目・土曜日の出来事を忘れないうちに


もう早くも一週間前のことになってしまうのであるが、ほんのわずかでもいいから上京3日目、土曜日のことを書いておきたい。

 

小津安二郎監督のあまりにも有名な作品、東京物語ではないが、私もちょっぴりとそんな気持ちを胸に秘めながら、ゆっくりと三田の宿を引き払い、K氏と共にまたもや新宿に向かった。お昼の約束だったので、新宿でK氏と御茶を飲み、お別れした後、私は娘たちの住む調布に向かった。

 

昔、それこそ40年数年も前、何度も行ったことのある調布の駅のまわりは、当たり前だが浦島太郎の感があるくらい、様相は一変していた。駅から連絡すると、レイ君が自転車で迎えに来てくれた。娘が選んだこの青年、家族全員お気に入りです。

 

ゆっくりと歩いて15分位のところに、こじんまりとしたマンションがあった。なんと近くには牛を飼っている農家や農業を営んでいる方たちも住んでいる。都心とはいささか趣が異なる、のどかなところに在る瀟洒な建物で、二人で暮らすには充分な部屋に婚約した娘とレイ君は住んで、新しい生活を始めていた。5月に訪ねた妻から話は聞いていたが、一安心、とてもいいところでした。

 

自分が上京した時代に住んでいたところとはあまりに違うので、いささか時代のずれのような、隔世の感にとらわれながらも、若いなりにしっかりと新生活をしていることに、親として安堵を覚えた。

 

娘のところで、シャワーを浴び、レイ君のYシャツに娘がアイロンをかけてくれ、それを着て、約束の午後3時、東中野に3人で本橋成一(是非検索してみてください)監督を訪ねた。監督は御忙しい中、時間を作ってくださり、5年ぶりくらいに娘たちも共に、旧交を温めることができた。そしてなんと本橋監督は、娘とレイ君に、アレクセイと泉・ナージャの村の2本のDVDを婚約のお祝いにプレゼントしてくださった。

 

監督は、現代という混沌時代の中でどのような暮らしを営めばいいのかという、人間生活の根源に深く切り込んで考えてゆく仕事をなさっているすごい人なのだ。あらゆる意味で大先輩なのに、私ごときにも気楽に会ってくれ、懐が深く細やかな気配りは、いつも私を感動させる。

 

岡山で10年くらい前に、監督のフィルム・アレクセイと泉・の自主上映を一回やっただけなのに、わたしの退職にも過分な心温まるお祝いをして下さった。土門拳賞や太陽賞に輝くすごい写真家に、お祝いしてもらったことは、我が人生のささやかな誇りである。

 

わずかな時間ではあったが、監督からは言葉数は少なかったものの、岡山で私がやれそうなことをやってほしいという思いを感じた。

 

まだまだ、話したいことがたくさんあったのだが、続きは岡山で・祝の島・の自主上映会をやってからにしようとの思いを秘め、監督とお別れした。

 

その後3人で有楽町に移動、岡山に移住する前からの交友が続いている面々、土取さんのイベントでは欠かすことのできない音響技師、それにもう一人こないだ、雨の中岡山に立ち寄ってくれた、K氏の娘さん(その女友達も、もう一人のK氏は2次会から)総勢8名が、ガード下の飲み屋に集結。これだけの面々が一堂に会するのは、何かの力が働かないと無理。

 

再会した瞬間から、いきなり皆歳も忘れハイテンションで、楽しいというしかないひとときは、梅雨の晴れ間の闇の中で、矢のように過ぎた。私は自分の友達の宴の輪の中に、K氏の娘さんや我が娘、そしてレイ君も溶け込んで共に飲み語らっていることが、まるで夢のように思えた。

 

つかの間、たまゆらの、夢幻的時間というしかないこの夜の出来事は、死ぬまで忘れないだろう。たとえ一週間遅れではあっても、集った面々を、きちんと書いておきたい。河合博昭・小島京志・小島渚・須藤力(つとむ)・野の上勝男・日高怜(レイ)・日高満智・そして私。

 

61歳の人生途上で、このよういまだ喧嘩もできる、熱き愚直な友人たちに出会えたことは、我が人生の宝というしかない。今回の上京は、充実無比、特別な上京となった。再確認、再出発のエネルギーが我が身体に湧いてきている。

 

明日は七夕、私のDVDトークの第一回である。自分でも何故こんなことがやりたいのかは判然としないのだが、理知的な冷静さには程遠い自分の性格が、簡単にいえば情動が湧いてくるのだ。過去の時間の上に在る、自分の生活を振り返るのではなく、今現在を確認をしながら、小さきことを追求したいのだ。

 

とりとめなき、即興朝ブログ、翌日曜日娘のところで午前中過ごし、お昼は私と妻が出会った場所吉祥寺で昼食をし、娘たちと別れ岡山への帰路についた。昼食はレイ君が中国の四川料理を御馳走してくれた。

 

 

6月30日夜有楽町で逢えた面々