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2013-04-30

雨の朝、静かに過ごせる22年ぶりのGWをかみしめる



21年間通った夢が原を辞して早一月が、なんともはやくあっという間に過ぎようとしている。GWといえば夢が原で缶詰のような日々を過していたので、今年のGWは私にとっては、本当の意味でのGWを22年ぶりに過している。

 

ことさらには何もしない平凡なGWがこんなにもありがたいということの喜びをかみしめている。GWが終わるとすぐにエリックマリア氏のライブがあるし、遊声塾も始まったし、これまでできなかったことがいろいろとあるので、時間がやりたいことのために自由に使えるということの嬉しさは、たとえようもない。

 

この年になると、時は金なりは至言だとおもう。それにしても、極めてはなはだ個人的な感慨なのだが、書物に親しむ時間が増えたのが嬉しきことの中の、やはり一番に挙げられるという気がしている。いまさらながらに、これはきりの無いことではあるが、自分の無知を知る日々である。

 

謙虚に何事かを知るためには、思考の柔軟さということが欠かせないような気が限りなくします。人生は短く芸術は長いとよく言われます。私自身これから何冊の本が読めるのかは、皆目わかりませんが、冷静に何歳まで生きたとして、計算すればおおよそその数は、本の海を考えれば、おのずと明らかになるとは思いますが、そんなことに意味があるのかどうかは、私自身は懐疑的です。

 

一冊の本を繰り返し読む、その行為の中から無限の叡智をくみ取る力を身につけることなくしては、いくら本を読んでも意味を為さない、そんなふうに私には思える最近なのです。

 

これは映画(あらゆる心が動かされる文学、音楽、芸術や芸能全体)なんかを見て感動しても、日々の自分の暮らしの中に、なのごとかを活かしてゆく行為、アクションのようなことが生まれてこないと何か、感動するということの根源的な意味のようなことが、何やらうすら寒く、私の場合は感じてしまうのです。

 

余計なことではあるのですが、私の場合感動すると何かしたくなるという性癖があるようで、そのことがつまりは私における生きているということなのだと、認識理解しているということだと考えています。

 

だからスポンティニアスな精神活動ができなくなった時は、潔く廃業しようと考えているのですが、有難いことに煩悩を抱えて、いまだ心と体がいきいきといろいろ感じ、反応するということは、何事にも代えがたいとおもいます。

 

 

 

2013-04-29

杉浦日向子さんの遺した宝石のような言葉



意味もないよしなしごとを綴れる時間が、なんとも幸せに感じられるということはありがたいことだと、またいつものような書き出しでの、マイブログです。

 

4日もブログを書いていなかったのは、何とはなしに書くこともなかったということではなく、書かなくても書く以上の事に時間を費やしていたからです。私ごときのブログでも、心身が健やかで、落ち着いていないとなかなかに文章は生まれないのです。

 

一昨日から、妻が10連休のGWに入り、妻との時間を過すことにしています。妻は仕事を持っていますから、普段出来ないことをGWにあれやこれややろうとしていますので、私も可能な限り共に行動しているのです。

 

彼女にとっての娘とも言える愛犬メルとの遠出のお散歩に、昨日近くの公園と小高い山寺にいったのですが、車で10分位のところにこんな素敵なところがあるのだということを、住んで21年にもなるのに、知らなかった自分に驚きました。

 

住んでいるところの近くを、妻とメルと3人で探訪する時間が、ようやく我が人生にやってきたのだとあらためて感じました。我が家の近くを流れる砂川の上流は自転車でサイクリングするには最高の道なので、普段もこれは私の個人的な散歩コースにしようと決めました。

 

心と体がいきいきと動くためには、何よりも好奇心が大切です。シャレではなく、シェイクスピアを翻訳する駄洒落の名人小田島先生は(私はこの方に文学座で習った)好奇心は高貴心、だなどとおっしゃっていました。

 

ところで話は変わり、私の好きな(わずかしか読んだことがないのですが、繰り返し読みたくなり惹かれる、2005年、46歳の若さで逝去された)杉浦日向子さんの遺した宝石のような言葉を編んだ本を、寝る前にこのところ手にしているのだが、素晴らしい。

 

多々耳が痛くなり、そうだよなあ、と芯からうなずく61歳の自分がいる。私にとっては宝石のような言葉が満ちている。よくぞこんな素敵な言葉を残してくれました、しかとその言葉噛みしめたく存じます。これからまた一つやりたいことが増えた、言葉を筆で書く時間を持つということはすでに触れたが、何としても彼女のなんとも粋な言葉を、書きたくなった。

 

粋に隠居し、どっこいしぶとく、風情風流に企画し、遊声塾も、一も二もなく現代からは遠く離れた私塾を、自信を持ってやりたくなった。

2013-04-24

ヒダカトモフミのシェイクスピア遊声塾始まります



自分にしかわからない、いろんなよしなしごとを、日々内面に抱えながら、ともかく今日もまた一日を迎えられることの、平凡な仕合わせを噛みしめ、明るくなってきた、雨の朝の庭を眺めながら、ブログを書いている。

 

いよいよ、今日からシェイクスピア・遊声塾が始まる。新聞の記事で反応があっても、月謝まで払って、具体的にどんなことをやるのか、イメージが結びづらい私塾に、月謝を払ってまで参加される情熱を持ってくださる方がいるのかいないのか、正直皆目分からなかった、だから私は反応のあった方々に、直接あって面談し私の思いを伝えた。

 

事前に間違いの喜劇のテキストを買って、可能なら読んで来てくださいと。ちょっぴり気になって、男性二人の方に電話を入れてみたらすでにテキストを手に入れておられて、安心した。ゼロならスタートしようもないのだが、新聞を読んでの参加者が4名いるということは、私としては充分ではないにせよ、言葉にならないおもいに満たされるのだ。

 

人間は、おぎゃ、と生まれてから、息を引き取るまで、おそらく声を出し続ける生きものである、という定義が可能だとおもうのだけれども、私自身声を出すということを意識するようになったのは、1970年、18歳で田舎から上京し、小さな演劇学校に入ってからである。

 

演劇を学んだことは、辞めたのちも、その後の人生を生きてゆく中で、今に至るも私を支えてくれている大きなことであるという認識を私は持っている、それは一言でいえば、多面的な思考が可能だということに尽きるのではないかというのが私の考えだ。

 

井の中の蛙の私は、演劇といういわば哲学的な世界にかすかに触れられたからこそ、おそらくその後の人生を泳ぐことができたのだという感慨を持つ。ゆきずまったときに、シェイクスピアの登上人物の台詞が、救いというのではなく、自分の置かれた情況を相対化し、足りない頭で考える力を、声を出すことで救ってくれたのだ。

 

千変万化する、シェイクスピアの豊饒な言葉の世界を、明治時代の先人からから今に至るも翻訳挑戦され続けているお仕事には敬服する。そこには文語体から、口語体まで、激変する時代の中での、日本語の豊かさが、台詞という形で満ちている。

 

シェイクスピアの膨大な台詞を声に出すことは、IT万能、ほとんど声を出さずに済む現代人にはなかなかに冒険だとは思うけれども、電気も何もなかった時代のエネルギーあふるる時代に書かれた台詞を、声に出すことで貧血気味の身体に精気を取り込みたいと、ヒダカトモフミは遊声塾を始めます。

 

過去に出会った方々との縁・きずなを深めてきたいと、61歳の春に思う



年賀状のやりとりだけは私が岡山に移住してからも欠かさず続いているこれまた奇特な友人が私にはいる。この21年間に会ったのは、私が岡山に来たばかりのころ、彼が岡山にきてくれた時と、彼の結婚式が栃木県の那須塩原で行われ私が訪ねたとき、この2回だけだと記憶する。

 

ときおり、ふっと思い出す私の友人関係の中では、得難い雰囲気を持った、いわゆる私とは全てといっていいくらい対照的な、異なる世界を持った(彼は獣医師なので、私のように気楽には旅ができない)方なので、私の方でかなり一方的に惹かれるのである。

 

妻との出会いも含めて、出会いということの摩訶不思議さが、人生の大半を決めてしまうというのが、私の人生観の主な見立てであることは、度々このブログで書いている。彼との出会いは、今から30年前、倉本聰氏のドラマで使われた北の国からの主人公一家が住んでいた丸太小屋に、富良野塾に参加する前私がしばし滞在していたとき、当時北大生だった彼が訪ねてきたのが出会いである。

 

あの日のことは、かなり鮮明に私の中の記憶に残っている。まさに人生の岐路に立ち青春と呼ぶにはいささか遅すぎ、これからいかに生きてゆくべきか苦悩を抱えていた私に、富良野の大地の上での、わずかな時間ではあれ彼との交流は忘れ難い。あの丸太小屋での私を知っている貴重なヒトでもある。現在の私は全ての過去の行為の上に在る。

 

今考えると悩みから逃げず、愚直な位に真摯に生きていた自分の姿が甦って来て、いささか胸が熱くなってくるが、そのような人生の季節に出会ったという意味でも、心から大切なわが友のひとりである。

 

61歳の今、これからの人生での私がやりたいことが、この一年の試行錯誤でかなり明確になりつつあるのだが、そのひとつは、これまでの人生で出会い私を支えてくださった方々と、これから本格的に再会し、交流をあらためて深めてゆく決意を固めたのだ。それが可能な季節が訪れたのだ。

 

私は昨年からヒダカトモフミ支援会員なるものを募っている。主に県内の方が対象ではあるのだが、厚顔は承知しつつ東京をはじめとする県外に住む私の大切な友人にも簡単な思いを伝えた。おもわぬ反応に私はまたもや、本当に大切な大事なことについてあらためて考え始めている。

 

案内を出しひと月、県内外からこれからの私の活動を応援する方々からの支援がポツリポツリ、ゆっくりと届く中に、彼からも応援の言葉(彼からの昨年の葉書の言葉には励まされた、大切にとってある、文字に人間性がにじみ出ている)が昨年に続き届いたのだ。言葉にならない嬉しさと責任の重さと同時に、新たなエネルギーが湧きあがるのを感じている。本当の意味での絆ということについて。

 

今私は、とにかくこの支援会員の方々を対象中心にした、企画や、人生途上トークをすごくやりたくなってきている。これまで縁があって出会い、私ごときのやることを支援してくださる方々との、交流の深まるようなミニの企画をうすらぼんやりとは考えていたのだが、支援者の顔が、私にこうしたらということを教えてくださるような気がしてきたのである。

 

支援会員対象の声を出す会、人生途上トーク、旅行(任意で)、DVD観賞などなど、名簿を作り、支援会員には企画をお知らせするのと同時に、ヒダカトモフミ通信なるものも、年に4回は出すことにした。ことほど左様に、個人でギリギリのところで生きてゆく覚悟を決めると、何やらすべてがくっきりと自分の中で整理されてきたのである。

 

エリックマリア氏のような一般対象の企画もするのだが、支援会員との交流を深めてゆける共有時間を過したいのである。なぜなら、人生の時間は有限だからである。あらゆる意味で再出発、再整理、再会の4幕目の幕がこれから開くのだということを感じる春である。

 

キィワードは、【遊】あそぶ中で関係性を深め精神の花が咲くことを願わずにはいられない。

 

 

2013-04-22

春の光・春の風を満喫・穏やかに流れる夫婦の時間を中心に。


玄関のスミレ

世界的な日々の重大な出来事に関しては、それとはなしに関心がないのではなく、それなりに受け止めながら、なにはともあれおそらくほとんどの方が私と同じように、とりあえずの自分の為せる日々を送っているのに違いないと、おもいます。

 

退職し4月も早3週間がまたたく間に過ぎました。性格的なものがおおきいとは思いますが、ようやく拘束されない時間が我が人生にやってきたという喜びの方がおおきいせいか、充実した日々が続いています。

 

やりたいことが、自分の中に湧いてくるということが、今更のようにあり難いことだと感じます。何かを集中してやっていると、枝がわかれるかのように、脳のシナプスが活性化するのが何とはなしに感じられ、気持ちのいい流れで日々過ごしています。

 

さしあたって、午前中は、お手紙を書いたり(退職の挨拶他)読書の時間と、24日からの遊声塾のことに関して、午後は511日の、エリックマリアのチェロのソロライブのPR,夕方からは、妻が働いているので家事の一部をこなしたりしていると、日中の身体が元気な時間は過ぎてゆきます。

 

一日がまた次の一日を呼ぶという、そんな日々循環の繰り返しで、生きてゆくことの本質は、夢が原で働いていた時と変わらないという感じですが、充実感はまるで違います。

 

土日は妻がお休みなので、これからは可能な限り妻との時間を最優先したいと考えています。21年間妻とはすれ違いでしたから、これからはとくに妻の大好きなガーデニングや、家庭菜園を私も共に学びたいし、身体を動かすことは夢が原で大好きになったので、土を耕すなんてことで、恩返しがしたいのです。

 

話は忽然と変わりますが、昨日午後妻と二人で本当に久しぶりに、【ゲーテの恋】というというDVDを見ました。いい意味で年をとったからこそ味わえるクラシカルな私の好きなフィルムでした。娘の婚約者がドイツの方なので、やはりヨーロッパの歴史や、文学性の香りの高い作品を見てみたくなるようです。

 

これからは、週に一回二人で過去の名作を見る時間を設けようと、話し合いました。素晴らしい作品は心をすがすがしくしてくれます。

 

エリックマリア氏の、チェロの響きが、今から本当に楽しみです。

2013-04-21

亡き父の形見の硯で文字を書くひととき


恥ずかしくも61歳の書

父が使っていた硯を磨って、文字を書くことをこのところ,機会を見つけて始めた。いつの日か落ち着いた時間が自分に訪れたら、我流でもいいから、ゆっくり墨を磨り、文字を書いてみたいとおもっていたことが、ようやく実現し始めたのである。

 

亡き父が、巻紙の和紙に筆でよく便りをさらさらと書いていたのを、そばで眺めていた幼少期の記憶が、私を書に誘うのかもしれない。父の書も我流だと言っていたが、父らしい文字の書が残っていて、パソコンばかりではなく、墨の香りを嗅ぎ、毛筆の弾力を身体で感じながら、精神を集中しながら文字を刻むのは、今ようやっとこういう時間が持てるお金のかからない、私の遊び心を満たすのである。

 

現代という、わけのわからないほどに生活するだけで忙しい、否でも精神が千路に乱れざるを得ないような時代状況に在っては、ヒトは本能的に精神と体のバランスをとらざるをえない。

 

そういう意味において、書は、61歳からの手習いで始める、私の個人的な楽しみとして欠かせないようなきがしていて、しっかりと取り組んでみたいという気になっている。心が何やら落ち着かないときに日本語の文字を書く、(静かに取り組む)時間を大切にしたいのだ。

 

どこか心に余裕がないと、声を出したり、企画をしたりするという行為はなりたたないように、書もまた然りなのである。これからの仕事を充実させ深めてゆくためにも、始めたばかりにもかかわらず、書は私にとっては必須になりそうな予感がしている。

 

先人たちの詠んだすぐれた和歌や言葉を和紙に筆で書く、ただそれだけの行為といえばそれだけのことなのだが、意識を集中する訓練には、私の場合あっている気がする。何事もそうだが、やろうとおもったら続ける、しかない。

 

これまでもそれなりの気づきの中で、年齢的に無理をしない程度に、毎日ささやかに身体をできるだけ、ゆらしたりして遊ぶ、体操を心がけていて(これも我流なのだが身体が気持ち良くなる体操)、遊声塾でもやりたいとおもって思っているのだが、4月からまた一つ始めたことがある。いまのところ雨の日以外毎日続けている。

 

3カ月続けられたらブログで伝えたいとおもっている、一回もできなかったもっとも苦手だった懸垂はなんとか2年以上続いている。無理をしないことと遊び心、が続けるコツである。

2013-04-18

真庭郡落合町に住む、M女史を訪ねました


生家にたたずむMさん

昨日いつの日にか、仕事を辞めたら訪ねたいとおもい続けていた、真庭郡落合町に住むM女子に彼女の生家でお会いすることが叶った。

 

この方も遠方から、私の企画したこれまでの多様なイベントの事ごとに、足を運んでくださった、私にとっては宝石のような方なのである。私と同じ年なので、やはり同時代を生きて呼吸してきた安堵感のようなものがあり、性差を超えて親近感を覚える方なのだ。これからは時間ができるし、本格的に晩年を共に遊べたらと願う、貴重な何人かの女友達の一人である。

 

生家のまわりを案内して下さったのだが、旭川のすぐ近くの彼女のいわば原点の家は、今も日本の農村の家の原風景の面影を残すに、充分なたたずまいで、私を感激させた。私の生家は時代の流れにのみこまれ、2年前に跡形もなくなったが(今は私の記憶の中と、写真の中にある)彼女の家は、私の原風景を刺激した。

 

御両親が健在での3人暮らし、つつましやかに田畑を守り地に足のついた、彼女の暮らしは、私の暮らしには乏しいい落ち着きが感じられ、あらためて貴重な女友達として再認識した。家のすぐそばを水路が流れ、泥のついた野菜なんかすぐ洗うことができ、柿、もも、他の果樹はもちろん、生活に必要な野菜が植えられ、野生の蕗、ウド、ウドナ、(初めて知った)三つ葉、ノビル、(自分で初めて採った)くりなど、お土産にたくさん頂いた。

 

家のまわりのことを、説明するMさんはまるで少女に還ったかのように嬉々としていた。ヒトにもやはりよるのだろうが、私の企画するようなことに足を運ぶ感性の持ち主は、どこかに少年や少女の面影を残しているのだということを感じずにはいられなかった。

 

お昼、御両親と共に外に縁台を出し、彼女お手製の炊き込みごはんを頂いた。とても美味しく、少し御代わりも頂いた。今は亡き私の両親を何度もおもいだした。よく庭を眺めながら、食事する両親だった。

 

Mさんにエリックマリア氏のチラシを渡したのだが、お仕事で(彼女は落合からかなり遠い病院で検査技師として働いている)聴きには行けないけど、チケットは音楽が好きな方に、とおっしゃり応援会員に今年もなってくださった。

 

私ごときの仕事を応援して下さる、地に足のついた方の目線は、限りなく私を謙虚にさせる。あらためて上手く表現できないが、(根を深めてゆく仕事を)一期一会の関係性をアーティストはもちろん、友人知人、家族、この人生で出逢えた大切な方々との、これからの時間を深めてゆきたいとおもわずにはいられない、小さな旅となった。

ウドの葉のてんぷら最高でした

 

 

2013-04-17

ヒダカトモフミの遊声塾が新聞記事になりました



413日(土)山陽新聞に私の始める私塾に関しての記事が掲載された。私が一年間の試行錯誤の果てにようやく24日(水)から岡山天神山プラザで始める、ウイリアムシェイクスピアの間違いの喜劇をテキストにしての声を出す塾に関しての記事である。

 

この記事を読んで問い合わせてくださった方が、3人ほどいらしたのでこの数日、我が家にわざわざきていただいたり、私が出かけたりしてお会いした。記事だけではなかなかにお伝えできないことを、直接伝えたかったからだ。

 

私なりに、何故こういう塾を始めるのかを伝え、良かったら是非参加してほしいとお願いした。とにかく音楽会であれ、何であれ、他人様からお金を頂いて何かを為すということは、生半可の事ではない。ともかく参加者があり来週から始められるということに関して、この一年間私なりに試行錯誤してきて、曰く言い難い、責任の重さと嬉しさを、今感じている。

 

この記事を読まれた私のことを全く知らない、まっさらの出会いから縁あって個人的私塾に参加される方々がいるということに関して、ゼロでば無理だが、ひとりいればとりあえず始められるし、3人もの方の反応があったということは、私にしかわからない喜びである。

 

昨年の邦楽番外地からの出会いなのだが、この記事を書いてくださったM記者には、心から感謝している。限られた行数の中で、最大限の私の想いを伝えてくださっている。彼の記事の大きさを感じている。

 

61年間生きてきて、振り返り今更のように感じるのは、そんなに多くの方はいないのだが、このブログでも何回か書いたけれども、私ごときが世の中に出てなんとか世間の荒波の中で生きて来られたのは、ヒトとの出会いのおかげなのである。

 

妻との出会いは決定的だ。妻は自分のことに関してブログで触れられるのは極端にいやがるので、ほとんど書いたことがないし(私も書きたくはない)、いつの日にか、ブログではなく運命的な出会いに関しては書きたいと思っているが、34歳の時妻と出会わなかったら、と、ときおり考える自分がいる。今も妻はさりげなく私を驚かす。

 

私が61歳から再出発できるのは限りなく妻のおかげである。出会ってからの私の事を全てそばでみている。彼女にできるだけ迷惑をかけず、彼女の理解がある間、今しばらく私の中に湧いてくる活動をやりたいのだが、最後は私の父親がしていたように、夫婦だけの時間を過したいとおもっている。

 

 

 

 

2013-04-14

エリッマリア氏の奥様と電話でお話が叶いました


経歴がより詳しくなったチラシです

エリックマリア氏の奥さまである、彩さんと初めて電話でお話をすることが昨日の朝叶った。何度もお電話を頂いたのに、私が電話番号をきちんと伝えなかったりで、すれ違いが何度か続いていたのだが、ゆったりとしたお声を聴いた瞬間に、何かほっとする感情が湧いてきたのは、やはりお人柄が私に伝わってきたからだと思う。

 

私の方こそ、もっともっといろんなお話がしたかったのですが、はやる心を押さえて、日本で、電話ではなく直接お話をできる時間が持てることを、楽しみに待つことにいたしました。後2週間もしないうちにエリックも彩さんも、来日されるのですから。

 

それにしても、311日にメールを頂いてから、あっという間に時間が流れているという感じで511日に向かっています。生きてゆく上でのあれやこれや、三月から四月にかけては日本人にとって、何かとあわただしいことが続く季節のなかで、一日一日やれることを悔いなくやって、エリックマリア氏の岡山での初ライブを迎えるべく、冷静に後4週間過したいと思います。

 

彩さんとお話をしていて、あらためて私が企画したいと願うチェロ奏者、エリックマリア氏の、日常のチェロの訓練に賭ける時間の氏の情熱には、(間接的にお聞きしたとはいえ)圧倒されました。なんとも表現しがたい修業の果てに紡ぎだされてくる、一音一音はあだやおろそかには、聴くことが叶わぬ至高のチェロの響きなのです。

 

土取さんとの御縁でたまたま出逢えたエリックマリア氏は、私の直感を超えたところの、領域を(いわば前人未踏のチェロの音の世界)探求している希有なヒトなのだということが、あらためて奥様と話をしていて私に伝わってきたのである。

 

40歳、企画者として再出発し、61歳の最初の私の企画が、チェロ奏者(クラッシックな古典楽器・魂の琴線に直接語りかけてくる)エリックマリア氏になったことに関しては、何か私なりの巡り合わせというしかない、この年になったからこそ、心から企画できるのだという思いが、私の中にあふれてくる。

 

この21年間、一本一本木を植えるようにこのカオスの時代、乏しい才能で私なりに試行錯誤しながら企画してきたのだが、これからはますます時流におもねることのない、普遍的な仕事を真摯にされているアーティストと巡り合いたいという念いが深まっている中、何かがエリックマリア氏を私と巡り合わせてくれたのだと思っている。

 

 

2013-04-13

突然の地震の朝に思う


故郷の高千穂の新緑

起きて間もなく、先ほど岡山では珍しい震度4を計測する地震が起きた。すぐテレビをつけたが、淡路島や大阪はもっと揺れが大きかったようだ。震度4でこれだけ体感するのだから、89という揺れは、想像を絶するということ、だと思う。

 

われわれが生かされている、この惑星はまさに、大いなる宇宙の中で、地中深く見えないところでたぎりながら回転し、動いているのだということを、たまさかこうして思い知らされる。大いなる天変地異の変動に遭遇しては、ヒトはやはり、科学や技術がいくら進んだとはいえ無力だと、私は思い知らされるべきだという立場に立つ。

 

だからこそ、人の人たらんとする、道のようなことを、あまたの先人のすごい方々が、人類の知的生き方を探求してこられたのだということを思う。その方々のやって来られた、すぐれた知的遺産は、手を伸ばせば五感で触れられるところに、書物を始めとする多様な表現で遺されている。

 

その宝に、今を生きる私をはじめとするヒトはなかなか、触れる時間がないままに、あるいは触れようともしないままに、生活に追われ、為すすべもなく大いなる力に、思考を奪われてゆくかのような、時代なのではないのかという、気がしている。

 

お金がないと不安という魔物にとりつかれ(必ずニュースで、円高円安を報じなければならない、株価の上下に、一喜一憂しいなければならない)ながら生きなければならないという、われわれの暮らし。私が生まれ落ちてから生きてきたこの61年間という時代は果たしてどのような時代であったのかということを、私は考えてしまう。

 

消費を美徳とするかのような、心までがお金にからめ捕らてしまわざるを得ないようなシステムの中で、果たしてヒトはどのように生きてゆけばいいのか、なんてことを、いまだ私はいい歳だからこそ、考えてしまうのだ。考えられなくなったら現役を引退し、静かに過ごすことを願うばかりなのだ。

 

考えるから、絶対矛盾を抱えざるを得ないとしても、邦楽番外地や、エリックマリア氏のライブを企画したり、ヒダカトモフミのシェイクスピア遊声塾のようなことを始めたいという、いわば業のような、自分自身からは逃れようがないというのが、現時点での私の認識なのだ。

 

50歳を過ぎるころから、私は本当に生きたお金を使うようになった(使うお金が限られているからこそ、ある意味で勉強ができ、企画が生まれる〉と思う。

 

この21年間、人並みに子育てしながら、限りない妻の理解があったとはいえ、企画が

続けられたのは、悩みながらも思考する身体と時間を持てたこと、わずかなお小遣い、それと私の仕事を今も応援してくれる、友人知人の存在を抜きにしては考えられない。

 

朝の地震で、何やら論旨のまとまらないブログになったように思うけれど、百の書物も読まなければとはならないことは言うまでもないのですが、やはり身体全身で感じる、体感する事を取り戻すことが、今ほど必要な時代はないのではないことを思い知る私です。身体在っての心という私は立場です。

 

だから、恥をかきながら共に声を出す塾を、私はバーチャルではなく、リアルワールドで424日から、とりあえず始めたいのです。そのことに関する私の記事が、今日山陽新聞に掲載されます。