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2025-05-31

5月31日の朝に想う、五十鈴川だより。

 5月末日の朝である。4月30日のスパイラルアームズを終えてはや一月である。いきなりだが、高校生のときに観た、北欧の映画だったと記憶するが、【短くも美しく燃え】というタイトルの映画があった。中身はほとんど今となっては記憶がない。ことほどさように、鮮明に記憶している映画もあれば、まったく記憶の奥底に埋もれてしまい、2度とよみがえらない映画もある。でもタイトルだけでもおもいだすのはいかなる故か。

教えられた、刺激を受けた。

老いの移ろいを、五十鈴川だよりに打ち続けるのは、ジコトウスイ煩悩なるゆえと、自己肯定する。この年齢になって、普段の生活のなかで一番嬉しいのは、孫たちの成長に触れるときである。子煩悩ならぬ孫煩悩である。世の中にはお子さんに恵まれなかったり、お孫さんがおられないかたも多く存在する。

私は恵まれている。そのことへの大いなる極めて当たり前な喜びは、授かったものにしか感じ得ようもない心持ちというしかない。そして、その心持は人それぞれ千差万別である。私が五十鈴川だよりに孫たちのことを打つのはそんなに回数的には多くはない。

なぜ孫たちのことを打つのかというと、将来私がこの世から消えて後、孫たちの誰かが、五十鈴川だよりを読んだときに、時おりお爺が自分達のことを、書いていたことを、伝えたいからである。これも人間の性、煩悩なのだろう。

孫たちとは時おり映像会話をする。ほとんどはありがたいことに、こちらからではなく、娘たちの方からかかってくる。長女次女家族とも共働きなので、子育て真っ最中である。6月半ば、長女の旦那さんが海外出張に一週間出掛けることになったので、家事応援に妻が出掛けることになった。嬉しかったのは、長女の息子のノア、次女の息子の葉、それぞれから、妻や私に上京してきてほしい、という言葉を直接聞けたことである。元気なうちに男同士、孫たちにお爺との思い出を刻む遊び時間を大切にしたい、のだ。意味もなく遊ぶ。これにつきる。

爺バカと言われようがかまわない。老いての一番の喜び、もっと打てば一番の楽しみは、お役に立つということだからである。先ずは我が家族の役に立つ。そのため、幸い好きなことであるからこそ続いている肉体労働の持続エネルギーも湧いてくる、のだ。企画を頼まれたり、自身で企画するにも、とてもではないが年金だけでは無理である。

だから、何かのお役に立つ生活を続けたいがために、私は肉体労働を続けたいのである。五十鈴川を見にお墓参り帰省旅もつづけたい。等々、お爺煩悩は消えない、だから五十鈴川だよりを打つのである。


2025-05-28

昨日、猪風来美術館で、秋10月12日、開館20周年記念イベントに向けてのミーティングがおこなわれた。そして想う。

 今日は69才で人生で初めて大きな手術をして退院して以来、その後3ヶ月に一度欠かさない定期検診の日の朝である。あの手術からすでに4年の歳月が流れている。人間の性格の親から授かった本質的なものは不変かもしれないが、術前と術後では、やはりなにがしかの変化が今もって続いているように思える。

この人の生き方にとても惹かれる

コロナの渦中であったし、動転し、どこかにこのまま死んでしまうのかもしれないとさえ想えた窮地の最中、雑多な思考が錯綜したことを覚えているが、いまはすっかりと健康を取り戻したことで、そのときのてんやわんやの自分の内面の有り様は、今となっては記憶は薄らいである。(人間は忘れるから生きられる)

ただ、あれから4年続いている、私の体の執刀をし、命を救ってくださったM先生の定期検診の日は、初めて経験した晩年の入院リハビリの日の体験が甦る。今現在健康を取り戻したからこそ言えるのだが、あの体験がなかったなら、もしも、という言葉を使うなら、70歳から今年に至る、企画再開という自分でも思いもかけない発露はなかったと思える。悔いなくやりたいことをやる、正直に、家族、そして仲間と。

まさに人生我が身も含め、明日は何が起こるのかなんて、まったく未知であるという事を私は我が体で、しっかり体感したのである。以後、普段通りの生活を取り戻しいたとはいえ、術前と術後では、体と心のどこかが、変わったことは間違いない。(でなければ企画は再開生まれなかった)

以前にもまして、日々の生活の一日一日を、ほとんど変わっていないとはいえ、大事に大切に丁寧に生きるようになったようにように思える。そして、命の不思議についてもの想うようになっている。

さて、話は変わるが、昨日は午前10時からお昼まで、秋の猪風来美術館開館20周年記念イベントに向けての、主催者である新見市の教育委員会からもお二人参加されてのミーティングが行われた。簡略に記録として打っておきたい。参加者は猪風来さん、奥様のよし子さん、イベントのスペシャルゲスト土取さんの側から、香川の大鹿さん、それと法曽焼き同好会の小林さん、(猪風来さんを支え続けてきた長老、尊敬する)それと猪風来さんの20周年企画を応援する、私を含めた裏方ボランティア(那須さん、大場さん、瀬政さん)である。

企画主催者である猪風来さんの進行で、スタッフミーティング行われた。まずは猪風来さんからこのイベントにこめた内容が語られ、おのおの自己紹介をしてから当日の流れの確認、当日の役割分担の確認、これからの4ヶ月と15日、10月12日本番までの役割分担の確認と、課題項目について、有益なミーティングが行われたことと、次回のミーティングは7月7日に決定した。濃密なよきミーティングが行われたことを五十鈴川だよりに打っておく。

ちなみに、私は告知PRを担当することになった。猪風来さんの今回の企画の応援以来を受けてからというもの、自分でも言葉にはしがたい、ある種の老いゆくなかでの微妙な肉体と心の変化の訪れを感じている。この企画に関わることで生まれた猪風来さん、よし子さんとのコミュ二ュケイトすることの面白さ、楽しみである。

猪風来さんよし子さんと本質的な関係性を深めることで、老いゆくなかでの新しい自分が生まれてくるような予感がするのである。その予感が、そこはかとなく私を活性化させている、

2025-05-25

セバスチャンサルガドの死が報じられるのを、たまたまラジオで耳にして想う今日の五十鈴川だより。

 先ほど年に2回の町内の溝掃除を済ませ、五十鈴川だよりタイムである。昨日雨の中所用があって、車で里庄に出掛けたのだが、ラジオから世界的な写真家、セバスチャン、サルガドの死が報じられるのをたまたま耳にした。

たまたま求めることができた

もう一年以上前から新聞を止めたし、テレビの報道などもあまり耳をたてなくなってきたので、ラジオで耳にすることがなかったら、知らないままに日々を過ごしていたのに違いない。だが、結果的に知ることができた。

私がセバスチャンサルガドの名前をしっかりと刻んだのは、今から10年前、2015年の夏、渋谷の映画館で、ヴィム、ベンダース監督の【セバスチャンサルガド地球へのラブレター】というドキュメンタリー作品のを観たことによる。

おそらくすでに五十鈴川だよりを打っていたから、なにがしかのことを打っていると思う。(振り返り探して読んでみたくなった)セバスチャンサルガドという名前は、以来私の脳裡にガッチリと収まっている。

映画を見てあまりの素晴らしさに感動した私は、映画公開に合わせて、サルガドの翻訳されたばかりの自伝が劇場においてあったので、すぐに買い求め、帰りの岡山に向かう新幹線車中で夢中で読んだ。五十鈴川だよりを開いてくださる方はには、是非ともお薦めしたい本である。

県立図書にサルガドの写真集が数冊あったので借りて凝視(み)いった。衝撃を受けた。そこには私の知らない、見たこともない世界が、切り取られていた。サルガド見て感じて切り取った世界の真実のポートレイトは、いまも今後も、おそらく見るものの心の奥を揺さぶり続けるに違いない。今日はサルガドの冥福を祈り、サルガドの自伝を、静かに再読したいとおもう。


2025-05-24

昨日午後、思い立って猪風来さんを訪ね、氏の熱き発露の言葉のつぶてを浴びて想う、今朝の五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。昨日午後猪風来さんご夫妻に急遽会いに行った。昨日は働いていたのだが、何か無性に猪風来さんに電話をしたくなり、電話を入れたところ、話したいことがあるとのこと、私も直感的に対面でお話に耳を傾けたほうがいいという気が働いて、家で昼食を済ませ新見の法曽に向かった。

繰返し読む

着いたのが15時半、猪風来さんは今取り組んでいるレリーフ作品の磨きの工程をされていた。寸暇、磨きについてのお話しを拝聴した。滅多に聴けない話でこの話を聞けただけでも行ってよかった。

創作中断、すぐにいつものミーティングルームに移動、10月12日、猪風来美術館20周年記念特別企画に向けての進行状態、クリアしてゆかねばならないこれからの課題、懸案事項、等について、もっぱら猪風来さんがお話しし、時折わたしが合いの手をいれる、といった案配で約2時間以上、濃密な時間をすごした事実のみを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。

同席したのは奥様のよし子さんとパイプライン(猪風来さんのドキュメンタリー作品のカメラマン)のTさんの4人である。この2時間の内容を綴ることは、私の力では無理である。昨年秋、猪風来さんから企画協力要請を依頼されてからというもの、折々のタイミングで私は猪風来さんと直にお話しをする時間を(決まったミーティング以外にも)大切にしている。

何故かを言葉でもって説明することは出来ない。何故か行きたくなる。時に昨日などは、行かねば、と何かいわく言いがたい感情が沸き起こるのである。体がいまだ何かに反応するとでもいうしかない、名状しがたい内発である。我が家から美術館まで片道2時間半、往復5時間かけて運転するのは、我が年齢をおもえばかなりの気力体力がいる。

が、いつも感じることは、出掛けてよかったという思いである。体は正直である、家に帰り着いたのが午後8時過ぎ、朝5時から起きて午前中労働し15時間、ぐったり疲れている。だがその疲れは気持ちが悪い疲れではなく、6時間熟睡したらスッキリと起きて、五十鈴川だよりを打ちたくなるほどに回復するよき疲れなのである。

話を戻す。猪風来さんの一途で壮絶なという言葉しか思い浮かばない、縄文土器創造世界にかけた滾る情熱の余りの発露に、圧倒されながらも、このような傑物と出会えた我が人生の、運命(勝手にそう思う)を祝福する。

今年10月12日の猪風来縄文美術館20周年特別企画が終わるまで、あとおおよそ5ヶ月、我が家から法曽まで往復通う体力をキープして、私なりに猪風来さんの企画を、側面から寄り添い続けたいとの、ささやかなおもいが、ふっと法曽に向かう理由だと思う。氏はそのような私にずいぶん砕けた本心も、時折見せてくださるようになってきたのを私は感じている。

信頼関係が育まれてゆくのは、どのようなヒトであれ時間がかかるし。相性もある。企画協力要請を受けた私が思うことは、少しでも、一ミリでも猪風来さんの発する言葉の息づかいに耳を澄ませ、体で聞き取り、その念いを受けとめたいのである。(それによってエネルギーが湧いてくるのだ)

猪風来さんと共に人生を歩み、苦楽を共にされている奥様のよし子さん(草木で染めた前人未到のこれまたすごい織物作家である)はいつもそっとそばで猪風来さんを支えている。饒舌な猪風来さんと寡黙なよし子さん。表裏一体化したご夫婦である。今回の20周年企画、お会いする度に感じるのは黒子に徹しているよし子さんの姿である。その姿にあやかって私も微力に黒子に徹したい。

2025-05-18

手島龍一さんと佐藤優さんの新書版の本を読み、いまさらながら世界の複雑さを知らされ、想う。

 休日、よほどの予定がない限り、打つことで(気持ちは書いているつもり)私の一日は始まる。今日は妻のお供で、妻の好きな薔薇(手では書けない文字である)を見に熊山のガーデンにゆく前の五十鈴川だよりである。

先ずは朝一番打つことで、今日の始まりを整えるのが、日課となりつつある。古稀をすぎてからの五十鈴川だよりは、まったくといっていいほどに、いい加減で、自然体で、我が儘である。じっと画面を眺め、ただ静かに内なる何かに耳を澄ませていると、ゆっくりと何かが動き出す。この静かな時間がますます好きになりつつある。


静かに過ごす時間と、動く時間の兼ね合い、往還が私には大事なのである。おおよそ半年の間、抱え込んでいた、スパイラルアームズ公演を終えて3週間近く経つ。引き受け、抱えた者のみが体感するあれやこれやの解放感、安堵感はたとえようもない。今この年齢でやれることはやりきったので、ただ静かに日々の生活を送りたいのである。(ゆっくりと猪風来さんの秋の企画にシフトしてゆきたい) さて、いつものように話を変える。昨日伊豆大島の谷口さんに、万年筆でお便りを思い付くまま一気に書いて、自転車で近所の郵便局まで行き、ポストに投函した。便箋に2枚以上のお便りを書いて投函したのは、いったいいつ以来のことで、あるのかさえわからないくらい、お便りを書いていない自分の生活のあまりの、デジタル丸投げライフに、どこかデジタルに、心が乗っ取られているかのような、暗然たる思いにとらわれてしまったことを、五十鈴川だよりに打っておく。 体を使い、五感、第六感での直接情報を、基本に据えて、この世を生きてゆく術のような感覚を、私自身が無くしつつあることの恐ろしさを、感じてしまったのである。もし、谷口さんとの再会がなければ、相手がいなければ、私はデジタルの海の中で溺れてしまっていたのに違いないような恐怖である。話は飛ぶが、無人機やドローン兵器、生物兵器、小型核爆弾などなど、押すだけで相手に壊滅的打撃を与えてしまう、おびただしい、兵器の開発競争は、やがて人類を破滅へと導く確信である。 ささやかな一庶民の綴るお爺五十鈴川だよりだが、世界の素晴らしさ、この世に生を受けた者の喜びを、せめて我が孫たちにだけでも、伝える努力を惜しまず、手が動く間は、孫たちにも手で書いたお便りを書こうと思う。人間のなすおぞましきが、惹き起こす悲惨極まる映像の編集された一部分が、この半世紀以上、私が高校生の時初めて見たベトナム戦争の映像から、今現在も止むことなく、打つのも嫌になるくらい続いている。 だからといって、一庶民の私には、何をどうしたらいいのかの方策があるわけでは毛頭ない。だがうすらぼんやりと、今のままではとてつもない悪夢が、ある日突然、起こってしまうのでは、との恐怖感がつのるのである。あくまで楽天的に考え、いたずらに悲観的に考えるのは私の性格的に合わないのだが、歴史は繰り返す、仕方がない、と訳知り顔に物言う愚だけは避けたいと思う。我こととして感じる、他者に対する、考える想像力をなくしたら、(人類は太古から繋がっている)おそらくとんでもない未来がまっている気がしてならない。私の悲観的なおもいが杞憂に終ることを、心から願う。 手で書く、裸足で歩く、花の臭いを直接嗅ぐ、土に触れる、料理をする、などなど、編集された映像間接体験ではなく、直に世界に触れる、直接体感するよろこびを生活の中に取り戻さないと、あまりにもバランスの悪い世界がやって来るような気がする。

2025-05-17

昨日、伊豆大島に住む谷口英久さんからお便りを戴きました。そして想う。

 週末五十鈴川だより、とすっかりなり、老いおい綴る五十鈴川だよりである。もっと打てば、もうよれよれになりつつある、とどこかで感じながらも、敢えてうつ、打たねばという、絶対矛盾をいきている。これはこと五十鈴川だよりに関してということではなく、かきたいということと、もう書かなくても良いのでは、といったいわく言いがたい内的な老境の発露である。

であるが、私にはどうしても手放せない、やりたいことがまだある。その一つが、孫たちが10才になる頃まで、なんとか元気に生きて共に遊ぶ時間を持つということである。そのためには、私のからだが動いて、元気でないと共に遊べないので、その想いを実現するために、労働している。(ただ体を動かす、疲れはてただでくの坊のように寝る。気持ちがいい)

その労働が苦しいものであったなら、このように能天気に、五十鈴川だよりを打つことは叶わないだろう。69歳で初めての大きな手術をしてから丸4年が過ぎた。術後、この春で4本もの企画を成すことが出来た。この間二人の新しい孫に恵まれ、この夏、予定では次女に二人目の孫が授かり、私は4人の孫のお祖父さんになる。まったく人生とは、未知への旅路というほかはない。

話を変える。昨日伊豆大島の谷口さんから封書が届いた。3枚もの手書き文字のお手紙である。もう私自身の生活の中で、手書きでのやり取りなどは皆無になりつつある暮らしのなかで、何ゆえ谷口さんとは、手書き文字でのやり取りをするはめになったのかを、縷々記すのは控えるが、このように手書きでのやり取りができる相手が、この年齢で忽然と現れたことに言い知れぬ喜びを覚えている。

もしも、あのとき出会わず、話をしなかったら、それは妻との出会いであれ、今現在の私の人生で出会え、関係性が続いている貴重というしかない友人たちすべてに言えることだが、もしも、という言葉は、魔法のようなことばである。偶然と必然の際限のない、つまりはこの世を生きることになった旅路の過程で巡りあった、人達との出会いの集積の上に、私はいまも変化し続けている、のだ。

孫たちとの出会いも含め、人は出会うことで生まれ変わるように想う。もっと敷衍すれば、人は人と出会うことで、生まれ変わりたいという、幻想のようなものにしがみついていたいのではないかという気がする。ことに私などはそう言う体質である。

谷口さんに話を戻す。33年ぶりの再会、しかも一度しか言葉を交わしたことがない。あまりにもドラマチックというしかない。それも近所ではなく、住まわれているところが、伊豆大島である。物語が好きな私にはあまりにもである。

先日妻と泊まったホテルの部屋からの風景

いま、私はささやかな幸福感に浸っている。老いゆくなかで文通相手が見つかったからである。谷口さんはラインをしていない。距離を隔てた伊豆大島に住む谷口さんとの交信に、文を手書きする時間は、おそらくこれからの私の人生時間のなかで、貴重な、大切な時間となる。

話は大きく変わる。スマホをはじめとする。現代をあまねくおおうデジタルライフ、五十鈴川だよりだって、インターネットに由っている。絶対矛盾をわたしは生きている。だが、ここにハッキリと打っておくが、デジタルの及ばない世界にこそ、もっとも大切なことがあるという側を、私は生きてゆきたい。(クローンや優性思想は御勘弁願いたい、猪風来さんご夫婦ははスマホを持たない。限りなく私には新鮮である)



2025-05-11

猪風来さんの創作現場を垣間見、貴重なお話しに耳を傾け、幸せな休日をすごした今日の五十鈴川だより。

 昨日思い立って、猪風来さんご夫婦に会いに行った。会いたいから会いにゆく。理由はない。午前9時前に家を出発、着いたのが11時、持参したちらし寿司ですぐに早めのお昼。たまたま猪風来さんのドキュメンタリーを作品を(この話は割愛する)創るカメラマンのT氏も一緒に。昼食を終え、たまたま来られていた、来館者にお茶をふるまいながら、猪風来さんが限られた時間のなかで、縄文土器について語る様子を私も同席して聞き入った。もう何度も耳にしたお話しなのであるが、何度耳にしても、それなりに新鮮に新鮮に感じるのが不思議である。

来館者へのお話が終わると、猪風来さんは今取り組んでいるレリーフの創作に向かった。自分が創作している姿は、これまで原野さんにしか見せたことがないとのことであった。今回ドキュメンタリー作品を創るにあたって、カメラマンの前に初めて創作している姿をさらしている。

その場に居合わせられ幸福でした

びっくりしたのは、私にも見てもいいよ、とおっしゃってくださったことである。その上写真を撮ってもいいか、写真を五十鈴川だよりにアップしてもいいですか、と問うと、いいよとこれまた二つ返事。

邪魔にならないように、創作される姿に見いった。原野さんが生んだ、創造した、縄文紋様を父である猪風来さんが、魂を込めて渦巻き状に丹念に、土を練り込んでゆく。77才であられる指先から、原野さんの魂を再生する気迫が伝わる。自由自在に指先が動く。まるで土と人間が一体化したかのように。

私は言い知れぬ、父の原野さんにたいするおもいの深さ、愛情の深さ、無念さを感じ、茫然とただ見詰めていた。土をちぎり、丸め、濡らし、のばし、くっ付け、細心の集中力で創造してゆく。私の語彙力をもってしては、これ以上打つのは控える。私の眼底にその姿を焼き付けたことを五十鈴川だよりに打っておく。

その姿を刻んでそとに出て、暫し会ったばかりのカメラマンのT氏と雑談をしていると、猪風来さんがちょっと休憩といって外に出てきた。そろそろおいとまの時刻だったので帰ろうかと思ったら、縦穴式住居に入ってゆく。ついて私も中に入る。それから30分くらい、ドキュメンタリーのことも含めての、ご自身の現在の心境を私にお話ししてくださった。

その内容は伏して控える。ただ一人の人間として深く脱帽し、頭を垂れるほどに感動したことだけは五十鈴川だよりに刻んでおく。思い立って出掛けたからこそ二人だけでの貴重極まるお話しが聞け、創作される姿にであえたのだ。幸せな気持ちで、よし子さんにご挨拶して猪風来美術館を後にした。

2025-05-09

ようやく普段の生活に戻りつつある、金曜日の夕刻の徒然五十鈴川だより。

 金曜日の夕刻である。すっかり日が長くなったお陰でもあり、今日などは昼前あたりからポツリポツリの雨模様で、暑くもなく労働するには暑くもなく寒くもなくもってこいの、私にとってはよい一日となった。疲れてはいても明日からお休みなので極楽とんぼ能天気五十鈴川だよりを私は打ちたくなる。もうこの年齢なので世界の大変さや、(決して無関心ではないことをあえて打っておく)いちいちの世相を飛び回る報道なんかを打つ五十鈴川だよりでは毛頭ない。ただうすらぼんやりと、思い付くことを、徒然打つだけである。

さてGWは菜園場で土と戯れていて、ぼんやりと妻と共に過ごす時間がなかったし、この数ヵ月スパイラルアームズのことにかかりっきりだったので、明日からのお休みも含め来週の火曜日までお休みし、月曜日から一泊二日で妻と旅をする予定である。

このような本をてにするとは

この旅は娘たちが一月と二月が誕生日の我々夫婦にプレゼントしてくれた。スパイラルアームズを終えるまで先延ばしにしていたのが実現する。このような有り難さをのうのうと綴るのは、私が老いたからである。晩年の父はどこへゆくにも母と一緒であったが、私もただ素直に意味もなく妻との時間を大切にしたいと想うだけである。孝行したいときには親はなしなんて言うが、思いついたときに悔いなく夫婦時間をする、娘たちの気持ちを有りがたく受け止めたいだけである。

さて、労働に復帰してようやく普段通りの生活に戻れている、つくづく私は肉体労働生活に救われている。GW赤玉ねぎを200個くらい収穫し、開墾マルチをひき、トマト、シシトウ、ピーマン、なす、枝豆などの夏野菜とちょっと遅いが、じゃがいもをいただいたので、それも植えた。収穫した赤玉ねぎの後には、近いうちにさつま芋を植える(4種類)予定である。

青空のもとただ体を動かしていると、身も心もすっきりする。単純な私には最高の高齢者アルバイトである。若き日、富良野での否応なしに肉体と精神をギリギリのところまで追い詰められた体験がこんなにも晩年の私の生活を助けてくれるようになるなんてことは、当時思いもしなかった。逆境はヒトを鍛える。人生に無駄なことはまったくないとはよく耳にするが、然りとおもう。

話変わり、早朝の読書もようやく普段通りになりつつある。これまで狭い範囲の読書しかしてこなかったという反省があるので、もうこれからは、自由気ままに手にとり、文字を追いながらの不良老人に憧れる私である。

ただただ意味もなく五十鈴川だよりを打ちつつ生活していると、また何やら老いたからだが発酵してくる。そんなこんな打っていると、猪風来さんの、【我が縄文芸術人生を語る】6月22日がやって来る。企画をしたのは私である。動かねばならない。


2025-05-05

我が家の菜園場を耕して、春野菜を植える前の、もの想う朝の五十鈴川だより。

 私のGWは菜園場で過ごすことで日中の大半が過ぎようとしている。スパイラルアームズ岡山公演を引き受けたことで、菜園場の管理に手が回らなかったので、いま土に触れている時間がとても嬉しい。私のようなぶきっちょな人間はあれもこれもは、全くといっていいほど出来ない。

一輪のウララ(妻丹精の)

だが、抱えたものにしか味わえない、感じられない達成感、喜びがある。あの夜のハレノワでのスパイラルアームズのライブの余韻はいまだ我が体を浸している。が、青空のもと菜園場で土と触れていると、たまっていた疲れがとれて、ようやく普段の生活に戻りつつある。

今日は、終日夕刻まで妻と、菜園場で過ごす予定である。玉ねぎも収穫する。だから短い五十鈴川だよりである。ぼーっとして、本を手にしても集中力が持続しなかったのだが、昨日あたりから、(図書館にいった)ようやく本を読む集中力も戻ってきた。

話は変わるが、この年齢での、私にとっての企画をするということはどういうことなのかを、改めて考えている。70代に入り4本の企画をなして想う。言葉ではとても言い表せないが、それでも私は人間なので言葉にしがみついて、考えるしか方法がない。

人間と付き合うのは本当に骨がおれる。時に心も折れる。だがなぜ仕事でもないのに企画を持続するのか、を私は思い考える。気障だが、見えないギャラを40才から企画を始めて、ずっといただいているからだと想える。とは言ってもこのように能天気な五十鈴川だよりを打てるのは、私ごときの企画者を(いたらないことのおおい)応援、支えてくれる、これまでの人生で培ってきた友人、仲間のカンパのお陰であることを、五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

生活的なお金は、肉体労働でいまだおぎなえる。だが私にはどこかの誰かのギャラが、人間がヒトとして幻想ではあれ、豊かになってゆくためには、支援ギャラが絶対的に必要である。今回スパイラルアームズ岡山公演が無事に終われたのは支援者のお陰である。支援者がいれば次の企画が打てる。支援者は次の企画を生む原動力である。普段の生活、暮らしのなかで、生きることを見つめ、支援者仲間と共に夢のある企画を育むために、私なりに努力したい。

私にとっては企画をするということは、その夜限りの観客、他者とアーティストを介在してコミュニケーションをする、ということなのである、ということをあらためて得心した。スパイラルアームズとその夜限りの観客を出会わせるという、お膳立てをする役割である。

一夜のライブのお膳立てに、土取利行&スパイラルアームズを、暗雲漂う現代の今、企画できたという事実こそが、私のギャラなのである。私の信頼する友人Y氏が撮影記録をボランティアで撮ってくれた。満足である。ユーチューブにアップするために撮影しているのでは全くない。



2025-05-03

5月3日、いまだにスパイラルアームズの余韻覚めやらずの朝の五十鈴川だより。

 今日から4連休である。昨日から労働に復帰した。ただひとり春の陽光を浴びながら、気持ちよく黙々と体を動かした。30日ライブの日の出来事が繰り返し頭に浮かんできて、幸せな気分で草を抜いたり、草を刈ったりした。夕刻家に戻り、ゆっくりお風呂に入り、ライブのことを妻と夕飯をたべながら、余韻会話。午後9時には床に着き、ただ寝た。今朝午前6時に起きて、メル散歩の後タブレットに向かっている。

CDにサインする土取さん

さて、今私はつくづくスパイラルアームズ岡山公演の企画窓口を引き受けて良かったとのおもいが体に充満している。正直今現在の自分の体力、気力、能力で集客できるのか、というおもい、弱気というのとも異なる、時代との私自身が抱えるズレが、よい結果にならないのでは、とのおもいが強かったからである。

だが、結論から言えば、集客できなくてもやるだけやる、と肝をくくってからは迷いは消えた。何よりもライブの記録を私は残したかったのである。それさえ残ればいいと、かんがえたのである。とは言うものの、必須アイテムのお客様がいないと一夜のライブは成立しない。

GWの谷間の平日のあの夜のライブに足を運んでくださったお客様は、素晴らしかった。限界まで演奏した土取さんのスパイラルアームズに、カーテンコールの拍手を送ったのである。もちろん、スパイラルアームズはカーテンコールに応えた。

素晴らしいオウディエンスの存在が、土取さんの最後の数分間の奇跡的な、パーカッションソロを生み出し、その事がカーテンコールに結び付いたのを私は眼底に焼き付けた。その場に居合わせたものだけが、体感できる、居合わせたものだけの波動で成立するのがライブである。企画者冥利、肝をくくって芯から良かった。これこそが私にとっての贅沢の境地、それを全身であじわえた。

話を変える。長くなるので簡略に打つ。今回の企画を引き受けたことで、私のなかの企画者としての可能性が、うまくは言えないのだが拡がって、自由自在な発想での企画をやりたくなってきている。裏方企画者に徹する喜びの深まりである。今回遠方から来てくれた、その昔土取さんのワークショップを共に体験した女性のKさんや、岡山で私のシェイクスピアの音読に参加してくれたYさんなど、次世代の企画者として有望な人たち(全ては割愛する)との再会が、私にそういう想いにさせている。企画者として一番大切なことは、感動する力、勇気、好奇心、行動力、それと対等関係の仲間である。

私は地元岡山での企画を、東京でもやりたくなっている。地方発信の企画があってもいいと思う。スパイラルアームズも含め、土取利行さんの思いを受け止める企画を、あくまでも裏方企画者として、共にやれたら【夢】である。

2025-05-01

昨夜ハレノワでに、スパイラルアームズの公演が無事に終えたことを、ちょっとだけ打つ夕刻の五十鈴川だより。

今朝京ちゃんはメルとお別れ

岡山でのスパイラルアームズの公演が終わった。祭りのあとの充実感、空虚感、脱力感、ある種の淋しさ、疲労感が体と心をおおっている。正直なにも書く気がおきない。だが実現した嬉しさ、達成感、幸福感が五十鈴川だよりを打たせる。起きてから家にもどるまでの一日、こんなにもまるで夢の中のような時間を過ごすことができた、春の夜の夢をわずかでも打っておきたい。
土取利行さん率いる、スパイラルアームズの神が舞い降りてきたかのようなパーカッションアンサンブルの昨夜の、即興演奏には、度肝を抜かれた。そのあまりのわずか3人なのに、度肝をぬくというしかない多様な世界の、打楽器の音色にしびれた。ゴールデンウィークの谷間、平日の夜の公演で、開場まで、聴衆が集まってくれるのか企画者としては、心配でしかたがなかった。だが思ったよりも開演ギリギリまで聴衆が駆けつけてくれ、かなりの席が埋まり、よきお客様の熱気がスパイラルアームズに乗り移り、スパイラルアームズの演奏がお客様に乗り移り、一時間半のライブは女性の舞も岡山のみ実現、えもいわれぬ時が流れた。 スタッフはもちろん、特筆して打っておきたいのは、私の信頼する仲間、当日ボランティアのありがたさ、素晴らしさである。いちいちのお名前は割愛させていただくが、受付、の準備から、誘導看板の設置、お客様の対応、終えてからのCDなどの物販の販売と会計、楽屋の片付けや、掃除、ゴミの持ち帰りまで。無私の裏方に恵まれたこと。(遠方からのボランティアにはこの場をかりて御礼をお伝えします) 午後10時から市内の西川のそばの居酒屋で出演者、ボランティア計16名が参加して打ち上げの宴。全員幸せそうであった。私も酔った。幹事を務めたのはもちろん福岡から駆けつけた小島京ちゃんである。一滴も飲めない瀬政さんも(2次会5名)最後までおられたことも打っておく。京ちゃんとタクシーで家に。時計は午前2時をまわっていた。最後に昨日ハレノワに来てくださったお客様に感謝し、限界まで演奏してくださった土取利行さんと人生で巡り会えたことの幸運を五十鈴川だよりを打ちながらかみしめている。(下の写真は吹屋の友人大場さんが撮ってくれた一枚です)