今日は37回目の結婚記念日である。だからといって特に書きたいことがあるわけではないのだが、何とはなしにこういったことを、臆面もなく、能天気に打つ、打ってしまう自分がいる。このような、おそらく他のヒトにはまったく関係のないことを、打っても多くのかたは、関係ないと、受け止めてしまうであろうことは、打っている私も自覚している。
日本語の奥深さ雅さにしびれる |
わたしの両親の結婚記念日を私は知らないし、そもそも我が兄弟5人は誕生日を祝ってもらったこともない。時代と我が家の家庭環境が、そういう余裕がまったくなかったからであろうと思う。
が私はその事で、私自身を不幸だと思ったことは、幸いなことに一度もない。(そのような家庭環境の子供たちは、回りにたくさんいた。我が家よりも貧しい家庭を私はたくさん知っていたし、その現実を目撃していたからだ)その上我が姉兄弟5人は、保育園も幼稚園にも通っていない。現在、姉兄弟5人元気にいまも元気に暮らしている。その事に対する平凡な感謝の念はただ一言、ありがたいという言葉しかない。
(思い出せる幼少期や少年期のことも、記憶のあるうちに努めてこれから折々打ちたい)
話を戻すが、こうやって我が結婚記念日を、能天気に五十鈴川だよりに打てるいまを、ありがたいことだとただ思い、思うだけで特別なことをするわけでも何でもない。わたしの両親はただ生活に追われ、結婚記念日など思い出す余裕もなかったことに、ただ思いを馳せる。
歳を重ねると、思いでだけが何故か光を帯びて来るようになる、これまでは思い出すこともなかった記憶の奥底にしまいこまれていていた出来事のあれやこれやが不意に蘇ったりする。つまりはその事が老いるということなのだと、最近とみに実感する。
辛かったり、苦しかった出来事も、もうすでに過ぎさっているのだし、その事を通過乗り越えてきて、いまとなっては甘美な思いでではなく、事実のどうにもならない出来事であったにせよ、こうやって能天気に五十鈴川だよりを打てる生活が送れている現在を、在りがたしと思うだけである。
人生の達人であられる、五木寛之さんだったと思うが、歳をとったら思い出に生きる。思い出がたくさんあるのはとてもいいことだとおっしゃっていた。思い出に耽る健康法のような生き方を私はしたいと、さいきんにわかに思うようになってきている。このよなことを打つと何やら後ろ向きのように思えるが、思い出すことで、にわかに現在が生き生きしてくるような、思いで健康一日ライフの実践で、また新たな出来事が紡ぎ出されてくるようにも想えるのだ。
ところで、昨日午後、瀬政さんと二人だけのシェイクスピアのリーディングをした。ベニスの商人の4幕5幕を音読し、読み終えた。何度も打っているが、まったく一から、71才からシェイクスピア作品のリーディングに飛び込み、間違いの喜劇・ロミオとジュリエット・夏の夜の夢・ハムレット・ベニスの商人と、たぶん今年すでに5作品のリーディングを完了したはずである。黙読ではない、他者、私との音読である。
お世辞ではなく、たいした挑戦力であると思う。その勇気にちょっと打たれる。明らかに以前私が氏にたいして抱いていたある種のイメージを、氏は破ろうとしている、かに見える。殻を破る、破れるのは自分という不確かな器しかいないのである。
長くなるからはしょるが、秋の午後、二人だけでの、月に一度か二度のシェイクスピア作品のリーディングレッスン。このペースでのリーディングであれ、塵も積もればなのである。丸太を一本一本積み上げるように、確実にシェイクスピアの珠玉の作品をリーディングすることの喜びを改めて感じている。
もし、氏が私のリーディングに参加しなかったら、秋の午後、シェイクスピア作品の我が家でのリーディングは実現しなかったであろうし、なかなかベニスの商人のリーディングをしようとは思わなかったかもしれない。
改めてユダヤ人(つくづく私はユダヤ人の複雑な歴史を知らないと知らされる)シャイロック(このような人間の心理を描いている、人物を造形したところにシェイクスピアの偉大さを感じる)の複雑な台詞の言い回し、日本語による面白さを随所に発見、小さい秋を見つける喜び、好奇心を持続する志を噛み締める。
次回から、本当に久しぶりに【オセロ】をリーディングする。作品を循環リーディングすることで新鮮にシェイクスピア作品と対峙できる。一昔前老人力という本、言葉が流行ったが、今自分が古希を過ぎ思うことは、無理せず面白くいかに自分自身と遊べるか、ということにつきる。そういう意味ではいい秋を見つけている。(と思う)