ページ

2024-10-31

37回目の結婚記念日と、瀬政さんとの二人だけのシェイクスピア作品のリーディングレッスンに思う、朝の五十鈴川だより。

 今日は37回目の結婚記念日である。だからといって特に書きたいことがあるわけではないのだが、何とはなしにこういったことを、臆面もなく、能天気に打つ、打ってしまう自分がいる。このような、おそらく他のヒトにはまったく関係のないことを、打っても多くのかたは、関係ないと、受け止めてしまうであろうことは、打っている私も自覚している。

日本語の奥深さ雅さにしびれる

わたしの両親の結婚記念日を私は知らないし、そもそも我が兄弟5人は誕生日を祝ってもらったこともない。時代と我が家の家庭環境が、そういう余裕がまったくなかったからであろうと思う。

が私はその事で、私自身を不幸だと思ったことは、幸いなことに一度もない。(そのような家庭環境の子供たちは、回りにたくさんいた。我が家よりも貧しい家庭を私はたくさん知っていたし、その現実を目撃していたからだ)その上我が姉兄弟5人は、保育園も幼稚園にも通っていない。現在、姉兄弟5人元気にいまも元気に暮らしている。その事に対する平凡な感謝の念はただ一言、ありがたいという言葉しかない。

(思い出せる幼少期や少年期のことも、記憶のあるうちに努めてこれから折々打ちたい)

話を戻すが、こうやって我が結婚記念日を、能天気に五十鈴川だよりに打てるいまを、ありがたいことだとただ思い、思うだけで特別なことをするわけでも何でもない。わたしの両親はただ生活に追われ、結婚記念日など思い出す余裕もなかったことに、ただ思いを馳せる。

歳を重ねると、思いでだけが何故か光を帯びて来るようになる、これまでは思い出すこともなかった記憶の奥底にしまいこまれていていた出来事のあれやこれやが不意に蘇ったりする。つまりはその事が老いるということなのだと、最近とみに実感する。

辛かったり、苦しかった出来事も、もうすでに過ぎさっているのだし、その事を通過乗り越えてきて、いまとなっては甘美な思いでではなく、事実のどうにもならない出来事であったにせよ、こうやって能天気に五十鈴川だよりを打てる生活が送れている現在を、在りがたしと思うだけである。

人生の達人であられる、五木寛之さんだったと思うが、歳をとったら思い出に生きる。思い出がたくさんあるのはとてもいいことだとおっしゃっていた。思い出に耽る健康法のような生き方を私はしたいと、さいきんにわかに思うようになってきている。このよなことを打つと何やら後ろ向きのように思えるが、思い出すことで、にわかに現在が生き生きしてくるような、思いで健康一日ライフの実践で、また新たな出来事が紡ぎ出されてくるようにも想えるのだ。

ところで、昨日午後、瀬政さんと二人だけのシェイクスピアのリーディングをした。ベニスの商人の4幕5幕を音読し、読み終えた。何度も打っているが、まったく一から、71才からシェイクスピア作品のリーディングに飛び込み、間違いの喜劇・ロミオとジュリエット・夏の夜の夢・ハムレット・ベニスの商人と、たぶん今年すでに5作品のリーディングを完了したはずである。黙読ではない、他者、私との音読である。

お世辞ではなく、たいした挑戦力であると思う。その勇気にちょっと打たれる。明らかに以前私が氏にたいして抱いていたある種のイメージを、氏は破ろうとしている、かに見える。殻を破る、破れるのは自分という不確かな器しかいないのである。

長くなるからはしょるが、秋の午後、二人だけでの、月に一度か二度のシェイクスピア作品のリーディングレッスン。このペースでのリーディングであれ、塵も積もればなのである。丸太を一本一本積み上げるように、確実にシェイクスピアの珠玉の作品をリーディングすることの喜びを改めて感じている。

もし、氏が私のリーディングに参加しなかったら、秋の午後、シェイクスピア作品の我が家でのリーディングは実現しなかったであろうし、なかなかベニスの商人のリーディングをしようとは思わなかったかもしれない。

改めてユダヤ人(つくづく私はユダヤ人の複雑な歴史を知らないと知らされる)シャイロック(このような人間の心理を描いている、人物を造形したところにシェイクスピアの偉大さを感じる)の複雑な台詞の言い回し、日本語による面白さを随所に発見、小さい秋を見つける喜び、好奇心を持続する志を噛み締める。

次回から、本当に久しぶりに【オセロ】をリーディングする。作品を循環リーディングすることで新鮮にシェイクスピア作品と対峙できる。一昔前老人力という本、言葉が流行ったが、今自分が古希を過ぎ思うことは、無理せず面白くいかに自分自身と遊べるか、ということにつきる。そういう意味ではいい秋を見つけている。(と思う)

2024-10-27

先の上京の小さな旅、最後の日に日比谷で観た映画【2度目のはなればなれ】に突き動かされました。そして思う。

 映画館で映画を観るということがわたしの生活ではほとんどなくなりつつある。ほとんど動画配信である。インターネットをほとんどしないし、ましてこの一年新聞購読をやめたせいで、ちょっとオーバーだが限りなく隠者的な様相をおびたかのような、世間の流行り廃りに限りなく疎い、誤解を招くような表現だが、すねものてきな心の狭い老人になりつつあるのを、自覚している。

最近いつもわたしのそばで過ごす花
(でも気持ちがいいのだから仕方がない)

だが、当の本人はその事を、こうやって五十鈴川だよりをうちながら、どこか韜晦している趣といったようなあんばいで、面白がっている。

さて、先の小さな上京旅での最後の日、銀座の裏通りの小さな小料理屋で美味しいランチを一人済ませ、その後歩いて日比谷に移動、何年ぶりかの(永井画廊で藤原新也さんの個展を見たあと)映画を日比谷東宝で観た。

その映画のことはNHKのラジオ、金曜日午後9時からの高橋源一郎さんがパーソナリティーの飛ぶ教室にゲスト出演していた映画の字幕翻訳家戸田奈津子さんがお話しされていたのを、たまたま聴いていてインプット、知っていた。

題名は【2度めのはなればなれ】。せっかく旅をしているのだし、もうよほどのことがない限り、日常生活のなかでは映画館に足を運ぶなんてことは、(何せ情報を限りなく遮断しているのだから)なかなかないし、なんといってもずっと先輩であられ、映画の字幕翻訳家として尊敬している戸田奈津子さんが(たぶん88歳であられる)素晴らしいとおっしゃっていたので、なんとしても映画館で見たかったのである。(旅に出たら、韓国にゆくと必ず私は当地の映画館にゆく)

歩いて銀座から程近い日比谷東宝で封切られていたことも幸いした。ついてほどなく映画が始まった。原題はザ・グレイエスケーパー、直訳すれば大いなる脱出者である。これが戸田さんが映画の内容で意訳、2度目のはなればなれ、とした。このセンスに脱帽する。このようなことを綴り打つと長くなるので、いつものようにはしょるが、ちょっとだけ。

スマホで関心のあるかたは、予告編だけでも見てほしい。(いささか矛盾するが、こういうてんではスマホは本当に役に立つ、要は何事も使う人次第である)主演俳優、老優は英国が誇るマイケル・ケインとグレンダ・ジャクソンである。マイケルケインはこの映画でもって引退するとある。妻を演じるグレンダジャクソンは映画か完成したあとお亡くなりになった、と知った。

この二人のあまりにもの、何十年も連れ添ったかのような夫婦の絆、本当の夫婦の情愛表現のなんと言う細やかさと自然な演技、誇り高き英国人魂が香り立つ名演技に、私は心底感動し打たれた。昨日西田敏行さんのことをちょっと書いたが、改めて思う。マイケルケインやグレンダジャクソンもまた不世出の俳優というしか私には言葉が出てこない。

それにしてもなんと言う見事な老方というしかない人生を歩まれたお二人の表現力に、爪の赤でも学ばねばと言う思いが、老いゆくわたしの秋を彩る。このような映画が生まれる、作れる。やはりシェイクスピアを生んだ国の言葉のやり取り、老優お二人に当て書きされたであろう脚本の言葉の粋、ウイット、洒落っけがたまらなく素晴らしい。かっこいいの一言につきる。目指すべきはあのような老人の姿である。

ところで、グレンダジャクソンという俳優を知ったのは、ピーターブルック監督の映画マラサドである。映画の内容も精神病院でえがかれる(記憶が曖昧で申し訳ない)人間の存在の闇に迫る、当時の(26才英国遊学中にみた)私には、少し難しい映画であったが、グレンダジャクソンという強烈な存在感の名前は記憶にはっきりときざまれた。

その上その年、シェイクスピアの生誕地にあるストラットフォードにあるRSCシェイクスピア記念劇場で上演された、これまたピーター・ブルック演出のシェイクスピア作品アントニーとクレオパトラの、クレオパトラをグレンダジャクソンが演じていたのを私はたまたま彼の地で観ることができた幸運を、なんとしても五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

まさに目撃した、タイミング、若かったからの何も怖くなかったからこそ出会えたのだと、いまにして思う。(孫たちには悔いな自分の足で直接自分の体で一回限りの人生をゆっくりと体感してほしい、これはおじじからのお願い、もっと言えばあらゆる情報は懐疑してほしい。要は自分の体で考えるということ)

なんと、あれから46年の歳月の後、88才の、黄泉の国、宇宙の彼方に旅立たれる直前のグレンダジャクソンに、またもや私は二度の再会をしたことになる。往年の立ち姿の風格のあるクレオパトラの姿と、老いた皮膚をさらしながら、凛として台詞を放つ姿に涙が押し寄せ、あまりにもかっこいい生き方と演技力に圧倒されたのである。

映画の終わりの方、介護施設(介護施設の職員の黒人俳優の女性がこれまたいい。出てくる俳優出てくる俳優が皆いい)のベッドの上で、老いた妻が戻ってきた老いた夫にキスをするシーン、、、。これ以上は打たない。野暮である。いい映画に説明は不要である。わかる人にはわかり、感じる人は感じる。なにかに殉じる生き方ができる人はし合わせであると、この映画は私に静かに語りかけてきた。


2024-10-26

真夜中目覚め、西田敏行さんの2018年のNHKのインタビューを聴きました。そして思う。

 真夜中、目が覚めたのでお休みなのでNHKのラジオをつけると、先日お亡くなりになった西田敏行さんの2018年のインタビュー番組の声が聴こえてきて思わず耳をそばだてた。全部を聴いた訳ではないが、両親の思い出を語るときに、嗚咽してしまう声が、姿は見えないものの、なんともいえない人間性に思わず私もじーんとして、目が覚めてしまった。なぜ語るうちに、感情がコントロールできなくなったのかは、ご本人にしかわからない。

大人の対話、打たれました。

また、私は耳にしたその内容を打とうとは思わない。ただ深く心が揺り動かされたことだけは間違いないので、一行であれ五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。76才で逝かれたので、インタビュー当時70才である。福島県の生まれである。あのようなお人柄が生まれたのには、ご両親の偉大な普通の善良なお人柄があったからだということが、実によくわかった。

実は私はほとんど西田さんが、出演していたドラマや、映画を丹念にみていたわけでは、全くない。だが一度だけ西田さんがまだ無名で、記憶に間違いがなければ、青年座の、宮本研作、明治の柩(足尾鉱毒の勇、田中正造氏が主役の作品)という舞台に村の青年の一人で出演していたのを記憶している。なぜ記憶しているのか、突出して声がでかく、生き生きとした存在感が他の村の青年のなかで、ひときわ群を抜いていたからである。

その後あっという間に、多面的に活躍されてゆくようになられ、知らない人はほとんどいなくなってしまうほど、大衆に支持される国民的な俳優になられた。昭和を代表する俳優が、今また一人姿を消した。その寂寥感、私より4才年長ではあるが秋風と共に染みる。山田洋次監督もおっしゃっていたが、もうあのような俳優は出てこないだろうと。やはり俳優は特に時代によって、環境によって産み出されてくるのだと改めて思うし、知らされる。

このコロナ渦中での(もうほとんどコロナの報道は消えたかのようだが)この4年くらいの間に、同世代の70年代から80年代、90年代にに光輝いた、多分野の私が影響を受けた方々の訃報が耳に入らなかった年はない。その都度、なにがしかのことを打てる間は、五十鈴川だよりに打ってきた。(と思う)私だっていつ消えてもおかしくはない年齢に入っていることを、このところ痛感してはいる。だが、正直まだピンとは来ない感覚を生きられている。

だからそういう感覚があるときにこそ、五十鈴川だよりに、今思うことをきちんと打っておかねばと、自戒するのである。死が間近に迫ったら五十鈴川だよりなんか打てないに決まっている。打てるときに打つ。会いたいとき会いたい人にに会う。働けるときに働く。シンプルさの極限的な老人生活、ささやか気儘をつましく元気に送り、孫たちが育ってゆくのを遠くから眺められれば、という超保守的なおじいさんになりつつあるのを、どこか能天気に自覚している。

と、ここまで打って話を変える。山積して解決するのは気か遠くなるほどの、歴史的な糸がもつれにもつれている世界的な問題(ガザ、パレスチナ、ウクライナ、北朝鮮、他)を耳にしても、私は無力である)だが無関心ではないことを、きちんと五十鈴川だよりに打っておく。

詩人の石垣りんさんが書かれている(五十鈴川だよりに打った記憶がある)戦争やあらゆる世界的な困難に無関心になるときに、死はこちら側に近づいてくると。あくまでも当事者としての想像力の羽を広げて考えることに、私の場合はつきる。こちら側にいて安全で飢えもせず生きられる孫の姿の向こう側には、一瞬で命を失う地獄を生きるしかない不条理世界におかれゆく痛ましいというしかない状況がある。

もし、わたしの孫が不条理な状況、瀕死の状態に理不尽に放り込まれたら、私だってガザの人たちとおなじように、狂気の発作に襲われるだろう。いつ何が起きても、起こっても不思議ではない世界を綱渡りのように生きている。生きていられるのが砂上の楼閣的なデジタル現代社会生活なのではないかという、苦い認識が老人の私にはある。

だからといって、どうしたらいいのかは、何度も打っている気がするが、できるだけ余分な情報は入れず、体が喜ぶことに日々をすごし、大昔の人がやっていたようなことは端から無理だとはいえ、限りなく必要不可欠なものを日々大切に、生きる。これしか今のところわたしにはよき方法がない、というのが今日の五十鈴川だよりである。

いま100年時代といわれている。が私はお亡くなりになったときが寿命であると、たぶん養老孟司先生ではなかったかと思うが、さだかではない。長短ではない。虫のように居心地のいいところで私は存在したい。お星さまの寿命のスパンで考えれば、ヒトの寿命等ほとんど同じである。孫たちに老人の私は教えられる。無垢である。余分な情報が入っていない。笑顔がたまらない。自然である。大人が余計なことをしないで、できる限り海の音や、風のおとが聞こえるところにおいてあげたい。

話を戻す。西田敏行さん、あなたのように他者を思いやれる、いわゆる暖かい東北人は、ご両親しかり、災害が多いからこそ育まれてきたことを、インタビューから感じました。あなたのような存在と昭和を生きてこられて本当によかったと思う。慎んでご冥福を祈ります。

2024-10-23

あきらかにあきらめる、秋の丸太小屋再訪の旅で、生活のシフトチェンジをすることに決めました。

 上京、妻と東京2家族全員、9人で千葉は上総湊にある丸太小屋、ギャラリーフクロウハウスを訪ねる小さな旅を終え、戻ってきてから一週間が経つ。肉体労働にも復帰している。大事なことは言葉にならないとは、養老孟司先生の言葉だが、その言葉が秋風と共に染みる。

老いては花のように在りたい。

そのようなおもいを言葉で打つことに、絶対的矛盾を抱えながら、五十鈴川だよりを12年以上打ち続けている。その事に、よく打ち続けてきたものだと我ながら感心する。なぜなら小さい頃の私は、何をするにも根気のない、楽なほうに流れる3日坊主の私だったからである。

そのような私の本質的なDNAは、おそらく完全に消えることはないだろうが、世の中に出て、あらゆる事が思い通りには成らない、いわゆる世間という社会に放り込まれ、幾年月54年、自分という不確かでいい加減な存在を、何とかしてちょっとはましな存在になりたいと、あがきにあがいてきて、ようやくなにか肩の荷が降りたというか、楽になれたかのような気がしている。

Hさんとの再会、(これからは一年に一度は会うことにする)実は昨年に続いて2どめ、共に丸太小屋を共に建てた河合さんも一緒だった。そのときに娘たち家族と共に全員でもう一度ここに来たいと強烈に思う自分がいた。なぜだかはわからない。娘たち夫婦家族がこんなにもすっきりと、私のおもいを受け入れてくれるとは(子供がまだ小さいし)想いもしなかったがが、実現したその事に対する言い尽くせない私の極めて個人的安堵感は例えようもない。

一言で言えば、間に合ったという、あらゆるこれまでの歩みの思いが満たされたのである。Hさんは私より10才年上、よくぞ丸太小屋を守っていてくださったものだとの、感謝の思いが私のなかで吹き上がったのである。なんとしても娘たち家族にフクロウハウスを見てもらいたかったし、私の恩人Hさんを娘たち家族に紹介したかったのである。

13日宿から眺めた東京湾の夕陽

丸太小屋を建てることがなかったら、いったいあれからの私はどのような人生を送ったのだろうか。妻とも巡り会えなかったように思えるし、岡山に移住することもなかった。

晩年こうやって五十鈴川だよりを打ち続けるような、現在をいきることもあり得なかった、と思える。不思議である。

あらゆる意味での後半の人生へと舵を切ることができた象徴的な丸太小屋が、Hさんのお陰で現存し、姿を変え、威風堂々今もあの頃と全く変わらず現存していることへの驚きは、これまた言葉かできない。なぜか出てくる言葉は、間に合った、よかった、と満たされる、である。

18才から、未熟、無知蒙昧(いまも)を何度も何度も思い知らされながら、ふがいない自分と向き合いながら、激変する時代に翻弄されながら、なんとかよたよたよろよろ、ときにごまめの歯軋りをしながら、あらゆる人や森羅万象に助けられながら歩を進め(一段一段細いちいさな丸太を積み上げてゆくように生きてきた)今を生きているという実感が私を包んでいる。

卒業という言葉がある。中世夢が原退職後の60代シェイクスピア作品の日本語音読を生活の基本にしてきておおよそ丸12年、特にコロナ渦中でのこの3年間、新しい孫二人の生誕は、決定的に私を次なるステージに誘う。それはシェイクスピアの音読中心の生活からの卒業である。中心からのシフトチェンジ、個人的に声が出る間は続けるが、もっとほかの事に時間を過ごしたくなったのである。

それはまだもわっとしているが、老いを見つめ続けながら、おいおい五十鈴川だよりを、これからも打ち続けながら、思索したい。


2024-10-19

丸太小屋再訪上京旅、【藤原新也さんの個展ー天国を下見する僕ー】岡山に帰る16日にもう一度ゆき、想う五十鈴川だより。

 やはり夏の疲れと、上京旅の疲れが出たのか、昨日は喉がいたく発熱しなにもする気が起きず、スダチのジュースをのみ栄養をとりひたすら安静にしていたら、今朝には喉の痛みも収まり熱も引いたので、16日のことや今回の家族揃っての丸太小屋訪問旅で徒然思ったことなどを、少しでも記しておきたい。

孫3人の後ろ姿、向こうに老夫婦

16日あの日、次女は珍しく出社していて、家にはレイさんだけがリモートワークをしていたのだが、10時前にレイさんにご挨拶し、その足で私は京王線、中央線と乗り継ぎ、東京駅に向かい、手荷物をコインロッカーに入れ、有楽町へから歩いて、着いた日に一寸覗いた藤原新也さんの個展会場永井画廊に向かった。

着いた日は落ちついてみることが叶わなかったので、もう一度みたいと思ったのである。一昨年北九州私立美術館で開催された集大成ともいえる【祈り・藤原新也】回顧展には行った。そのさいのことは、五十鈴川だよりに書いているはずである。ギャラリーでの絵画展は36年ぶりとのことである。

永井画廊での個展は、2011年の【藤原新也展ー死ぬな生きろー】四国巡礼88ヶ所の各写真とそれに添えた書88点が展示されていた。以来二回目とある。私はその最初の、死ぬな生きろ展の最終日に日帰りで岡山から駆けつけたのだが、すでに作品の87点は売れていて、残りは一作品だけであった。最後の作品を私は求め、その事で作品は完売となり、経費を除いた全額が東日本大震災被災地に寄附されたとある。その作品は私の部屋にある。

話は飛ぶが、1970年代、20代の半ば頃、私は藤原新也さんの著書、インド放浪や、東京漂流、メメントモリ、などなど主に書物から、大きな影響を受けその事が進路の変更をきめこのような寄り道多き人生になったのではないかと、今となっては思えるほどである。31歳になっていたのに富良野塾に飛び込んだのは、今だから言えるが藤原新也さんの言葉に触れなかったら、安易な道に逃げ込んだのではないかと言う気がしてならない。

仙人のデジタル絵画

富良野塾を卒塾して千葉の浜金谷に小さな丸太小屋を建てるきっかけ、動機のなかに、藤原新也さんが浜金谷の近くに小さな山荘をお持ちであることを、多分朝日新聞に毎週日曜、当時連載されていた丸亀日記を読んで知っていたからかもしれない。

丸太小屋が完成してから、突然バイクで山荘にお訪ねしたことも、今となっては懐かしい思い出である。(当時の私にとってはとにかくかっこいい憧れのひとであったのである)

打っていると、あれやこれやの、お恥ずかしき青春の終わり時代の出来事が思い出される。ようやくこの年齢まで生き延びて来て思う。その後岡山に移住してからは、ご縁が遠退いていた方々にも、悔いなく会えるときに会っておかねばと、思うのである。

この度娘たち家族と共に丸太小屋再訪の旅に向かう直前、永井画廊での個展の案内をいただいたとき、あまりものタイミングのよさと、嬉しさに即行くことにしたのである。

12日私が行った時間、藤原新也さんは画廊におられ、私のことを記憶しておられた。思わず明日丸太小屋に娘たち家族と共にゆきます、と話したら、えっ、丸太小屋まだ在るの、と驚かれたので、フクロウハウスというミニギャラリーになっていることを手短に伝えると、行ってみるとおっしゃってくださった(のである)。

我が家には藤原芸術作品が(よく私の自由になるお金で手にできたものである)2点ある。ささやかな我が人生の宝である。私は藤原芸術の多分野の領域の作品にこめられた奥深さを、ほとんど理解しているとはいえない。だが、でくの坊なりに引かれる。超細かいタッチ、と自由自在な線、色使いの変幻自在さ、とにかく他の誰もが描けない唯一無二の、一作一作に途方もない時間がかけられているのがわかる。

絶望的な状況を前にどこか軽やかな明るさと、ユーモアを感じる。猿やロバや、カラスや、犬猫への、独特な情愛と偏愛。氏の持つ弱者(市井の片隅でそっと暮らす)に向ける眼差しのやわらかさと、時代の闇の諸相の根源をカメラと言葉で切り取り照射する勇気と胆力には、脱帽する。

80才になられいくぶん穏やかさを身に付けてはおられるが、青春期からつい最近の香港の一連の暴挙というしかない出来事にも、ほぼ単独で異議抗議をされておられたが、そのどくとくというしかない、オリジナル表現活動力は他の怠惰な追随者を凌駕してやまない。(数多芸術か、評論家、知識人はいるが、体を張っての単独活動家を知らない。私が知らないだけなのかもしれないが)そのような方と我が人生で直接言葉を交わし会えた幸運を、一行であれきちんと五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

今回の絵画展でまたもや脱帽するしかないのは、デジタル仙人となられ、新境地のデジタル絵画に、1983年からすでに挑戦されていたその事である。その足掛け40年にも及ぶ間になされた成果の作品をみて(ふれて)、72才の私が今思うことは、出掛けて本当によかった、その事だけである。


2024-10-17

娘たち家族と共に東京湾を横断し、フクロウハウスを訪ねる旅後半、岡山に帰って五十鈴川だよりに打つ。

 昨日朝、長女のリビングで打った続きを、頭が新鮮なうちにわずかでも打っておきたい。14日、フクロウハウスの近くの一軒家のリゾートハウスで目覚めた我々は、各々各自朝食を済ませ、すぐそばの海岸の砂浜散歩を済ませた後、孫たちの一番喜びそうなマザー牧場へと向かった。マザー牧場はじめて行ったが、山ノ上にあり敷地が広く、遠くに周辺の千葉の山並みや海も見渡せて解放感があり、要所要所には大木があり、歩くのに疲れたら木陰で休むことができて、単なる人工的なものばかりではなく、名前は忘れたが赤い花の絨毯には目を奪われた。

1才5ヶ月未彩の後ろ姿

我々老夫婦は、若い家族たちの付き添いという感じでお供したのだが、十分に楽しむことができた。連休最後の日で相当数の家族連れで賑わっていた。それぞれの家族が好きな動物にふれあい、乗り物に乗り楽しめた。お昼前に合流し施設内のレストランでお昼を済ませ、早めに各々帰路についた。妻は帰りは次女たちの車で三鷹へ。(妻は私より2日早く上京し、3日目、12日はノアの運動会を見るために稲城に移動、私は三鷹へ)は私は長女たちの車に。午後3時半に我々は稲城のマンションに着いた。

多くの荷物をマンションの10階の部屋まで、何回か往復したのだが、体がまだ動き役に立つ事のありがたさを思った。レイさんは途中コンビニで珈琲を飲んだくらいでずっと車を運転、大変疲れたであろうに、家族のためにたんたんと物事を進めて行く。荷物を運び終えその足で、長女とミア(ちょっと体調がわるかった)と3人で買い物に。私とノアは留守番。レイさんは買い物を終えレンタカーを返しに行った。レイさんタフである。

長女がすぐに夕飯の準備、ミアがグズるのでレイさんがほぼ付きっきりでケアーをする。夕飯ができて長女とレイさんが、なんとか少しでもミアに食べさせようとするのだが、具合の悪いミアはあまり受け付けずつぶらな瞳で泣き続ける。だが泣き続けながらも、ミアはどこか口が痛いのも我慢して好きなチーズだけは口にいれている。(その生命力に私は驚かされた)その時点では原因不明であったのでレイさんと長女は頭を抱え、じっと二人して耐えていた。

翌日15日、朝一番病院へゆき手足口病と判明する。原因がわかったので私もほっとした。重症ではなかったので、そのまま保育園に行くことができ、ひと安心。お昼もきちんと食べたとの報告をメールで受け、それを読んだ長女とレイさんの喜びようは親にしか感知できない、家族ならではのもの、その姿を見ていて、一部始終を目撃していたので私も嬉しく安堵した。

さて、15日平日両親は家でリモートワーク。ノアは運動会の振り替え休日、

レイさんがいつの間にか撮った

だが、ノアも14日夜から発熱し、これまたミア同様少し心配したのだが、15日朝には熱が平熱になっていてほっとした。だから遠出は控え、近場で私と午前中は稲城の図書館(ノアは本でもゲームでも空手でもレゴでも水泳でも好きなことには熱中する)に行った。お昼はノアとパンやさんに立ち寄りお昼用のパンを数種類買って帰り、4人で和気あいあいのパンランチ。昨夜の餃子やスープやレイさんの手作りピザの余り、キウイフルーツなどでとても美味しくいただいた。

午後、ノアと私はお昼寝のあと、お隣の若葉台まで文房具ノートを買いに行った。若葉台の大きな本屋のカフェでノアはアイスクリーム、私はコーヒーで小さな秋日和のデートを楽しみ午後4時半には戻った。

夕刻、仕事を終えたレイさんとマンションの近くにある保育園にミアを迎えに行った。本調子ではないが、すっかりご機嫌な昨日とは打って変わったミアがいた。夕暮れ、すすきの穂が揺れ🌖の月が瞬いていた。一番風呂をノアと済ませ、夕飯メインは秋の味覚秋刀魚の焼いたの、カボチャとチーズのサラダ等々、レイさんが私のためにハイボールを用意してくれていた。

夕食を済ませノアとミアが寝入ってから、レイさんがスコッチを連夜用意してくれた。レイさんは外国とのやり取り、時差があるので夕食後も2時間近く仕事をしていた。私は7時過ぎからサッカー日本対オーストラリア戦(引き分け)を観ていたのだが、最後のほう少しだけ3人でお話ししながら観た。床に着いたのは10時頃、こんなに遅くまで起きていることは最近まずほとんどない。とここまで書いて、16日昨日のことは明日の五十鈴川だよりに打つことにする。

2024-10-16

16日朝、長女の住む稲城のマンションで、岡山に帰る前、寸暇打つ五十鈴川打より。

 

東京に出掛ける前に剥いて干した

13日朝次女の住む三鷹のマンションのリビングで打っている。昨日朝起きてコスモスを摘み7時半の新幹線で東京へ。着いてすぐに、有楽町へ。コインロッカーがまんぱいで仕方なく荷物を抱え、銀座8丁目まで歩く。永井画廊での藤原新也さんの個展をちょっとだけのぞき、すでにしおれたコスモスとわが家のスダチを、藤原新也さんが居られたのでお渡しし、東京駅から次女の住む三鷹へ。懐かしいが、変わり果てた三鷹駅の近くの小さな韓国焼き肉のお店で、プルコギビビンバのランチを済ませ、バスでマンションへ。二時半頃に着くと、葉と周さんはお昼寝中、私もお昼寝にすぐ参加した。

16時半次女が仕事から帰ってくる。しばしのち、三台の自転車でちょっと遠くのスーパーまで食品の買い出しへ。終えてスーパーの近くのロイヤルホストで夕飯、なん十年ぶりかでロイヤルホストに入った。老人の私一人ではまずもって入ることはないだろうが、老いては子にしたがえである。葉が小さいので、まあ仕方がないのである。三連休お店は家族連れで混んでいた。私よりももっと年上のご老人夫婦も見受けられたが、私のように田舎から訪ねて来たのかも、と想像した。と、ここまで打ったら、葉が起きてきたので中断。これから葉と数字の勉強に付き合う。

姿を変えた丸太小屋、フクロウハウス

と、ここからは16日朝である。長女の住む稲城のマンションで今年から小学生になったノアを稲城南山小学校に散歩がてら送って行き戻ってから打っている。13日からの出来事を寸暇、時間までスケッチ風に打つことにする。

13日あれから、三鷹、稲城の2家族はそれぞれレンタカーを借り、私は次女家族の車に乗り、2日早く上京していた妻は長女の車に便乗し、東京湾を横断する道路アクワラインの入口に近い、川崎近くにあるコストコという大型スーパーで合流し、2家族の一泊2日の旅に必要な食料品を買い込む。おちびが3人いるので、とにかくあらゆることに時間がかかる。子育て真っ最中の2家族の日常に、老いた私は感心することしきりである。(その事は岡山に戻ってまた打ちたい)お昼はコストコの外で、買い求めたお寿司の多種類の詰め合わせをワイルドに、全9人で腹ごしらえをしてから、アクワラインに乗り込み対岸の千葉は木更津へと向かった。

3連休の2日目で相当の混雑渋滞を覚悟していたのだが、それほどの渋滞はなく、とろとろではあったが午後2時には木更津に入った。そこでちょっとアウトドア用品のお店に立ち寄り、15時半にHさんの待つ、今はギャラリーフクロウハウスとなっている我々が造った丸太小屋についた。あれからおおよそ37年、よもやまさかこのような形で、娘たち2家族含め計9名で姿を変えた丸太小屋と再会することになろうとは。私には感無量というおもいしかなかった。

私より10歳年長のHさんがしっかりと丸太小屋を守ってくれていた。その事が例えようもなく私を感動させた。いきなり私はHさんをハグした。いきなりこんなところに連れてこられた娘たち2家族はそのような私たちをどのように眺めたであろうか。

がしかし、やはり私の娘である。瞬時にあらゆることを受け止め、フクロウハウスに感じ入ってくれた様子であった。私は娘たち2家族をHさんに紹介することができただけでもう十分、他には言葉がなかった。娘たちはもちろん、夫もよく建てたねーっと感心してくれた。何より孫たち未来人が小さな丸太小屋ではあるが、十分に魅力的なフクロウハウスを気に入ってくれて、私は満たされた。Hさんシワが写るから写真は嫌だといいながら、全員での記念撮影もできて何度も私の胸中には熱いものが込み上げて来た。

その後5時過ぎまで、すぐそばのHさんのお宅に移動、これまた魅力的なお家で住居件アトリエの2階のお部屋からからは東京湾が見張らせる絶景で、娘たち家族全員歓声をあげていた。短い時間ではあったが、私とHさんはワインを開け再会の乾杯。これからは私はもとより娘たち家族がやって来ても、もてなしてくれるようにお願いし、また河合さんとやって来ることを約束してHさんとお別れした。

そこから車で約10分、今日の我々の宿、家一軒をまるごと借りている、リゾートハウスに着いた。海のすぐそばで小高いデッキからは東京湾が一望、お風呂も広く、寝室も3へやあり言うことなし、早速お風呂に順次入り、買い込んだ食料品で夕食を、わいわいガヤガヤいただいた。中天には🌓が浮かんでいて、我々を見下ろしていた。

午後9時前、大人では一番先に私が沈没、満たされたおもいをしっかりと抱いて、あっという間に、先に寝ていたノアのとなりで眠りに落ちた。(とここまで打って続きは岡山に帰って打つことにする)

2024-10-09

青春の終わり、仲間と千葉に建てた丸太小屋に、Hさんを娘たち家族と訪ねる(13日、14日一泊二日で)前の五十鈴川だより。

 今週末から来週にかけて5泊6日の予定で、(先月も上京したばかりなのであるが)どうしても私が元気なうちに行かなければならない、娘たちに紹介しておかねばならない人がいるので、上京する。私が娘たち家族に紹介したいHさんは、千葉県の上総湊(上総湊)に今は住んでいる。

長女の子供望晃6才と未彩1才の後ろ姿

Hさんとの出会い。人生のこれまでを振り返る時、いよいよこれから私が年を重ねるにしたがって、折々思いだし会いたくなる大切な人なのである。この年齢になるまで、私は絵に書いたかのような不思議というしかない出会いによって助けられ、現在までを辛うじて生きてこられたのだという深い認識がある。

感謝という言葉しかない。Hさんは私の長きに渡って続いている少ない交遊人のなかで、頭抜けて異色の希な人、芸術家(女性)である。

私はこのHさんと34才、富良野塾を率塾した年に、まるでお告げのように出会った。神奈川の三浦と千葉の浜金谷を結ぶフェリーで、親友の河合さんと浜金谷に渡り、そこから鋸山に登り、この辺りに小さい丸太小屋を建てたいねーと、能天気丸出しの思いを河合さんに語ったのである。

26才の時ロンドンで出会い、今に至るも交遊関係が切れず続く河合氏は、そのような奇想天外な私の思いを、真摯に受け止めてくれた。受け止めてくれなかったら、まず丸太小屋は夢で終わり、建てることはかなわなかったと断言できる。

あの時、河合さんが途方もない私の思いを夢物語と一笑に付さなかったことが、今思えばやはり凄いことであるというしかない。私と河合氏はぶらぶらと、浜金谷に当時住んでおられたHさんの家へと続く、軽自動車が一台やっと通る曲がりくねった細い道を散策しながら歩いていて、たまたまHさん芸術家、ご夫婦と出遭ったのである。この出会いが事の始まり。すべてなのである。

私はこの辺りに小さな丸太小屋を建てたいという熱い思いを、路上でいきなりHさんご夫婦に吐露したところ、とにかく家においでと、いきなり見も知らぬ我々を招いてくださり、(木造で中二階のある生活感のない芸術家のアトリエのよう、しゃれた家で手作りの四谷シモン風の人形がおいてあった)庭にたわわに実った夏みかんの焼酎割り(水で割っていない、素晴らしく美味しかった)で歓待してくださり、ご馳走になり、すっかり酔っぱらい、その上なんと結局泊めていただいたのである。

こんなことが我が人生でとにかく起きたのである。今振り返るとやはり奇跡的な出来事という他はない。Hさんご夫婦はとにかくすっとんで異次元世界に棲んでいた。あなたたちが本気なら我々は全面的に協力すると言ってくれたのである。

当時私は富良野塾は率塾はしたものの、さて、これからいかに何をして生きてゆくのかの方途はまったく見えていなかったのだが、足掛け3年近く、富良野で3度越冬し四季を過ごした体験で、どんな仕事をしてでも生きてゆくという自信、手応えのようなものが、ようやくにして備わっていたので、後半の人生に向かう記念碑、シンボル的な丸太小屋を作り、青春と決別する覚悟に、私は燃えていたのである。(と、今にして想う)

次女の子供、葉3才

長くなるのではしょるが、富良野でなにもないところから先乗り隊スタッフ(5人)の一人として塾の管理棟建設のために、もらってきた廃材の釘抜きからスタートした体験から、私には当時のお金で100万円あれば小さな丸太小屋を造れる(材料費だけあとは人力で作る)という確信があったのである。私の夢のような思いを、河合さんとHさんご夫婦が受け止めてくれたのである。

4人で大まかな計画を立て、一人10万円出す。残り60万円、仲間を6人(素敵な面々が集まった)募り毎週末東京湾を横断し(丸太の調達、図面、土地を借りる手配他、一切をHさんご夫婦がしてくださったのである)基礎から丸太を組み立て、おおよそ一年後に完成したのである。(わずか3行ですませましたが人間が本気になったらやはり凄いことが実現します)

丸太小屋作りに没頭しているときに、現在の妻と巡り会えた。それから岡山に移住する40才まで、カサ・デ・マルターラ(という名前だった)には何度となく通い、秘密の小さな隠れ家として重宝した。そして、娘が生まれたのである。(長女は記憶にないが丸太小屋に行ったことがある)

長女が3才になり岡山に移住する。その後新しい生活に追われ、すっかり丸太小屋は記憶のなかの秘密のかけがえのない出来事として、私の中にしまい込まれ、Hさんとはお年賀の関係性とかしていたのだが(一度岡山に来ていただいたことがある)、娘たちが巣立ち、それぞれが家族を持ち、孫たちも成長し、最初の孫が小学生になり、一年ほど前から家族全員で丸太小屋を訪ねる計画を立ててくれた。娘たち夫婦が私の思いを汲んでくれ、念願の私の家族との再開が実現する。

人生の折り返し地点で恵建てた丸太小屋は、妻と私を結びつけ、結果私は妻のふるさと岡山へ。中世夢が原という願ってもない職場にも巡り会えたことを、いまあらためて想うとき、あのとき、なぜか丸太小屋を建てたことですべての運がよき方へと、18才からの前半とはうって変わって流れ始めたのである。

Hさんご夫婦との奇跡的な奇縁、不思議である。あれから37年の歳月が流れたが、Hさんのお陰で丸太小屋は、浜金谷から近くの上総湊になんと移築され、ミニギャラリーとなり、いまは亡きご主人(哲夫、てっぷちゃんのことはいつの日にかきちんと書きたい)が愛した梟にちなみ、フクロウハウスとなり、立派に存在している。娘たち家族、孫たち全員9名で、Hさんへのお礼の秋の小さな旅ができるなんてまさに夢とでもいうしかない。でも夢ではない。

ハムレットは言う。あの世に旅だったものは二度と戻ってきたためしはないと。人間は死ぬ。だが、新しい生命(いのち)は生まれてくる。死は宇宙へと還るだけである。孫たちは命の輝きを知らしめてくれる。大事な人とは元気なうちに、しっかりと悔いなく会えるときにあっておこうと想う。

2024-10-06

秋の朝の日差しが、五十鈴川だよりを打たせる。

 あまりにも気持ちのいい秋日和、昨日保育園に通う孫たちの運動会の動画や写真が送られてきて、お爺の私はゆっくりとみいっているうちに五十鈴川だよりが打ちたくなった。

老夫婦・スダチをもいで・語り合う

夏にはまったくやる気が起きなかった家の庭木の剪定作業などを、このところの週末妻がお休みの日に、二人でやっている。まったくといっていいほど私と妻とは異なる性格ではあるが、共同でやらねばならないことのあれやこれやは、生活を共にするもの同士として相談しながら進めている。

昨日は長女が生まれた頃に植えたスダチの樹が、今年もたくさんの実をつけたので収穫し、ついでに剪定し、枝を綺麗に片付け、ついでに妻がモッコウバラの枝も剪定してほしいと言うので、お安いご用(私は仕事でも剪定をするので何てことはない)お昼前の秋の2時間を妻と二人で過ごした。

収穫したスダチ、遠方の友人たち何人かに、久しぶりにお手紙を書き、午後郵便局で送った。お手紙と言えば、もう絶滅危惧種にますますなるであろう私もその一人である。硯で墨を擦り宛名だけでもとおもい小筆で書き、一筆は万年筆で書いた。もうメールでのやり取りがほとんどになりつつあるが、私の場合、ここいちばんはやはり一番しっくりとくる手書きである。

理屈ではないのである。とは言うものの、五十鈴川だより、今となってはこのスタイルが一番しっくりくるのだから、それぞれの加減でバランスをとって併用するのが私には相応しい。昨日と重複するが、年をとるとゆっくり草を抜くように、ゆっくりと手書きで筆や万年筆でも文字を書く時間が、これから先増えてゆく気がしている。そしてその時間を限りなく大切に楽しみたいと想うのである。

一年生になった孫の望晃には、ひらがなでの葉書を出せるのがこれからのちょっとした老いの楽しみである。もうほとんどがメールでのやり取りではあるが、娘たちからお誕生日他に手書きでもらった文章は、大事にとってある。私は文字が乱雑である。うまいと感じる文字には縁がないが、それが私の文字である。

企画者となって、何十年も宛名書きで筆ペンを使い続けてきたせいだと想うが、手でも字を書くという行為がすっかりと身に付いてしまったのである。手で草を抜くように、集中して文字を書くことは実に、私の場合精神の安定になる。日本語を音読することと、日本語を手で書くことは、限りなく私のなかでは大事な事なのである。

なぜなら難しいことは置いといて、私は日本人なのであるから、理屈抜きで日本語を大事にした、基本的な生活を送りたいだけである。先日からゆっくりと高樹のぶ子著、小説小野小町【百夜】ももよを読んでいるのだが昔の日本語の語彙にしびれる。素晴らしい。

るびがふっていないと容易には読めない古語がたくさんある。昔だったら敬遠したかもしれないが、幸いである。今ならゆっくりと味わいながら、筆写(難しい字は)しながら読めるのが楽しい。私がシェイクスピアやチェーホフ作品が好きなのも日本語の翻訳が素晴らしいからである。

2024-10-05

2024年10月最初の(秋がきたと感じるうれしい)五十鈴川だより。

涼しくなってきたので気持ちよく労働ができる。気持ちよく寝て肉体労働者なのでご飯が美味しい。その慎ましきシンプル極まる喜びは例えようもない。その日暮らし、というと物悲しさ感が漂うが、私の場合はちょっとニュアンスが異なる。それを言葉で顕すのは限りなく不可能である。言い換えればその日、自分なりの一日をきちんと丁寧に活きることに、尽きる。



さて、私の生活には本が手放せない。が、読書家であるとはつゆほども思っていない。ただ、ゆっくり、ゆっくりと本を読む生活が、年を重ねるにしたがって好きになってきただけである。もう何度も書いていることだが、本を読むことも、文章を綴ることも、私は30歳くらいまでは、どちらかと言えば読むことはともかく、書くことは大の苦手だったのである。

だが40才で中世夢が原で働くようになり、依頼された原稿が新聞で活字になったころから、何とはなしに書くことが、苦楽しながらだが、白紙に文字を埋めてゆくことが面白くなってきたのである。(振り返ると音読もそうである。長くなるのではしょるが、いつの日にかは書きたい)

読書の秋。私は本を読むことが、以前の自分と比して、ますます好きになってきた来つつある。古稀を過ぎると、好奇心が以前のようには働かなくなるのではないかという、(からだの衰えが進むのではないかとの)老爺心があったが、ありがたいことに今のところ好奇心の衰えは感じていない。誤解を恐れず打てば、好奇心ののびしろは60代より拡がっているようにさえ、感じている。

話は変わる。肉体労働といってもいろんな作業があるが、腰に負担がかかる雑草の根を抜いてゆく労働が私は大の苦手であった。広い敷地を管理するこの仕事に巡りあって丸6年になる。好きであるとまではいかないまでも、いまではほとんど苦になら無い。(私はひとつの作業を2時間以上はやらない。循環作業を繰り返すだけである)

このような感覚にたどりつくまでずいぶん時間がたったとも言える。どのようにしてそのような感覚をこの年齢で体得したのかを記すのも不可能に近い。一言で言えば自分なりにギリギリのところで諦めず面白おかしく、草を抜く単調作業を楽しむ工夫を積み重ねてきたからだろうと想う。

その事実を言葉で説明することはなかなか難しい。ただ確実に言えることは、腰に負担のかからないからだの動かしかた、呼吸を整え、休んでは続け休んでは続けるただそれだけのことを実践しただけである。抜いた草が山になり振り返ると綺麗になっている。(雑草にしたら迷惑であるが、うれしいことに雑草は見えなくなっただけで死んではいない)

苦手であったことが、ある瞬間から喜びに変わる。このような経験を積み重ねてきた結果、最初は手強く感じたことでも、やり方他をギリギリ全身で踏ん張って続けていると、からだの方が教えてくれるとでも言うか、楽になるのである。ランニングハイという言葉があるが、草取りハイとでも言うしかない。だがすべては体が動く健康であるからこそできる、感謝しかない。

さて、再び読書に戻ろう。昨年秋大長編小説レ・ミゼラブルを読んでから日本語の長編小説を限られた生活時間のなかで、草を抜く感覚で読めるようになってきた感じがある。この間佐藤愛子さんの【晩鐘】という小説をチビりチビり読んだのだが、この年齢の今だからこそ深く感動できたのだと思える。(佐藤愛子さんの小説を初めて読んだ。このような方が存在することは限りなく愉快で、人間の存在を肯定的に描き、ご自身がまずもって実践して生きる。ここが凄い、惚れ惚れする)

そして老いゆきながら、自分のなかでなにか自分がこだわってきた、執着していたもののけからの解放のような感覚、殻が弾けるかのような自由感覚があるのだが、これがよいことなのか、ただ単に老いてきただけなのであるのかが、判然とはしない。だがそんなこんな、よしなしことを綴り打ち、72歳の初めての私の秋を見つけたい。

PS 上記の写真の本、難しいことを丁寧に、わずか一週間で教えてくださる。生命の神秘、宇宙の神秘、人類はどこからきたのか。植物とはなにか、動物とはなにか、人類の行く末は。本を読むことは、想像の旅に想いを解き放す、小さき老いゆく自分を慈しみたくなる。