今日は午後3回目のリーディングレッスンである。場所は福祉交流プラザうの。参加者集いやすい岡山市中心部にN氏が変更してくださった。このところリーディング音読のことしか打っていないかのような五十鈴川だよりである。私にとってのシェイクスピアのリーディング音読が、この4年間やれていなかったことが、突然未知の方とやれていることに対する言葉になし得ないほどのよろこびが、私の老いゆく体を満たしているからだと思える。
素晴らしい本に巡りあえた |
N氏のフライヤーではリーディングは全5回で、発表会までこぎつける予定であったのだが、あまりにもレッスン回数が足りないと言うことで、6月の発表会まで基本的に週1回のレッスンを私の希望ですることにしていただいた。
レジュメというほどのものではないが、レッスン回数が増えるごとに、参加者の個性に合わせてどのシーンをリーディングするのか大まかには考えている。もっと回数を積み重ねたら、自分で音読したいシーンを決めてもらいたいとも考えている。
私のシェイクスピアリーディング音読への想いを、レッスンしながら徐々に伝え、双方向のやり取りの中から、理想を言えば参加者がひとつのチームとしての発表会がなせればよし、と私は現時点で考えている。
人間の心と体は絶えず揺れながら思考する。ことに私はそうである。だから五十鈴川だよりを打つことで最低限の思考の整理をしながら、日々を過ごしている。
一応、今回のN氏による音読企画は6月の発表会が終われば終了となるが、今後の参加者の取り組みや情熱次第ではあるけれど、私の情熱が許す限り継続してレッスンしたいし、今回の参加者のように可能性に満ちた参加者と出会えるように、N氏に随時参加者を募るフライヤーも頼んでいる。
先日発熱して改めて思ったのだが、いつレッスンがやれなくなるという不足の事態が起こっても悔いのないレッスンを毎回積み上げておかなければと思う。私のレッスン時間は有限なのである。 希望は持たねばならないが、必ず最後のレッスンはくるのである。
とは言うものの、今日の私は体調もよく五十鈴川だよりを打つ元気もある。今日のレッスンに備えての準備もしている。謙遜している訳ではもうとうない。何度も書いているが無名の私の日本語によるシェイクスピア作品のリーディング音読に、縁あって参加者がおられるという事実が私を限りなく謙虚にさせるのである。
第一回のリーディング、見学されていた方が途中からリーディングに参加し、最後までは参加されなかったのだが、2回目いちばん先にレッスン場に来られ、すでに間違いの喜劇の本を開いておられた。私は体調が思わしくなかったのだが、その女性の取り組み、態度に心がシャキッとなり、見学者の方が二人おられたのだが、ほとんどの時間をその方との個人レッスンで終えたのである。(S氏が4時過ぎに来られるまで)
臆面もなく打とう。老人の無名の私のレッスンに参加費を払ってやって来てくださる方が、おられるということにたいして、一人でも真摯に取り組む参加者がいれば、現在の私の持てる音読技量のすべてを傾注する覚悟が改めて沸き起こったのである。先のことは考えない。
一対一でのレッスン。息を吸っては吐き、息を吸って吐き、台詞に息を、命を吹き込む、今生きている声、年齢を超越し、エイドリアーナになりきる。フィクション、虚構を、現実すべてをいっとき忘れ声を出し会う。出しあえる無私の時間の欠け換えのなさ。(がすべてである)
まさに私が魅入られるシェイクスピアリーディング音読の醍醐味である。その音読のかけがえのなさこそが、きっと私が求めている何か、SOMETHINGなのだと思える。ともあれ、そのような参加者に出会えた事実を、五十鈴川だよりに打たずにはいられない、今朝の私である。
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