昨日で4月の労働は終えた。金曜日朝の五十鈴川だよりである。青天の霹靂という言葉がある。月曜日午後4時過ぎ、労働バイトを終え家に戻ると、妻が松岡和子先生から本らしきものが届いているよと知らされた。すぐに封を開けるとやはり本であった。初版4月17日に出版されたばかりのホヤホヤの新刊。表紙に愛猫を抱いた満面笑みの先生の写真が。だが著者は違う。タイトルは【逃げても、逃げてもシェイクスピア】サブタイトル、翻訳家・松岡和子の全仕事とある。草生亜紀子というかたが書いた本である。
シェイクスピアのお導きに感謝 |
いま五十鈴川だよりをうちながら、2年前下北沢の本多劇場のロビーで、39年ぶりにまさに偶然お目にかかったときのことが昨日のことのようによみがえる。読みかえしてはいないが、そのときのことは、五十鈴川だよりに打っているはずである。今更ながらあの日の出来事がなかったらと、想う私がいる。というのは長くなるので務めて簡略に記すが、きっとあの日の出来事が、もう一度初心に帰って、年齢を忘れ、松岡和子先生の翻訳での音読リーディングをやるという気持ちを奮い起たせたのだと思える。
今年3月23日から奇特な主に岡山在住の面々と、先生の翻訳でリーディング音読を始め、5回ほど終えた翌日に、先生からのご本が届いたあまりのタイミングのよさに、いまだ驚きを禁じ得ない。
【逃げても逃げてもシェイクスピア】という奇妙なタイトルの本は全5章からなっている。プロローグ、父と母・学生時代・仕事、家族・劇評、翻訳・シェイクスピアとの格闘、エピローグである。本の帯にこうある。
引き揚げ後の暮らし・シェイクスピアからの逃走・この人と結婚するかも・初めての翻訳・戯曲翻訳の世界へ・シェイクスピアに向かう運命の糸・自分が新訳する意味は何か?・書かれていないことを決める苦悩・挫けそうになった作品・完訳の先に続く挑戦。
その夜から読み始め翌日には読み終えた。読んだあとで、明らかに何か言葉には表し得ようもないタイミングでの、私の思い付きリーディング音読へのエールとでもいうしかないほどの励ましの本を、いただいたのだとの至福感が、読後いまだ私を包んでいる。その事が私に五十鈴川だよりを打たせる。
そのようなあんばいの私、この本から私が受けた感動をにわかに綴ることはいまは控える。ただ、あまりの松岡先生の両親の素晴らしさには脱帽、何度も涙腺が緩んだ。30才で亡くなられた弟さんへの思いの深さ。姑との確執。夫の看とり。などなど。生老病死、どなたでも避けられない生きて行く上での諸問題が松岡和子先生の人生にも繰り返し訪れる。
が、先生は敢然と向かい合う。困難がたち現れる度に先生は覚悟が座る。何と素晴らしいことかと打ち負かされる。この方の翻訳日本語でリーディングをやりたいと思った私の直感は、正鵠を得ていたのだと自負する。本多劇場でいただいた名刺のご住所に我が家の八朔をお送りし、その中に音読リーディングのフライヤーも同封したのだが、ご本と、いただいたお葉書に、さりげなく岡山での音読会はいかがですか?とあった。誠実なお人柄が、さりげないお心遣いが文字から伝わってきた。身が引き締まるおもいがした。
明日は第6回目のリーディング、まだ始まったばかりなのだが、【逃げても、逃げてもシェイクスピア】は私にとって座右の本となるのは間違いない。これからの私の宝になり大いなる味方になる。ささやかな存在の私ではあるが、シェイクスピアのお導きで松岡和子先生と巡り会えた運命に感謝し、体が、声が出せる間は貴重な仲間(生徒さんと)と松岡先生の翻訳で、未到彼方高く聳えるシェイクスピア作品群を音読リーディングする覚悟である。
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