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2022-07-31

佐々木基一著【私のチェーホフ】を読み、猛暑の夏を乗り越える。

 コロナの急拡大が止まらない、熱波も続いている。幸いお休みだからなんとか知恵を絞りながら、食欲が落ちないように、自分流の暑さ対策をしながら、一日一日やり過ごしている。正直、なにもやる気がおきない。

だが、あまのじゃくの私としては、もう古希だからと弱気になるのではなく、自分よりずっと年上であるのに、素敵に生きておられる人生の達人であるかのような方々の、本やDVDを読んだり見たりして、自分にカツを与えながら、過ごしている。


今、佐々木基一さんというかたが、32年前に書かれた【私のチェーホフ】をゆっくりとゆっくりと読んでいる。五十鈴川だよりを読んでくださっているかたはご存じだとおもうが、コロナ渦中のこの数年、折々チェーホフ作品を繰り返し読んでいる。

若い頃にはさっぱり理解できなかった作品の多くが、還暦を越えてから徐々に染み入るようになってきたのである。だからチェーホフに関する本が目にはいると、買ってしまうのである。とはいえ、このコロナ下、書店に出掛けることも本当に少なくなったのだが、今読んでいるこの本は、先月神戸にウクライナのドンパスという映画を見に行った際、元町の古本屋で見つけた本である。

出掛ける頻度が極端に減ったとはいえ、からだが動く間は、犬も歩ければこそ、を信じている私が見つけることができた本なのである。いまから32年前の本などは古本やさんにしかない。東京の神田が大好きな私なのだが、なかなか上京できないので、神戸の街ぶら歩きでたまたま見つけたのである。

インターネット検索でてにいれたのとは、全く異なる喜びがあるのは、私自身が一番わかっている。当時の定価が2500円、しかも初版本、全く痛んでいない。そのような私にとっては大切な本が、なんと800円であった。このようなとき、ささやかに私は幸福である。

チェーホフはロシア革命を自分の目では見ることもなく、農奴の末裔として生まれ、苦学のはてに医学を学びながら、アルバイトで物書きをしながら劇作家となり、44才で亡くなる直前、不滅の名作【桜の園】を書き上げている。まさに命を削りながら、膨大なチェーホフしかかけない作品群を残している。

たぶん、私はいよいよこれから、本が読める間は繰り返しチェーホフ作品を手にすることになるだろう。過酷な生まれ落ちた情況をお医者様が冷静に観察し、描写してゆく人間存在のおかしさ、悲しさ、いとおしさ、不条理さ、をこんなにもどこか滑稽に、しかも真実感をもって書いた作家チェーホフ。

出口が見えないコロナ渦中パンデミック世界を、どこか予告しているかのようにさえ思える作品を書いたチェーホフ。このような作家が存在していたこと、その作品を日本語に今も翻訳してくださる方がいたことで、いま凡ぷの私が読める幸運。マイノリティ極まる、だが、人間にとってかけがえのない多くの先人たちの偉大な仕事を想うとき、私は暫しコロナも、暑さも忘れることができる。19世紀末、多くの民には薬もワクチンもクーラーもなにもなかった。

そのことに思いを馳せ。五十鈴川だよりをうちながら、暑い夏を乗りきりたいと私は想う。明日からは8月、肉体労働仕事がはじまる。


2022-07-29

古希の夏、90歳の母と妻と3人で剪定作業、そして想う。

 もう打つのも嫌になるくらいの暑さと、コロナの感染急拡大の最中、朝一番妻と私と母の3人で、母の家の繁った樹木の剪定作業を済ませ、シャワーを浴びさっぱりした気分で五十鈴川だよりに向かっている。

なにもこの暑さのなかでやる必要もなかったのだが、妻と私が同じ日におやすみというのはなかなかにないし、何よりも今日はゴミの収集日であったので、収集車がくる前に済まそうということで、3人で思い付いたが吉日で事をなしたのである。

古希の夏・昭和は遠く・なりにけり

わずかな樹木の選定作業といえども、業者に頼めばお金がかかる。おかげさまで私がまだ元気であるので、ここはひとつ妻のたのみを二つ返事で引き受けたのである。何よりも90歳になる母も動きはよたよたとはいえ、片付けで参加し妻はまだ元気に年相応に動けるので、見事に片付けることができたことの、何はともあれ62才、70才のトリオでの夏の剪定の思い出ができたことを、ささやかに打っておきたいのだ。

今できること、今日できることを、3人でやれるのは家での庭仕事くらいしかない。3人で語らいながら体を動かし、汗を流す。せわしなくなく蝉時雨をききながらでの老老親子仕事、これもまた現代の風景といえるかもしれない。その事をたんたんと肯定的に受け止めながら、やがてはこういうこともできなくなる日を見据えながら、でもまだ今日はできた有り難さを、五十鈴川だよりに打ちたいのうである。

母は老いて当たり前、現在の体を緩やかに動かす、嬉しそうであった。妻もまたどこか嬉しそうであり、私もまた老いゆく夏の、つかの間の親子時間が過ごせたことの、至福を感じたのである。この先このような共有時間は徐々に減ってゆくだろうが、私と妻が元気な間は、母との時間を楽しむ工夫をしなければいけないと、改めて思う夏を過ごしている。母は週に3日デイサービスに春から通っているが、今のところ一人で暮らせるほどの人である。

このところあまりの暑さで少し弱り、我が家で過ごしているので、妻は安心している。妻がことのほか母の面倒を細やかに見ているのだが、その献身ぶりには親子とはいえ、頭が下がる思いである。このようなことはあまり五十鈴川だよりでは打ってははないのだが、老いは必ずやってくる。老いは必然、病気ではない。元気な今のうちから、これは祈りのようなものだが老いをいかに生きてゆくかの勇気とよすがを身近な母から学びたいと、想う夏の朝である。

2022-07-28

日々之好日の夏を生きる、そして想う。

 暑さがこたえる夏が続いている。蝉時雨がかまびすしい。でも蝉のなかない夏などといったものは夏ではない。古希になってもいまだあの夏の少年期の黄金の夏を懐かしく思い出せるのはなんとありがたいことかと、思わずにはいられない。

記憶の宝庫とも言えるわが体である。繰り返し思い出しては、老いゆく体の気休めとして重宝している。見よう見まねで五十鈴川に飽くことなくかよい、泳ぎを覚えたあの夏の日の嬉しさは忘れようもない。なにもなかったが体はあった。そして何よりも無限に相手をしてくれる五十鈴川があった。そしてその五十鈴川は今も清流をとどめ、古希男のふるさとへのおもいを書き立ててやまない。

過ぎてみないとわからないことがある

ところで話は変わるが、7月はもうアルバイトはない。ゆっくりと本でも読んですごそうと思っている。とは言うものの早起きのリズムは決して変わらないし、ルーティンとも言える草取り等は、朝一番にやらないと、こたえるので今朝も朝一番に小一時間汗をかいてきた。戻って水を浴び五十鈴川だよりを打っているというわけである。

こうも暑いと、思考回路も弱まるので、打つこともなしといった思いにもかられるのだが、そこをなんとか面白く一日を過ごすために、あれやこれや考えるのである。古希を境にしてということもないのだが、本を読む傾向が以前とは異なってきたというのを、最近感じ始めている。

夏は読みやすい本を、自分にとって面白い本だけを読むたぶんこれは老いてきたこともあると思う。無理をしなくなってきたのである。

とわいうものの、これまで読まなかったような人物評伝のような本も、夏の読書としている。今読んでいるのは、起業の天才として知られ、バブル期に一時代を築いた江副浩正氏の470ページもある本で分厚い、リクルート事件で検察に電撃逮捕された江副浩正氏の大西康之氏が書かれた本である。40才まで東京で生活していたのでどこか他人事とは思えないのである。

同時代を全く異なるところで生きて生活していたものにとって、江副浩正という人間がどのような人生を歩んだ人間であったのかに、興味を持っていたし、また今日に繋がるあの時代がいったいいかなる時代であったのかを振り返り、ささやかに暑い夏に頭を冷やして考え、物思いに浸るのも、一興であると考えたのである。

すでに300ページを読み終えたが、ぐいぐい読めて面白い。人は生まれ落ちた環境や時代、本人の資質でかくも劇的に変化し続けるのだと、凡ぷには接点が余りにもないとはいえ、一人の人間の劇的栄華盛衰には、暫し感慨にふけるに十分な読み物的な面白さがあるのである。

米軍の占領が終わり1952年生まれの私としては、高度経済成長期、バブルが崩壊した1989年頃(長女が生まれた年)ソ連が崩壊、冷戦が終わり、世界の枠組みが代わり、インターネットが本格的にはじまる。以後日本は30年以上経済低成長期が今に続いて、私は古希をなんとか生きているというわけである。

バブル崩壊後、私は妻3才の娘共々岡山に移住し、今を生きているが、判断力決断力、たまたま運が味方したから現在があるのだと受け止めている。まさに人生はどう転んでも一寸先は読めない、わからないというのが、今をいきる私の正直な感慨である。

そしてその事は、すでに3年も続くコロナの変異で思い知らされているし、ウクライナでの戦争勃発から5ヶ月以上、物価は高騰し先行きの不安は減ることはない。だが、でくの坊は思うのだ、暑いなかでではあれ、草を取り体を動かし水分を補給し、茄子を収穫し今日をいかにいきるのかはすべて自分の動ける体に宿っているのではないかと、よきに計らうのである。そして疲れたら休むのである。

2022-07-24

姉からの・干物届くや・蝉時雨、そして想う。

 今日24日は、次女の最初の子供葉くんの一切のお誕生日である。コロナ渦中に生まれ、今また7波の感染爆発が続いている。ウクライナでの戦争は5ヶ月を迎える。

何を打ちたいのかが自分でもよくはわからない。穏やかな夏の朝、蝉時雨を聴いてコーヒーをのみ、次女にお祝いのメールを打ったら、五十鈴川だよりを打ちたくなったのである。

なにはなくとも、時間的に余裕があり、五十鈴川だよりを打ちたくなるのだから、老いの養生、身心機能調節として、気まぐれ稚拙文を打つことで今をいきるのである。佐藤愛子さんをお手本とし、ヤケノヤンパチ少しでも気分が上向き、ほぐれるような一日を送りたい、ただそれだけである。

繰り返し読む古希の夏

初老凡夫には理解不能な出来事が、こうも何年にもわたって多発しやむことなく続くと、まともな良識を持っている、ごく普通の庶民はうつぼつとどこか、自分の体に風通しをよくしないと、まずいのである。

自分という存在の不可思議な謎というとオーバーかもしれないが、もし還暦以後五十鈴川だよりを打っていなかったらと考えると、ちょっとゾッとする。五十鈴川だよりを打っていたからこそ、きっと右往左往しながら、今日も打てているのではないかと想う。打たないとやはりどこかがよどむのである。流れは、久しく留まりたるためしなし、至言の言葉である。

老いつつも細胞は生まれ変わり、命はうつろい昨日の自分とは異なる。だから臆面もなく恥をさらして五十鈴川だよりを打つという、答えのない煩悩を迷宮入りのように打てるのだろう。

さて、話を変える。私には一人姉がいる。生まれたのは北朝鮮、平壌の近くの新義州から、両親生後半年の兄と共に引き上げてきた。強運の持ち主である。引き上げ時3才にはなっていない。今年79歳になったのではないかと想う。インターネットもなにもしない、スマホも持たない、善良を絵にかいたかのようなひとのいい姉である。

その姉から、先日干物が送られてきた、いつものように手書きの文字が添えられている。はんでおしたかのような決まりきった文字が書き連ねてある。お上手のない普通の常套紋切り型なのだが、その事の有り難さへの気付きの深まりを感じる。かけがえのない姉である。

この姉の存在が、やはりたぶんどこかで作用していて私をふるさとへと招くのだ、と思う。いくつになっても姉は姉なのである。80歳を越えている義理の兄も愚弟である私を暖かく迎えてくれる。だから私の心のユートピアであるふるさとに当たり前のように帰ることができた。だがふるさとの姉や兄達も高齢者である。この数年は毎回これが最後かもしれないというくらいの気持ちを抱きつつ、暫し元気な再会を寿いできた。

姉の文面には、年々老いゆく体の不具合が綴られている。だがいつも私が感心し、嬉しいのは末尾の言葉が前向きなことなのである。どこかで達観しているし、そのような日々の最中に私に干物を送ってくれるのだ。ありがたい、ただそれだけである。

肉親であれ、友人であれ、人は生涯に何人のかけがえのない存在と、出会えるのであろうかと、今更ながら思い至る夏である。【姉からの・干物届くや・蝉時雨】

2022-07-23

佐藤愛子さんの最後のエッセイ【90才、何がめでたい】を読み感動しました、そして想う。

 佐藤愛子さんという作家がおられる。パラパラとエッセイをひもといたことがあるくらいで、作品もきちんと読んだことがない私である。だが、歯に衣着せぬ、大胆でおおらかで底が抜けたかのような、まさに天真爛漫という他はないお人柄と、次々と無理難題に見舞われる人生の苦難を真っ正面勝負、まさにあっけらかんと乗り越えてこられた、その胆力に私は脱帽する。

1923年生まれとあるから、まもなく100才になられる。くどくど打つことは控えるが、佐藤さんは88才で、最後の小説を書かれ、92才で最後のエッセイを書かれている。最後のエッセイのタイトルは【92歳、何がめでたいである】、この本を昨日大笑いしながら一気に読み終えた。

ジニアという花

そして想う。爽快清々しいというのは、こういう方のことなのであると、私はつくづく感じ入った次第なのである。目はかすみ、耳は衰え、まさに戦いすんで日は暮れて、体は満身創痍で、92歳のご年齢で、かのようなエッセイを書かれる品格に私は心底驚愕している。とてもではないが私は佐藤さん(と呼ばせてください)に勇気をいただく。爪の垢でもかくありたく学びたい、という気持ちが五十鈴川だよりを打たせる。

古希になった私だが、佐藤さんのごほんを読むと、まだまだ足元にも及ばないと深く頭を垂れずにはいられない。あまりにも急激な時代の変化に、追い付いていかない体と心の不具合を、こうもあっけらかんと、ユーモアたっぷりと読者サービスしてくださる、懐の深さに、私は何度も脱帽した。

私にとっては初めての、大きな手術を乗り越え、古希を迎えることができて以後、交遊関係 含め人生観他、あらゆることの見直しを、否応なくすることに必然的になり、コロナの感染が再び広がる今も、それはずっと続いている。92歳であれほど飾らない自然体で、実感のこもったエッセイをかけることの人間性

私は心底脱帽し、多いに共感し、行間から匂いたつ昭和の香りが、私の個人的記憶とシンクロし、つまりは世代を越えて一方的に同士と出会えたかのような気になってしまったのである。普通の偉大さとでも呼ぶしかない、あまりにものスケールの違う昭和の庶民の心意気のシーラカンス的生き方の、お手本を見たのである。でくの坊はひたすら憧れる。カッコいいとしかいいようがない。

僭越至極ではあるが、この佐藤愛子さんの時代の目まぐるしさに動じない、慶賀すべき普通感覚に打たれる。その事をきちんと今朝はただ五十鈴川だよりに打っておきたい。

佐藤さんがお書きになっておられるように、この世はなんと酷薄非情なグロバタリアンどもが暗躍闊歩する鵺のような気持ちの悪い世の中へと変貌してゆくことか、その世の中を右往左往コケツマロビツ必死でいきるわたしたち。わかってはいてもどうにもならないもどかしさ、だが佐藤さんのような揺るがない覚悟があれば、動ずることはないのだ。この世はガリガリもうじゃだけではない。そっとけなげに見えないところで、花は咲いているのである。

佐藤愛子さんという作家の本をきちんと読まねばとおもう。人間存在のおかしさ、悲しさが、大所高所の評論家のご意見ではなく、物を言うすべを持たない庶民の痛みや悲しさに、親身に寄り添える大事な感覚をお持ちだからこそ、私を含めた民の支持を得て、作家として存在し続けることができたのだと思える。こういう作家はもう現れないだろう。

そして想う。もう私も限りなく普通の庶民としてのおじいさんになりたいのだ。難しいことは考えない。18才から世の中に出て半世紀以上が、瞬く間に過ぎたのであるが、本当に私にとってかけがえのないかたたちとの人生が、時間の許す限り共に歩めたら、もう他には私にはなにも必要ないのである。【蝉時雨・聴きつつ想う・昭和かな】

2022-07-18

90才の母と1才の葉くんとのふれあいが教えてくれた、今朝の五十鈴川だより。

 日録的にわずかでも打ちたい五十鈴川だより。今日お昼の飛行機で次女家族が帰る日の朝である。

昨日娘が結婚式に出掛け帰ってくるまでの間、孫の葉君のお世話を、母、妻、次女の夫と私の4人でやりながら、普段とは全く異なる時間を過ごした。いちいちは記さないが、記憶に残るよき一日を過ごすことができた喜びを新鮮なうちに少しでも打っておこう。

朝顔のような我が家の夏の花

次女抜きで、葉くんはお昼前まで家でご機嫌にすごし、お昼はとある長船の、家から20分位のところにある、田んぼのなかの定食やさんに出掛け(その間葉君は静かに大の字になって寝ていた)お刺身や天ぷら、フライなどの定食をいただいた。

ランチの後、目覚めた葉くんみんなでドライブ。宝伝の海まで散歩に出掛け、束の間潮騒の香りを嗅ぎ、砂浜を葉くんが触れる一時をすごす。記憶にはなくても最初の海の砂浜が体験できてよかった。葉くんは嬉しそうにしていた。家の戻ったら午後3時。おやつにスイカをいただいた。

それまで穏やかにしていてくれた葉くんのご機嫌がちょっと怪しくなりかけた午後4時前に娘が帰ってきた、とたん、葉くんのご機嫌が元通りになったのには、母親の存在の大きさを目の当たりにして、私は我が娘が母親として、成長している姿に、男子としてある種の感慨に耽らずにはいられなかった。

私の二人の娘は、大きく成長し、娘ではあるが全く物次元の存在となり、私たちが無我夢中で子育てをして来たのと同様、夫と共に助け合いながら立派に葉くんを育てている。まもなく葉くんは一才になる。未知の子育て世界、よくぞ二人で頑張って育てている姿を私と妻はしっかりと焼き付けることができた。(となりの部屋で葉くんが目覚め、早速妻の声が聞こえてくる)この続きは彼らを岡山空港まで見送ったあとに打つことにしたい。(結果昨日は打てませんでした)

申し訳ない。ここからは今朝うっている。昨日の五十鈴川だよりを引き継いで打つことにする。昨日空港に向かう前、わずかな時間ではあったが、私が肉体労働バイトをしている場所にある菜園場に全員で出掛け、茄子やミニトマト、シシトウなどをお土産に収穫し、義理の息子に私のバイト先を案内し、農耕車にのせ休日で誰もいない敷地内を走った。

最初娘家族3人、次は母と妻をのせて、夏の青い空のもと蝉時雨を聴きながら束の間の、よき時間を持てた。葉くんは記憶には残らないかもしれないが、90才の母とまもなく1歳になる葉くんとの記憶に残る共通の時間が最後に我が愛しきバイト先で持てたことは、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたい。

一旦家に戻り、パッキングをして10時前空港に向かう。予定通り早めについて空港で食事、心優しきS平さんが母の分までご馳走してくれた。葉くんは終始ご機嫌で、母と妻は心底嬉しそうだった。次女家族は12時25分の飛行機で空の上の帰路につき、楽しい束の間の幸せ時間は夢のように去っていった。

最後に、コロナ7波の感染拡大の最中、2泊3日、次女家族と再会のひとときが、もてたことの有り難さを野暮を承知で打っておきたい。90才の母と1才の葉くんとのふれあいコラボレーション時間の、えも言えない、葉くんのしぐさと声、その溢れる嬉しき表情が忘れられない。母がなんとも嬉しそうに葉くんと遊んでいる姿を、眼底に焼き付けることができ、映像で記録できたこと、今回の帰省の最大の喜びとなった。

そしてあらためて思い知らされた。循環する命の尊さを。いかに無垢で小さな命がかけがえのない存在となり、母の現在を活性化するのかを。その瞬間を目の当たりにして、私はかけがえがないとはこういうことなのであるということを、まさに教えられたのである。

ともあれ、これ以上は打たない。幸福とはなにか。夏休み時間が与えてくれた喜びを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

2022-07-16

【孫来たり・暑さとおのく・わが家かな】そして想う。

 昨日夕方、午後6時新幹線で次女家族が2泊3日、今日次女の友人の結婚式に参加するために、まもなく1歳になる孫と夫であるS平さんもともに帰省した。というわけで普段私が使っている部屋は、次女家族が使っているので、私は書斎に寝て、いつものの時間に目覚めたので、起きて五十鈴川だよりを打っている。

昨年の夏7月24日コロナ渦中に生まれ、今またコロナ第7波のなか、元気に成長している孫と再会できたことの喜びを打てたら、もうことさらとくに打つこともないのだが、いつの日にか孫が、私がもうこの世には存在しなくても、想像力でもって、この日の五十鈴川だよりを読むことが(よしんばなくても構わない)あるやもしれぬ、何てことを想うとお爺としては打ちたくなるのである。

喜びの性ということにしておこう。もうすでに自力で立ち上がれるところまで、まさにあっという間に孫は成長している。両親の愛情をたっぷりと受け、しっかりと育っているのがわかる。命はまさに千差万別の環境に生まれてくる摂理、我が娘の家族にやって来た命の成長を遠くから見守るためにも、ささやかに一年でも長く生きてお役に立てたら私も励みになる、何てことを殊勝ににも想う私である。

理屈ではなく、まさに言葉を自在に発することができない今の孫の姿は、神々しいとでもいう他はないほどの輝きを放っている。90才になる母も昨日からお泊まりに来ているが、なんとも嬉しそうである。家族に関してこの数十年、これは単なる私の印象で、とお断りを入れておくが、家族受難のニュースが多い気がする。幸い私は子供に恵まれ、今また孫に恵まれ、母に至ってはかなりの高齢者になり、いつ何時何が起こっても不思議ではない人生時間ではあると厳粛に受け止めつつも、とりあえず健康に穏やかに過ごせていられる、わが家族の夏の有り難さを噛み締めている。一瞬の夏の有り難さを打たずにはいられないのだ。

起きたばかりの葉君

わずか2日間の里帰りではあるものの、孫の帰省に対する妻の喜びようは、男親とはまた全く異なり、ただただ嬉しそうで、それを見ている私もただ嬉しいという気持ちになるのだから、つまりはこれがありきたりに言えば、幸福ということなのだと、月並みに思い、平凡の極とはこういうことなのだと、府に落ちるのである。

なんとか古希まで生きて来れ、現時点での人生で、このような孫との廻り合いなどいったい誰が想像し得たであろうか、まさに一寸先喜びも悲しみもいつ突然に訪れるのかは、やはり神のみぞ知るとでもいう他はない。

だが、ともあれ今孫は隣の部屋にいる。つかの間ではあれ、次女家族と母も含め全員健康で再会過ごせた喜びを、五十鈴川だよりにきちんと打っておこう。【孫来たり・暑さとおのく・わが家かな】。孫のお世話をする一日が始まる。


2022-07-13

3ヶ月に一度の定期検診に出掛ける夏の日の朝に想う。

 昨年手術し23日間入院し、退院したのが3月23日、あれからまもなく1年4ヶ月である。退院してから3ヶ月に一度、私を手術してくれたM先生の定期検診を受けている。今日はその定期検診の日である。だから午前中の肉体労働仕事はお休みなのである。

お陰で穏やかに五十鈴川だよりを打てる。なにげない普通の日々の有り難さを、こんなにも感謝して以後生きられるようになったのは、明らかに人生で始めての、私にとっての大きな手術を体験し、まさに強運でというしかないのだが、生還できたからである。

素晴らしい師弟関係に打たれた

M先生の判断力、見事な手術のお陰で、今を生きられていることの有り難さを思わずにはいられないのである。退院後の私は以前にもまして、シンプルこの上ない生活を送っている。余計な欲というか、煩悩のようなものから解放され、相変わらずの目をおおいたくなるような日々の報道の最中、足るを知る生活を、極めて健康的に送っている。

話はちょっと飛躍するが、もしも手術入院体験がなかったら、10年ぶりの企画はできなかったというか、やるのだという覚悟は生まれなかったという気がする。万事塞翁が馬とでもいうしかないほどに、自分の人生をあたかも物語りかして綴りたくなるのは、性とでも言うしかない。日々揺れ動きながら、老いつつある一回生の今を思考確認するのが、五十鈴川だよりを打つという事なのだ。

執刀してくれたM先生に3ヶ月に一度会えるのが、ちょっと嬉しい私である。医者嫌いの私であったのだが、M先生の言われることには素直に従う自分がいる。一番驚くのは50年以上飲んでいたお酒をピシャッと絶った事である。自分というかけがえのない器を労るようになった、依存しなくなったのである。

これは養老孟司先生もおっしゃっておられたが、自分の命は自分だけのものではないからである。先生も大好きだったタバコをやめられた。家族を含め悲しむ人がいるのであれば、とくにその方たちのためにも、自分の命を大切にして日々を送らねばいけないと、とくに古希を迎えてからは想う私なのである。

だから慎ましく生活し、M先生の定期検診を受けながらいよいよこれからの人生時間を大切に、なにか私らしい企画がわいてくるような体をキープしたいのである。言うはやすしだが、そのためには日々どういう生活を実践し心がけ持続するのかは、五十鈴川だよりをうちながら、自問自答するしかない。

答えは自分の内側からわいてくる第一次情報に耳を澄ませ、謙虚に学び、仲間と相談し、何より楽しく企画するしか、私には他に方法がないのである。水は流れる方にしか流れない。自分という謎のような存在が活性化するために一番気持ちがいい生活を心がけながら、無理は決してせず緩やかに企画したい。

2022-07-10

安部元総理が暗殺された二日後、参議院選挙の朝に想う。

 一週間ぶりの五十鈴川だよりである。五十鈴川だよりをうち始めた当初、特に60代前半は、3日も打たないと、何やらサボタージュ感があったのだが、この春、10年ぶりの全くのオリジナル企画を、多くの方の(目に見えないご支援含め)共感力を得て実現することができてから、以前にもまして、枯れてきたというか(いい意味で私はとらえている)もう興趣がわいてくることしかせず、あくまで自然体で自分の体が喜ぶことに重きをおいて、生活している。

もう何回も打っているが、人生の遊行季を生きている私としては、これからの日々の時間を、可能な限り穏やかに静かに生活しながら、どうしても体が内側から発するおもいがたまったときにのみ、なにかを企画したり、アクションをおこしたりするにとどめ、ひたすらバカの一つ覚え、でくの坊的に生きてゆきたいのである。

このところ絵本を音読している

話を変える。今日は参議院選挙の日である。一昨日、安部元総理が白昼凶弾に倒れ、日本はもとより世界中がその報道で溢れその突然の死を悼んだ。後年歴史的な一日として記録され、改めてこの日を境になにがしかの大きな転換が加速され、起点の出来事になる事件ではないかという気がしている。

そしていきなりというしかない不慮の出来事にまたしても一瞬先何が起きるのか、がわからないという当たり前のことを、またもや思い知らされている。

うちながらもどこか言葉がむなしく、年寄りのくりごとになるので多弁は控えたいが、人間という存在の闇の深さをあらためて喚起させる出来事である。(一見普通の人間が抱え込んでる闇の深さのはかりしれなさ)得たいの知れない、言葉化しえない、現代社会が嫌でも抱え込んでしまっているやり場のない閉塞感が、このような白昼のあっけにとられるという犯罪事件となって顕れたとしたら、現代に生きている初老凡夫の私にとっても心中穏やかではいられない。いまだどこかがざわついている。

民主主義の危機があちらこちらで散見されるが、五十鈴川だよりを打つものとして想うことは、素手で自分の体で表現し訴えることをやめ、地道にヒトの心に届くような行為もせず、安易というしかない子供じみた発想の域をでない、刃物や爆弾銃などの犯罪が世界中で多発し、そして一見平和な国であると、私を含めたかなりの日本人が思い込んでいる我が国で、一国の元総理がかくも安易に暗殺された事実に、どこか私は驚愕を覚える。

青天の霹靂という一言ではすまされない、不気味な時代がすでにヒタヒタと迫ってきている事の恐ろしさを無意識にもどこかで感じずにはいられない。そのようなことを感じるのは私だけではあるまい。いったんタガガ外れるとなしくずし的になってゆきやすい人間心理の怖さを、私は警戒する。

大人は考え忍耐して、この国の行く末、未来をのかたち、どのような社会を子供や孫たちに遺し伝えたいのかを、やはり月並みだが一人一人が胸に手をあて思考し、選挙に行き一票を投じる他はない、というのが私の思いである。

安易な武器に頼った、ヒーロー気取りはフィクションの世界だけにとどめてほしい。時間がかかっても、ゆっくり確実にいきること。途方にくれながらも、先人たちが流した気の遠くなる血の量の上になんとか築き上げ、たどり着いた民主主義国日本。平和は必死で守らないと足元から崩れてゆく。亡くなられた城山三郎氏がおっしゃっておられたが、先の戦争に負けて一番よかったことは民主主義をてにいれたということだと。日本という国での選挙、繰り返すが一人一人の大人が考え投票に行くしかない。


2022-07-03

猛暑のなか菜園場所で自足時間をすごし心身を整え、そして想う。

 起きて外に出てみると、地面が濡れている。夜中にお湿り程度の雨の恵みがあったのだと知る。集中豪雨は困るのだが、ほどほどの雨、まさに恵みの雨程度の雨が降ってくれないことには、まさに第一次産業、とくに農家の方たちにとっては、死活問題といっていいほどの重大事である。

そんなことを身に染みて思うのは、ささやか極まるのだが、わずかな面積の菜園場で、茄子やトマト、そして移植したばかりなのだが、枝豆を育てているからだろう。この記録的な季節外れの猛暑のなか、お休みの日も必ず菜園場の様子を見ながら、朝や夕刻の水やりが欠かせない。

自足する時間、居場所を見つける

水がかれたら、植物の命はたたれる。オーバーではなく人間も同じであると、つくづく感じ入る。枝豆に水をやりながら、命を育てながら、そして自分の心と体の手入れをするかのように、容赦のない暑さのなか、一人青空のしたで、これもまた運命と呟きながら一人時間を過ごすのである。

水を得た魚ということばがあるが、根付き始めた枝豆は地中に根を伸ばしながら、天に向かって枝葉が伸びてゆく。根を張らないと、たちまち枝葉は容赦のない自然界の掟のなかでかれてしまう。それほどに過酷な自然界で根をはって生きてゆくのは厳しいのである。

そのようなことに想いを馳せる一時を持てることが、作物を育てたり、天ノ下で肉体労働に従事できることの、あり難さであると思い知る。何気ない一日の猛暑のなかでも、枝豆は水と栄養、光があれば成長する。傍観者に過ぎない私は根付き始めた枝豆の緑の葉を眺めながら、無言の対話をする。

なんとか古希を迎えることができたからこその、ある種の感慨とでも言うしかない。コロナ下、そしてまたパンデミックに世界の食料問題やエネルギー問題に影響を、嫌でも及ぼしてしまう、ウクライナでの終わりの見えない(終わりの始まりではないことをいのる)不条理戦争の最中、心身が落ち着ける居場所があるということの、なんという有り難さであろうかと、まさに念仏を唱えるのである。

八月が来れば、このフリーター的青空仕事は丸4年を迎える。始めたときまだ最初の孫は生まれていなかった。今月の24日、昨年コロナ渦中で生まれた二人目の孫は一才になる。まさに万物は流転し、時は流れうつろい流れゆく。

予測のつかないことがあまりに多次元にわたって頻発し、あらゆるメディアが、かまびすしく報じてまるで報道洪水ととでも言うしかないが、古希男としては足元の空と大地からの知らせに耳を澄ます訓練を続けること以外に他にやることもない。出掛けない限りほどほどのお金で、満ち足りた生活を実践する術を、五十鈴川だよりをうちながら、答えのない答えを、ハムレットのように、あとは沈黙と打てるまで、打ちたいというのが今朝の正直な気持ちである。