コロナの急拡大が止まらない、熱波も続いている。幸いお休みだからなんとか知恵を絞りながら、食欲が落ちないように、自分流の暑さ対策をしながら、一日一日やり過ごしている。正直、なにもやる気がおきない。
だが、あまのじゃくの私としては、もう古希だからと弱気になるのではなく、自分よりずっと年上であるのに、素敵に生きておられる人生の達人であるかのような方々の、本やDVDを読んだり見たりして、自分にカツを与えながら、過ごしている。
今、佐々木基一さんというかたが、32年前に書かれた【私のチェーホフ】をゆっくりとゆっくりと読んでいる。五十鈴川だよりを読んでくださっているかたはご存じだとおもうが、コロナ渦中のこの数年、折々チェーホフ作品を繰り返し読んでいる。
若い頃にはさっぱり理解できなかった作品の多くが、還暦を越えてから徐々に染み入るようになってきたのである。だからチェーホフに関する本が目にはいると、買ってしまうのである。とはいえ、このコロナ下、書店に出掛けることも本当に少なくなったのだが、今読んでいるこの本は、先月神戸にウクライナのドンパスという映画を見に行った際、元町の古本屋で見つけた本である。
出掛ける頻度が極端に減ったとはいえ、からだが動く間は、犬も歩ければこそ、を信じている私が見つけることができた本なのである。いまから32年前の本などは古本やさんにしかない。東京の神田が大好きな私なのだが、なかなか上京できないので、神戸の街ぶら歩きでたまたま見つけたのである。
インターネット検索でてにいれたのとは、全く異なる喜びがあるのは、私自身が一番わかっている。当時の定価が2500円、しかも初版本、全く痛んでいない。そのような私にとっては大切な本が、なんと800円であった。このようなとき、ささやかに私は幸福である。
チェーホフはロシア革命を自分の目では見ることもなく、農奴の末裔として生まれ、苦学のはてに医学を学びながら、アルバイトで物書きをしながら劇作家となり、44才で亡くなる直前、不滅の名作【桜の園】を書き上げている。まさに命を削りながら、膨大なチェーホフしかかけない作品群を残している。
たぶん、私はいよいよこれから、本が読める間は繰り返しチェーホフ作品を手にすることになるだろう。過酷な生まれ落ちた情況をお医者様が冷静に観察し、描写してゆく人間存在のおかしさ、悲しさ、いとおしさ、不条理さ、をこんなにもどこか滑稽に、しかも真実感をもって書いた作家チェーホフ。
出口が見えないコロナ渦中パンデミック世界を、どこか予告しているかのようにさえ思える作品を書いたチェーホフ。このような作家が存在していたこと、その作品を日本語に今も翻訳してくださる方がいたことで、いま凡ぷの私が読める幸運。マイノリティ極まる、だが、人間にとってかけがえのない多くの先人たちの偉大な仕事を想うとき、私は暫しコロナも、暑さも忘れることができる。19世紀末、多くの民には薬もワクチンもクーラーもなにもなかった。
そのことに思いを馳せ。五十鈴川だよりをうちながら、暑い夏を乗りきりたいと私は想う。明日からは8月、肉体労働仕事がはじまる。