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2022-06-12

花のある暮らし見つめる梅雨の朝

さて、今日はお休みだし、気分転換もかねて出掛けようと思っていたのだが、妻が休日だったので、共に過ごすことにし、妻が仕事の明日出掛けることにした。若い頃の自分とはあまりの様変わりだが、これがいまの私にとっては一番自然なことなのである。臆面もなく打つ、大切な人との時間を最優先にいきる、のだ。とは言うものの、いまだどこか気恥ずかしいし、野暮この上ないのでこれ以上打つのは控える。 話を変える。今年になりテレビを買い換えたことで、私としては珍しく多機能テレビを、休日ほか楽しめている。以前は娯楽作品を、リアリティのうすい絵にかいた餅のように感じている自分がどこかにいて、ドキュメンタリーや大自然の映像作品、小さな旅、紀行ものなどを、多く見ていたのだが、古希を境に、たまたまそうなったというにすぎないのだが、レイさんのお陰で、ネットフリックスを利用することができるようになり、娘たちの推薦する韓流ドラマに、いまの言葉で言えばはまっている。 いろんな報道に接し胸を痛める私も、韓流に涙する私も、絶対矛盾をいきるいまの私である。それが現代を生きているごく普通の庶民の私の偽らざる私の姿なのである。さて、いま私は英語で我々のブルースという連続ドラマをみている。年を取ると涙もろくなると言うが、だからどちらかというと涙もろい自分を知っているので、できる限り一人で見るようにしている。
済州島のいまをいきる島民の一言で言えば、人間グラフィティである。老いる、生と死、親子、青春、更年期、友情、恋愛、いろんな家庭事情のドラマがなん組も同時進行で、連続ドラマの常套てき手段で、次の展開が見たくなるように作られている。安心してフィクションの世界に引き込まれ、嘘の世界のダイナミズムに、私にとっては酔えるドラマなのである。 やるせなくも切ない、歯がゆいほどのままならなさを、必死にいまをいきる登場人物たちのときにやり過ぎるほどの、熱演怪演には何度も唸らされ涙した、私である。ご関心があるかたは是非ご覧になっていただきたい。このような韓流ドラマに心の情動がうごくかたとはお付き合いしたいとおもう私である。田舎の少年期の我が家族を彷彿として思い出す。お隣の国のドラマであるにも関わらずどこか懐かしく、ときにうっとうしいまでの情の深さに、心がかき乱されるのである。なぜなのだろうか。不思議である。 くどくど打つことは、妻とのことをくどくど打つに等しいので、これ以上打つことは控えるが、このドラマの舞台である済州島にものすごく行きたくなっている。全ての回に引き込まれているのではもちろんないのだが、ロミオとジュリエットを下敷きにした、高校生のカップルが妊娠し、おお騒動の末の親子の断絶とはっぴいえんど、障がい者の姉と妹の双子の物語、幼馴染みとの再会との軋轢、和解などなど。好きな俳優イ・ビョンホンの演技を見るだけでも打たれる。打っていると頭のなかを映像がめくるめく。 この全登場人物、あまりにも愛すべき人間の愚かしさ、そして崇高なまでの人間の美しさが、優しさが、厳しい海の労働によって生計をたてるメインの登場人物たちの生まれ育った済州島を舞台に描かれるのである。 あまりの済州島の美しさにため息がこぼれた。カメラアングルの素晴らしさ、光を浴びる海の輝き、巣潜りで漁をする海女さんたちのしなやかさ、夕日、花ばなが、愛すべき登場人物たちを限りなく優しく包み込む。このようなあまりにも分かりやすく楽しくそしてあり得ないような連続娯楽ドラマを作れる人々が現代の韓国にはいるということの驚きをきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。いまの韓国ドラマは活力がみなぎっている。アジアの情動が古希のわがからだをいたく刺激する。 それにしても、名シーンが随所にある。演出が歯切れよくデジタル世代の感性のドラマであることが府に落ちる。しかし描かれている内容は温故知新なのである。暗鬱な梅雨の気分を吹き飛ばしてくれる。なんとも言えないやるせなさ、人間の切なさが染みる。

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