一昨日の日曜日、神戸と大阪で2本の映画を見た。元町の映画館で、午前中一回だけの上映のフィルムは、ウクライナのフィルム、セルゲイ・ロズニィツア監督【ドンパス】、(この監督のことは全く知らなかった)午後大阪の第七芸術劇場に移動、見たのはヤン・ヨン匕監督の【スープとイデオロギー】。2本ともほとんど予備知識なく、いきなり見た。
済州島に行きたくなりました |
ウクライナのフィルムはドキュメントタッチのフィクション、スープとイデオロギーはドキュメンタリーである。一見して全く違う作りではあるのだが、共通しているところがあると、あえて打つなら、あまりにも重いテーマを(人間と言う生き物の存在の不条理にまで思考を深めて考えざるをいない)描いていると言うことである。
今朝の五十鈴川だよりでは内容については深くは触れない。ただ一人の人間として、見たと言う事実をのみ記すにとどめたい。だがドンパスは、いまウクライナで起きている現実のおぞましさを知らしめてあまりあるフィルムであることだけは、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。2018年の作品だが、すでに東ウクライナでは尋常ならざる戦争が新ロシア派とウクライナの間で起こっていたあまりにも言葉を失う生々しい実態が描かれている。一人の映像作家が全存在をかけて創った作品。恐ろしいというほかはないほどのリアリティが作品に込められていて、見ていて正直気持ちが悪くなった。
二本のフィルムを見たと言う事実を記すにとどめる。(平和ボケと言う言葉を浴びせられても仕方がないほどに、私は平凡に生活している)現実にウクライナで続く異様な惨状には目をおおいたくなる。このようなドキュメントな映像はけっしてお茶の間には流れない。憎しみは人間を狂気へと導くことを知らしめてあまりある。
ウクライナでの戦争は長期化している。10年ぶりに企画したことで、老いつつもこのまま老いてはまずいという気が、(極めて平凡にある意味で能天気に生きている自分に、いきられている自分が)、かすかな想像力の導きが、たぶん私を遠方の映画館まで行かせたのだと想う。
出掛けていって、あまりにも重いフィルムを視たからといって、初老凡夫の私の生活が変わるわけではないことは自明なのだが、見ておかねばいけないとの思いが、古希の体をつき動かすのである。知らぬが仏的な自分も否定しない。だが忘れやすく流されながらも忘れてははいけないことがあるのだ、と自省する。無関心であることに忸怩たるじぶんがいまだ存在する。平和を享受しうる側に生きられるありがたさ。そのうらがわにはおびただしい苦難をいきている無数の民の慟哭の声が。ささやかであれかすかに思考する勇気をなくしたくはない。
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