外は雨、梅雨入り間近を思わせる朝である、昨日の午後からの雨が降り続いている。肉体労働はおやすみ、だから今朝はいつにもまして穏やかな気持ちで五十鈴川だよりが打てる。
先程、残り湯を暖め、朝湯を浴びコーヒーをいただき静かにキィを打つ。いつものように新聞の見出しを見る。まだ開いてはいない。昨日堀江健一さんの快挙を、その姿を映像で見て、思わず画面に向かって拍手した。このところの報道のなかで、極めての快挙というしかないほどの明るい話題で、私はただ感動した。
雨の日はこんな本を読みたい |
ただ今朝の見出しは、NATO加盟申請のフィンランド、来てはならぬ日に備え、ロシアの脅威に備えて、国防軍の射撃訓練が急増している、とある。
考えたくはないのだが、すでに第三次世界対戦が始まっているかのような、不気味な時代の到来をどこかで感じているのは、私だけではないのではないかという気がする。やたらと不安をあおるようなことは打ちたくはないのだが、この先ウクライナでの泥沼化して行く戦争はいったいいつまで続くのかと想うと、暗鬱になる。
ただ一人の初老男にできることは、可能な限り伝えられる、信じられそうな人の発する言葉に耳を済ませ、想像するバランス力を研ぎ澄ませ、無関心ではいけないとの念いを深めるしかない。現代兵器と、サイバー情報戦によるウクライナでの長引く戦争に、もう充分に年よりの私が、自分でも信じられないくらい反応するのは、おそらく最悪核兵器や、むごいというしかない生物兵器他の、言葉を失うほどの、ジェノサイド戦争になるのではないかとの恐怖があるからである。
ファクトチェックをするのが大変な時代である。あらゆるフェイク映像がこともなく作られ、メタバース化される。凡人の私などは何を信じたらいいのか、とときにためらい迷う。だから動体平衡を養うために言葉に耳を済ませ、騙られないようにしないと、とはおもうが所詮限界がある。
でも考えないとまずいとの絶対矛盾をいきるのだ。ハムレットの呟きは私にとって永遠に響く。このままでいいのかいけないのか。どちらが正しくどちらだ正しくないのか、どちらに理がありどちらに理がないのか、人を殺していいのかいけないのか、国際条約や法律は、憲法はなんのためにあるのか、、、、。凡ぷの思考能力を凌駕してあまりある、そら恐ろしき時代の到来。
だが、だがである。でくの坊は想うのである。雨が降るのは誰も止めることはできないが、戦争は止めることができるのではないかと。一昨日の朝のNHKのニュースで鈴木陽平(という名前だったとおもう)記者がウクライナで両親が殺された12才の男の子とその日記のリポート映像を伝えていた。目が吸いつけられた。
まさに言葉を失う。叔父や叔母が我が子のように面倒を見ていて胸がいたんだ。そのようなリポートを届けてくれる若い記者がいることに、どこかで私はほっとする。日々の暮らしの中に飛び込んでくる、おびただしい情報戦争のなか、瞬時心が洗われるかのような暖かい情報を伝えてくれる良心的な人間的な記者の存在に救われる。五十鈴川だよりもささやかに静かな良心を綴れるようなブログで在りたい。
(感覚の麻痺を私は恐れる)
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