ちょっと真面目なことを考える時間が増えてきたのは、明らかに人生の残り時間が見えないにもせよ、物理的に減ってきているからに他ならない。じっと座って座禅を組んで考える方もおられるようだが、私はどちらかと言えば動きながら、何かしながら考える方である。
戦争体験がない世代として生まれたわたしである。未曾有の豊かな時代しか知らずに、なんとか古希まではいきることができたが、これから先もこれまでのような平和的な生活ができるなどとは、思えない。漠然たる不安は以前にもまして、このコロナ渦中に勃発したウクライナの長引く戦争で深まっている。
35キロ歩いてたどり着いた宇納間地蔵尊 |
だが、不安が増してきたからといって私の生活が変わることはほとんどない。還暦後にやってきたような暮らしを、これからはもっと大切にして生きてゆくだけである。もう十分に生きてきたのだから、これからはできるだけ、未来の人たちに迷惑をかけないような、シンプルなライフを、以前にもまして足るを知る生活を心かけるだけである。
こうも不安感を煽り、切り取られた編集映像の繰り返しを見せつけられると、人間は思考能力が麻痺してゆく気がして、私は極力映像よりも、信頼できるかたからの情報を、それもそんなには多くは入れないように努めている。
気が滅入る生活ではなく、気が上向く生活をこそ、それも普段昔の人たちがやっていたような、お金に頼らない生活をこそ、私はいよいよこれから心かけたいのである。そのためにやれることできることを、しっかりと考えた末に、なんとか見つけたのが、歩くことなのである。それと草取りである。
古希の今も月に120時間働いているが、このところ必ず少しずつ草取りに精を出している。草刈機の及ばない、どうしても手でやらないときれいにならないエリアの手強い、上に延びる草ではなく、地を這うように横に根をはる草に。今芝生の上に点在するクローバーを、農薬を使わず手で毎日時間を決めて抜いているのだが、ようやく最近少し楽しくなってきたのである。
毎日決まった時間、座禅を組むように、クローバーの根と格闘するのである。天ノ下で蟻のようにてを動かす。手先を常時使うので指先は土で汚れるが、洗うと血行の良くなった指がピンク色にかがやく。この歳になってこのような喜びを見つけるとは思いもしなかったが、歩くことと草取りは、なにか根源的な意味合いを私のなかにもたらしてくれそうな気配である。
世界の大変さを、ささやかにどこか心の片隅に留め置きながら、歩き行脚、草取り行脚しながら、精神の安定を図りたい。そして、あくまで人間のおぞましき蛮行にはノーの声をあげ続ける五十鈴川だよりでありたい。
座禅を組むように草取りですか!私も昨日畑のスギナ取りを行いました。座禅ではなく、はいつくばっての恰好でした。汗もかきましたが、手には、スギナの汁と土がびっしりでした。江戸時代に河豚の毒に当たったら首から下を生き埋めにして毒素を取ったと言う話があります。それほど土と言うより大地は毒素まで吸収してくれるようです。畑仕事をしている人は元氣だと言われますが、対話をしながら毒素を取り払ってもらっているからと思います。松田
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