ページ

2022-05-02

たまった新聞の書評欄をまとめて読む、そして想う。

 県外や遠方から今回の私の企画を応援してくださり、聴きには来られなかった友人知人に今回の挨拶文を同封し、一筆いれたお礼状を30通投函することができた。世の中すっかりデジタル、メタバース化しつつあるなかで、全くのオールド化を、浮世離れ、生きた化石化とまでは言わないが、そのような感覚をしだいに生きている私である。どこかで、私はそれを受け入れている。下手に迎合せず、可能な限り自分の居場所のいいところですごす、過ごせる時間を大切にしている。

妻が育てた見事な白いナデシコ

ついて行けないし、ついて行く気もまるでない。流れ流れ、こうやって五十鈴川だよりを打ちながら、日々の在る命をどこかでことほぎ感謝し、つまりは自己肯定的にいきられれば、もう限りなく満ち足りている。手のとどく範囲の大事な存在と限り在る時間を、それなりにいきられれば。静かに暮らし、好きなことに耽溺していたいというのが本音である。

だが、絶対矛盾という他はないのだが、いきなり罪なき人々の命を理不尽に奪う、戦争という蛮行に対しては、五十鈴川だよりを打てる意識がある間は、いかなる大義があろうとも絶対的にノーである。そのことは繰り返し打っておく。

さてこの休日、時間を見つけて、このところの忙しさで目を通していなかった新聞を、ざあーっと読んだ。似たような紙面作りなので、もうほとんど読むところは限られている。毎週土曜日の書評欄を読むためにM新聞を購読しているのだが、購読料にみあって、多岐にわたって無知蒙昧な私にいろんな事を教えてくれるので、好きな言葉ではないのだが、脳トレのような感じで読んでいる。

切り抜いた書評欄、おおよそ一月分を半日かけて、ゆっくりと読んだ。もう切り抜いて張り付けるなどということは時間がかかるし、面倒でもあるし歳を重ねるにしたがって減ってきてはいるのだが、尺取り虫の雑草とりのような感じで、今だに自己満足的に、読めないにもせよ、読んでみたい本を切り抜いて張り付ける自分がいる。

密かな老いの楽しみとして、続けられる間は続けようと言う気持ちに再び最近なっている。あれもこれもはできないのだ、続けられる楽しみは続けることに決めたのである。誰に理解されなくても、続けることの積み重ねで、ある日なにかが弾けることを経験的に我が体は知っている。要は面白がれる体の持続こそ大切なのである。

なぜこういう楽しみを見つけたのか、それはおそらく私のサラリーでは、限りなくおこづかいが少なかったので(その事が結果的には私には幸いした)お金要らずで楽しめ、なおかつ知的刺激を得られることが、今なおわたしが書評を読む一番の理由だろう。老いたらとにかくお金に頼らず、健康な体を持続する方法を見つけたいものである。

ウクライナでの戦争が一日でも早く停戦になるまでは、しばらくは充電しながら静かに生活し、ささやかになにがしかの次のアクションをと、念う。


1 件のコメント:

  1. 日高さんの文字は、まるで個性の表れである。家内も私のあて名を見ただけで「日高さんからよ」と言う。もう何年になるだろうか?メールよりも通信欄の独特の文字から伝わってくる。

    返信削除