肉体労働に出掛ける前の朝である。夜明けが早くなっている私の好きな季節だがまだ夜は明けていない。もう何百回と打っているし、たぶんこれからも打つだろうが、昨日と今日は異なるのである。今日の夜明けは今日だけである。その事の限りない奇跡的事実を、私を含め多くの人間は忘れている。だが嬉しいことか悲しいことかはわからないが、一面人は忘れるからこそ、生きて行けるのではないかとも言える存在なのでは、とも最近は考える。
妻が活けてくれた我が家の薔薇 |
どのような悲惨なニュースを画面を通じて目にしても、見たくないと気の弱い私などは画面を閉じてしまう。だが絶対矛盾だと承知の上で打たせてもらうが、人間として忘れていいことと、忘れてはいけないことがあるのだということを、この年齢になって改めて痛感する私である。いささか遅きに失した感はあるが、これからは忘れてはいけないことを、謙虚に学ばないといけないと思っている。
人間としての節度、倫理というものがあるとしたら。人間としてやってはいけない行為があるとしたらそれをしっかりと考えておかねば、まずいとは思うものの、ウクライナから伝えられるニュースは、時おり常軌を逸したかのような陰惨な映像報道が流れる。実際の戦争とは筆舌に尽くしがたい蛮行の修羅場の連続なのであろうから、言葉をうしなう。真実は藪のなかである。
異邦の安全極まる国にいて、修羅場を生きざるを得ない人たちの事に思いを馳せることの、困難さを思いしる私だが、花咲き乱れる春は、我が家の庭先と同じようにウクライナのかの地にも訪れていると、想像したい。人間の蛮行の報道にどうしても終始してしまうが、きっとお花の咲き乱れる風景もウクライナの大地にはやって来ているはずである。
そのような人間の及ばない大自然の風景も時おりは伝えてくれる報道者に出会いたいものだ。一方的に断じる、ののしりあい的な報道にはいささかうんざりである。どちらの大義を聞いても、所詮戦争は人の殺しあいである。無垢の罪のない人たちが、ウクライナもロシアも苦しむ。特に子供たちや、お年寄り、からだの弱い人たちが。その事を五十鈴川だよりを打つものとして決して忘れたくない。人間は自然の一部でしかない。憎悪は破滅へと、人類の破滅へと向かうしかないのは、今の一歩間違えば核戦争の時代、子供でもわかるだろう。
だがその事を理解できない世界を牛耳る闇の支配者たちがが、きっとどこかにいるのではないかと、五十鈴川だよりを打つ、初老男は考えてしまうのである。人間がどんなに意義や大義や自説の正しさを説こうが、春が巡ってくるのを止めることはできないのである。
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