月日は流れ、立春が過ぎ、日がかすかに長くなり早咲きの梅の写真が今朝の新聞に掲載されていた。確実に春の気配を、目には見えねど感じられる。ただ一人の人間として、日本の風土の中、九州は宮崎の海山川がすぐ近くにある、山里に生を受けた幸せを、歳を重ねるにしたがってひしひしと感じる。
両親がなくなり、この数十年少なくても年に二回、多い時は4回ほどお墓参りがてら故郷に帰省して英気を養ってきたが、この一年のコロナ渦で4カ月以上帰れずにいる。五十鈴川の河口の小さな町に生まれた私は 、【五十鈴川だより】と書かずにはいられないほどに、わがひなびた、さびれた、故郷への、偏愛は老いの深まりと共に、さらに深まってゆくように思われる。
どんな旧所明媚な観光地よりも、故郷の土地に私の精神と体が落ち着くのは、何故だかはわからない。この半世紀で無残といってもいいほどに町の姿は変化したが、かろうじて山河は私の記憶の原風景をとどめている。そして何よりも姉や兄たちが元気にしていて、頻繁に帰省する愚弟を暖かく迎えてくれるからだ。有難いというほかはない。
ふるさとの・訛り懐かし停車場の・人混みにそを聴きにゆく。と啄木は詠んでいるが、私もふるさとに帰ると、会話が一瞬で訛り丸出しになるになる。裸になれる場所が故郷である。
コロナ渦中で、故郷への回帰旅がかなわぬことはつらいが、オンラインで画面越しに、ここはじっと辛抱するよりほかない。それにしても感染症の恐ろしさに今だ世界が激震している中、家族親族、身近な方がたのかろうじての健康が保たれているのは禍福というほかはない。
やはり人社会のルールを守ってヒトとの接触が極端に少ない、日常生活を持続しているからなのだろうが、そうもいかないあらゆる現役時代バリバリの職種の人、あまたの多様な接触現場仕事の人たちの、ご苦労は想像を絶する。
春がきて、一日も早いコロナの終息が見えるまでは、今のところ忍耐、辛抱という言葉が今の私には一番しっくりくる。命あっての物種である。今は人と向かい合う時間をさけて、土と向かい合いたい。
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