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2021-02-23

【身の丈の 苦楽ライフを 念う春】2月23日朝の五十鈴川だより。

 朝が来た。できるだけお金に頼らない生活を心かける、なんてことを初老男の私は何度もすでに書いているが、このことに関してはたぶん、五十鈴川だよりを書けなくなるまで、繰り返し歌の文句のように、さざ波のように書き続けるのではないかという気がしている。

安易にほかの方と比較する愚は避けるが、小さいころからつましい暮らしをしながら、子供5人を育ててくれた両親を見ているし、義理の両親もまたしかりなので、華美な暮らしをしたいとも思わないし、私には似合わないのである。

フランス料理もイタリア料理も、おびただしい世界のお料理も食べたいとはまるで私は思わない。(上京し娘たちが作ってくれたものはいただくが)年のせいもあるが今となっては、幼かりし頃に、舌の味れいが味わった食物、つまり幼少期に頂いた食べ物さえあれば、十分なご馳走の私なのである。

それにもう十分に、私の胃袋は若くはない。老いゆく胃袋を満たしてくれる、年齢にあった できるだけ手の込まない、簡単にできて、栄養が足りていれば十分なのである。それよりなにより、おなかのすく生活が私には大事である。

おなかが空いていれば、炊き立てのご飯に梅干し、かつお節、海苔、具のたくさん入った出汁が十分にきいているお味噌汁があれば十分である。

妻が仕事で不在の時、休日のお昼を私は還暦以後自炊しているし、妻がフルタイムの日は私が簡単な夕飯の準備も私は楽しむように心かけている。 時にコロナ渦中生活の今、外食を(生誕日以外)まずしなくなった。したがって生活費が以前にもましてかからない。

つましくも余裕のある、時間を大切にする手の届く暮らしへとシフトダウン。動ける身体をキープする食べ物への感謝。余分な情報は入れず、これまでいただいた過分な情報を消化し深めてゆく老い楽ライフを追求し、時代に迎合せず足元ライフを深めてゆきたいのである。

18歳から、かつかつ経済的困窮生活を、長きにわたって私なりに経験してきたおかげで、お金の有難さ怖さが、多少は身についている。お金は人格を変える。友情さえも。だから私はお金にできる限り頼りたくはないのである。両親がしていたように、お金はいざという時に、家族や大切な他者それぞれが必要な時に備えておくものである。(と今私は思っている)

ささやかなお金を、もう十分に自分のためには使ってきた。老いのこれからは他者のためにというか、はやりの言葉でいうなら、サステナブル的に使えたらと考える。若い時に見た芝居、毒を盛った言葉の名人劇作家、つかこうへい氏の作中人物が【身を粉にして働き・お金を貯め・哀しく使っている】というセリフが強く記憶に残っている。

話は変わる、衣類も還暦以後、ほとんど新しいものは娘たちのプレゼントで足りている。この10年くらいは普段は古いものを繰り返し着ているのだが、十分に足りているし、洗濯さえしてあれば古くても十分である。

何故新しい衣類がほとんど不必要かといえば、この数十年体形がほとんど変わらず体重も変化していないので、いまだ十分に着ることができるから、なのである。

今となっては穴の開いたジーンズなど、高価だそうだが、私のは着古して十数年たち、本当に自然に風化したジーンズなので、愛着がある。要は本人が満足していて、身の丈に合い、その人らしさが出ていればそれでいいのである。。

仕事着、普段着、おしゃれ着、冠婚葬祭の服、つましい暮らしの中で そろえてきたもので、もうすでに十分に足りている。オスカーワイルドは衣裳は肉体の一部だといっているが、やはり着こなしにはその人らしさがにじみ出ると、私は想う。老いゆく我が身を磨くために、限られたお小遣いに感謝して、哀しく使うのではなくうれしく使いたい私である。

幼少期駄菓子屋のくじ引きお菓子を、わずかなお小遣いで買えた時の喜びが、いまだに私の体の奥底に残っている。私は時代錯誤を生きている、生きてゆきたいという瘋癲老人的傾向を自覚している。


 

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