夜が明けた。【老いの朝・春の気配に・息を吸う】今年から真面目に俳句を学ぼうと思う。五十鈴川だよりの理想としては、最後は俳句で終えることである。
その境地に近づくために、学びながら(季語もろくに知らない、事俳句に限らず無知蒙昧であることを私は十分に自覚している)これからの未知の時間を、蟻おじじのように、のろのろと厳粛に歩んでゆきたい。
さて、昨日は私のお誕生日だったが、のうのうと書くことは控えるが、つましくも十分に幸福感に満たされた良き、暖かき春の一日であったことを、五十鈴川だよりにきちんと書いておく。(妻と娘たち家族に感謝する・40年以上続いている友人からのメールにも)
さて、数日前から関川夏央 著【子規、最後の八年】を読み始めた。四〇〇ページ近い内容が詰まった、読み応えのある本である。一日に読める分量を決めて少しづつ読んでいるのだが、子規が生きた明治の匂い、交友関係が濃厚に立ち込め、つめこまれていて、読み進むのが面白く想像力が刺激される。
このコロナ渦中生活で、私の本の読み方に多少の変化が訪れている。以前よりも時間をかけてゆっくりと丁寧に読むようになってきたのである。
ひとりの作家が、何年もかけて心血を注いで書きあげた評伝を、短時間で読んで、読んだような気になる愚を避けるようになってきた。五〇ページくらい読んで現在の自分の生活に響かない書物は、いかに名著の誉が高くとも読まなくなった。
一〇代の終わりくらいから、徐々に本を読むようになってきた私だが、20代、30代は生活に追われ、(それでも読んではいたが)じっくりと読めるようになったのは、中世夢が原に職を得て以後、40歳からの往復の通勤時間の22年間である。
それぞれの年代で、読書の傾向は変わってゆく。一庶民の読書という自覚が私にははなはだ強い。18歳から世の中に出て働き始めた私は、演劇を学ぶという少々無謀な選択をしたからである。(無謀ともいえるが今となってはよかった)若かりし私は、夢と現実のはざまに、何度もの挫折を繰り返し、転機を迎えるたびに、書物にすくわれた。
読んだ書物は少ないのだが、20歳で読んだ【チャップリンの自伝】(中野好夫訳、最近新訳が出たので半世紀ぶりに読んでみたい)新書版だが、開高健著【過去と未来の国々】、小田実著、【何でも見てやろう】、五木寛之著【ゴキブリの歌・風に吹かれて】木村治美著【黄昏のロンドンから】大江健三郎著【厳粛な綱渡り】沢木幸太郎著【人の砂漠】山本七平著【日本人とユダヤ人】などなど書いていると、次々と思い出される。
アルバイトに終われていたので、エッセイや紀行記文が多い。あれから半世紀、年齢が上がるにしたがっての生活の変化に伴い、刺激を受ける本は変化しているが、一貫して変わらないのは、ごく普通の生活者としての良識、生きる糧必須アイテムとして、本を読み続けているのには変わりはない。
長い中断の果て、忽然と還暦を過ぎて、シェイクスピア作品を音読し始めて感じたのは、多読することではなく、数は少なくても手元に置き、繰り返し時に声を出して読み、汲めども尽きせぬ知恵の塊ともいえる宝石に巡り合えた。幸運である。もう3年前になるが、リア王を一年かけて音読、身体で読んだ時の体験は、(作品のリアは80歳の設定)これからの私の人生の先行きを照らしてくれている。
人生は短く限られた時間の中での読書体験は、時に人生を左右してしまうほどの切実な感光をもたらす。今も続くコロナ渦中生活で、ひときわ良き読書体験持てている。運命はどう展開してゆくのか、、、。未知の世界を照らしめてくれる古典に静かに触れたい。
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