世事に関することはもうほとんど書く気がないほどに、ときに、私の初老常識的な感覚が世間とのずれ齟齬を感じることは、すでに何度もかいている。五十鈴川だよりに書く気も失せるが政治家の堕落ブリには目をおおいたくなる。できるだけ日々の暮らしの何気ない有難さを綴りたい五十鈴川だよりなのだが、いまだに怒りが湧いてくる初老男である。怒りは大事だ。
民主主義の代表が聞いてあきれる。品位や矜持、知性、思想性、言葉の使い方、重さがまるで感じられないのは寂しい限り、お粗末というしかない。瞬時に世界の笑いものになるこの時代。私は恐ろしい。絵に描いたような血の通わない言葉のやりとりを聞いていると気が滅入ってくる。私の若いころとまったくといっていいほど変わっていない。いや、もっとひどくなっているかもしれない。若者が政治に関心を持たないのもうなずけるが、これはやはりまずい。好奇心や冒険は若い時にしかできないある種の無謀さも良識の範囲で許される、いわば若気の至りというしかない特権だからである。
すべてのつけは無関心から始まり、やがてはおのれの身の上に降りかかってくるのは、歴史を鑑みれば自明である。いつの時代も特に弱いものの上に降りかかってくる。だからこそ弱さを自覚するものほど無関心ではいけないのである。
養老先生がおっしゃっていたと記憶するが、生きてゆくというのは毎日がけっぷちを歩いてゆくようなものと。だから日々をどんな小さき生き物もきちんと用心深く生きなければ、大きなものに巻かれてしまうのである。
コトバは毒にも薬にもなり、かってに独り歩きし、疑心暗鬼にさせ人の心を奪ってしまう。真実の言葉と騙る言葉との境界を見極める知恵を見つけないと、ツイッターの140文字に、飲み込まれてしまう。毒にも凶器にもなる言葉、危うい時代の洪水の波に飲み込まれないようにしないとまずいと、脳天気初老男は自戒する。私などは特に甘い言葉に騙されやすい。
話を変える。森会長の発言に関しても、今の社会通念とのあまりのずれ、感覚の麻痺、時代錯誤としか言いようがないほどの、ある種の痛ましさを私はは感じてしまう。他人ごとではない、昔から老害という言葉がある、もうじき古希を迎えようとしている私なども、自戒しないと危ない。
私は自分が時代についてゆけない、ついてゆく気もない初老凡夫を自覚しているつもりである。建前としてではあっても、老いては子に従え という考えである、もっと言うなら未来人たちの良識あると想える人たちの考えに、従うというという意味である。
自分が高齢者の仲間に入ってみてつくづく思うのは、もうすでに十分に社会的な役割を終えた人間は、できる限り未来人たちの行く末を見守る側に立ち、社会のお邪魔にならないように老いてゆくのか、下るのかということをカッコつければ思念したい。
最後に若い方々の中には哲学のある肉体を持った、血の通ったデジタルハイパーテクノロジーを自由自在に駆使し 新しい文化を創造している人新世の方々が、世界的に顕れているのが、希望である。デジタルもまた、毒にも薬にもなる。私は愛のある哲学的愚者の賢人の出現を夢見る。
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