今日もまた金太郎あめのような五十鈴川だよりを綴れる、ささやかにも、我ながら脳天気な良き祝日の朝である。
友人からは梅の花の咲いている写真が送られてきたが、私も先日総社の道場に向かう車窓から民家に咲く梅の花を見た。日に日に日が沈むのが遅くなり、平日の夕刻家で 巻き藁をしていると日没の西日が刺しいり、しばしなんとも言えない厳粛な気分になる。夜明けの日の出もまたしかりである。
寒暖を繰り返し確実に季節は春へと向かっている。と共に、いくばくかコロナの感染者も減少傾向にあるのはうれしいが、まだまだ油断大敵である。雨の日でも日は昇る。私の人生で初めて経験する、未曾有のパンデミック非情事態の中の老い凡夫生活、昔人のように身の回りの小さき家事に集中して日々の些事を面白半分で過ごすように心かけている。
若かったら、オンラインで動画を見たり聞いたり、あれやこれやじたばたと不安解消におもむくかもしれないが、もうとうにじたばたする年齢ではない。年相応に夢中になれる(家族に迷惑をかけず)ことにこそ、今は貴重な時間を集中している。
集中といえば、弓を射るのにはことさら集中力が絶対的に不可欠である。老いるという摂理に、まるであらがうかのように、かなりの負荷が体にかかるのをはねのけるかのように弓を射る。時に身体が思うにまかせず絶望的な気分に何度も陥ったが、何をくよくよ川端柳、今射らずしていつ射るのだと自分を鼓舞し、とくにこのコロナ渦中生活、稽古を積んでいる。
明後日で、弓を始めてまる4年。昨日午後お天気も良かったので弓の稽古に 出かけた。一回に4矢射るのは先に書いた。これまで何度か3矢的中はあったのだが、4矢的中は経験したことがなかった。昨日の稽古、三回目に初めて4矢続けて的中したのである。稽古の積み重ねの成果が出た(と思う)。
かろうじて68歳で4矢的中の経験ができた事実は、 極めて個人的な喜ばしき出来事なので、五十鈴川だよりに書いておきたい。私の尊敬する作家、(さほど読んではいないが帚木蓬生さんはシェイクスピアが大好きなのである)帚木蓬生さんが老い活という言葉を提唱しておられる。老いゆく身体を甘やかさないで活動する。然りと私はうなずく。
若い時とは異なり、必然的に静かに動くのである。弓はまさに静かにしか動かないが、内面は激しく揺れ動く。いやでもおのれの心と体が著しく試される。おのれの心の動きが体に現れる。正しい体の動きにならないと、できないと、矢は的に向かってくれない。
一言でいえば難しい。だが射貫いた的の音はなんとも言えない。正直、漸く弓の世界の入口にたどり着いたかのような心持、道はさらにさらに遠い。小学校低学年、ただ五十鈴川で泳ぎたくて、舗装もされていない、あの曲がりくねった遠き途をトボトボと歩いたことをおもいだす私である。
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