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2018-10-06

草を刈り、言葉を書き写し、言葉を諳んじる秋。

早10月も6日である。本格的に9月から平日の午前中、晴れの日は肉体労働に従事するようになったので、何かといい意味で、より充実した日々が過ごせている。

一日一日が、メリハリよく過ぎてゆくように感じている。今朝も台風の影響がほとんどなく、今のところ青空が窓から望める朝である。

中世夢が原で、開園前や冬場の来園者が少ない季節に、よく草刈りや萱刈をやった経験が無駄にならず、いま午前中やっている肉体労働は草刈りや、芝刈りが主な仕事である。

実働3時間くらいなので、足腰の鍛錬にはちょうどいいので、思わぬ私にとっては有難い肉体労働が、舞い込んできたのである。

私はとりたてて草刈りがうまい というわけではなく、苦にならないのである。ある程度の持続力、集中力をキープする体力だけは必要なので、私としては肉体訓練もかねての仕事と割り切っている。
歳と共に古典の世界に回帰する

話は変わる。若いころから芸術や文化的な事に、まるで逃げ込むかのような日々を過ごしてきた私であるが、還暦を過ぎるころから、何やらそういった世界から、そろそろ卒業というか、足を洗いたいというか、降りてゆきたいというか、ただ自分の好きなやりたことに謙虚に忠実で在りたいと思っている。

ないげない身の回りの、手の届く地に足のついた、平凡な日々をこそ大切にして、生活してゆきたいという思いが深まってきている。

私の祖父母、両親はじめ、姉兄弟、家族含め、芸術やいわゆる文化的な事にはほとんど無縁な、ただただ生活者としての人生を歩んできた。(歩んでいる)

ただただ、ご先祖が暮らしていたような、(そのようなことは不可能ではあれ)つましい生活者としての 日々をこそ、晩年時間は過ごしたいという気持ちなのである。

五十鈴川だよりを注意深く読んでくだされば何度か書いているが、これまで自分が重きを置いて歩んできた時間の過ごし方とは、どこかで決別したいのである。

決別というといかめしいが、有限な人生時間をきちんと整理し、焦点を絞って不義理も辞さず、身の回りの雑事をきちんとこなせる自立した初老男を目指したいのである。

芸術の秋、映画祭などの案内状などが送られてくる。以前なら関心を持ってチラシなども眺めたかもしれないが、特に今年からはそのような関心が薄らいできているのを自覚している。

それはなぜなのかはわからない、ただおぼろげに、自分の関心事が、老いつつ自分の内面のほうに向かい始めているのではないかという気はしている。

何やらは判然とはしないが、以前とは異なる未知なる内面世界の領域に、関心が向かいつつあるのである。

リア王の長いセリフを書き写したり、今またロミオとジュリエットの登場人物の、気に入ったセリフを書き写ししたり、諳んじることに、時間を費やしたり、未知の古典を読むことの方が、(能動的に自分の時間を費やすことの方が、)愉しいのである。

あくまで出掛けて何かを享受する幸徳を辞めたというのではなく、あくまでバランスの問題なのだが、その加減が老いゆく中、優先する時間の過ごし方が、変容してきているのである。(旅だけは永遠の例外、本を持参しての旅、秋は最高の季節、ふらっと旅情が私をいざなう)

天空の元、風を感じながら、伸びた草を、ただただ刈っている時間は、ただただ言葉を書き写す時間と、似て非なるものではあるけれど、私にとっては同義的な今を生きる意味をなすのである。







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