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2018-10-21

秋日和・靴を洗って・書評よむ。

昨日に続いての素晴らしいというほかはない、秋日和である。布団を干し、ズック靴を洗い束の間、朝の陽光を浴びて、五十鈴川だよりを綴りたくなった。

遠出はできないのだが、今日は妻と母との用事を共にやる予定である。妻がフルタイムで働いているので、土日しか共に過ごす時間がないので、これまでできなかった反省も込めて、何事にもまして可能な範囲で妻との時間を共有したいという、殊勝な私なのである。

何度か書いた記憶があるのだが、父も晩年は、苦労を共にした母との時間を何にもまして、大切にしていた。私も亡き父にあやかるつもりだ。

その姿が、私に焼き付いている。子供たちが巣立ってからは、何よりも 母を大切にしていた。臆面もなくつづらせていただくが、妻との出会いなくして、今このように穏やかに過ごせる晩年時間は、けっして私に訪れることはなかっただろう。

今朝はこれくらいにとどめるが、古希を無事に迎えることができたなら、折々妻とのことなども、思い出せるうちに綴っておきたいとは、考える私である。

だが今はまだ、どこか気恥ずかしいし、何よりも妻から、あまり私のことは書かないでねと、くぎを刺されているのである。
手間暇を楽しめる初老男を目指したい

さて、日曜日は書評が楽しみの私である。M新聞の書評氏には、私の好きな書評氏がずいぶんいるので、楽しみなのである。文字が読めることは本当にうれしく在り難い。

書評を文芸的エッセイにまで感じさせてくれるほどに、本を実際に(とてもではないが読んでいる時間はないが、どうしても読みたい本は買うことにしている)読まなくても、私には足りるのである。

へーっ、こんな本があるのだと知るだけでも、この十数年、学び楽しませてもらっている。凡夫は凡夫なりに、継続持続、読み続けていると、何かが蓄積されてくるのを実感する。

だからなのだろう、書評ノートだけはやめられない。ささやかな知的刺激、自己満足独学時間は、ひそかな愉しみの域をでない。

世界の出来事への知的扉が開き、知らない世界が垣間見え、何もお金がかからないのであるから。世の中に出て、散々お金に苦労した私には、居ながらにして小さな知的な旅をしている気分になれる、のである。

緩やかな陽光を浴びて、コーヒーを飲みながら、書評を読み、気に入った本を切り抜いてノートに貼る営為、アナログ初老男にはまことに持って、似合っていると、自賛する私である。


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