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2018-06-02

知り、学び、猫化してゆくかのように、五十鈴川は流れる。

早6月も2日、昨日今日と快晴、今日は土曜日で妻がいるので、朝一番の声出しを終え、戻って朝食を済ませ、妻の頼みの一仕事を終え一息、五十鈴川だより時間である。

2階の娘たちが使っていた部屋で過ごす時間が、ほとんどになりつつあるわが暮らし。12畳くらいはある板の間の部屋。天井が高いので、弓の素引きをするのには最適である。また薄いマットや毛布のうすいのをひいての、ストレッチにも、窓を閉め切って声を出すのにも重宝している。
右手にノートをおいて本を読むようになってきた、忘れても書く。

まだわずか半年近くだが、おそらくこれからのほとんどのわが人生時間を、旅に出かける以外は過ごすことになるだろう、多目的場所、空間である。東・南・西に窓があるので、全部開け放つと、風が抜ける。

今、机が置いてある南の窓から空を眺めながら一文を綴っている。18歳から世の中に出て、3畳一間、トイレ共同、風呂なし、日当たり悪し、とにかく安いのが取り柄のようなアパート暮らしを、東京では経験していた私である。

おのろけでも何でもなく、妻と出遭わなかったら、このような住環境で過ごすことは、一生縁なきことであったのではとおもう。運命に感謝するというしかない。

だから、今この部屋で過ごせる、穏やかで静かな時間は、至福のひとときというしか、私にはほかに言葉が見つからないのである。近所をうろつくくらいで、どこへも出かけずとも満ち足りる生活をこそ、晩年の楽しみとしたいのである。

亡き父が、若い時の苦労は買ってもせよ、と耳にタコができるくらい言っていたが、何度も書いているが、その言葉が沁みる、あそこを通過したればこその今の暮らしなのである。

私がこのような家に住めるのは、ひとえに妻の両親のおかげなのである。いきなりだが、妻の母を、私はこの家で(先のことは予期できないが)看取れるものなら看取りたいという気持ちである。
語り口が平明、面白かった。まるで知りませんでした、無知が沁みます。

さて、ほかに書くことがないのかというくらい、決まりきったことばかり書いている五十鈴川だより だが、仕方がない業容赦を。

勝手に、いろんな先生に私淑しながら、自宅で聴講ゼミでも受けているかのような面持ちで、以前は読まないような本を随分と読むようになってきた。そのことによって、ずいぶんと刺激的な日々が過ごせている。

たまたま、NHKで養老孟子先生が、愛猫と暮らすドキュメントを眺めていたのだが、先生曰く、要はいかに生きるか、なのであると。猫は余計なことは一切しないと。

煩悩的な世俗を生きせっきっって (私のことです)生きてきて、ようやく少しづつ猫化してゆく自分が育ってきつつある。


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