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2018-06-08

雨の中、傘を差しリアの台詞に寄り添う早朝。

今雨は上がっているが、早朝雨が降ってなかったので運動公園で、いつものように声を出していたら、かなりの雨脚のつぶてが落ちてきて、やめようかと思ったのだが、あえて傘をさしてはだしでやった。

濡れるのでテキストは持たず、稽古で自然にセリフが記憶されている、一幕の幕開きの、出だしのリアの長い台詞と、それに続く数か所、三幕の2場の長めの台詞、4場の長めの台詞数か所を繰り返し、自主稽古した。

梅雨に映える玄関の花
特に3幕は嵐、風雨の荒野でのシーンなので、かなりの雨の中での稽古は、肌寒く、体感的にリアルさがあって 良き稽古ができた。

10か所くらいを繰り返し、深呼吸しながら声に出すと、一時間くらいすぐに時が流れる。

20代で稽古をしていた時には、今思うとそんなに時間をかけなくても、記憶化されていたセリフがなかなかに頭にというか、身体に入ってゆかない。老いているのである。かすかに自分とリアがダブル。

ちょっと油断すると、すぐに体から消えてしまう。覚えたくらいではすぐに消えてしまうことが分かっているので、杭を打つように、叩き込むかのように 繰り返す。体は不思議な器である。かろうじてまだ身体に入る。そこにしがみつく自分。何をやっているのであろうか。

7月7日の発表会まで、一月をきった。いよいよこれからのひと月、本番までリアの台詞に寄り添う時間を増やしながら、なるべく普段の暮らしとのバランスをうまくとらないといけない。
次々に同時代の良心的なお仕事をされていたが亡くなる

なにしろ、リアは80歳の高齢で 、狂気と痴呆の境界を行ったり来たり、これまでの自分の人生の経験値では推し量るのが不可能とさえ思えるくらいに、不可解な人間の不条理な憎悪の言葉を、まさに子供に還ったかのように娘たちに喚き散らす。

難しい。嘘っぽくならないような声を出すには、繰り返し声を出しながら、ああでもないこうでもないと、身体がリアの声を出しているかのように、自分で見つけてゆくしかない。

帰って朝食、新聞を開くと、一面に名前だけは知っている日高六郎氏の訃報が伝えられていた。


1 件のコメント:

  1. 日高様
    ご無沙汰しております。遊声塾発表会のお知らせを有難うございました。
    昨年は先約があり残念でしたが今年は伺えると思います。二人分の席を確保して頂けますか。
    楽しみにしております。

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