ページ

2018-06-18

梅雨時の朝、本を読めることの有難さが沁みる初老の私。

読書は真の体験足りうるか、という署名の本を若い時に見たことがある。本をたくさん読もうが、私がくだらないと思う人間はたくさんいるし、名前を出して申し訳ないが、母のように本を買って読むような(読めるような)生活環境で育っていなくても、人間的に豊かで、生きてゆく上で最も肝心なことをきちんと身につけているかたもいる。

何が言いたいのかというと、私の場合だって本好きになったのは、世の中に出てからである。(引揚者の父が、借金して建てた家には本らしき本がほとんどなかった)要は生きるがためにどうしても必要だから読んでいるだけなのである。私が尊敬する方がたは、本を読んでは行動実践しておられる。

私の場合、生きるがための読書これに尽きる。田舎者が無謀にもいきなりの東京暮らしで、無知を思い知らされ、精神も肉体もスカスカ状態になった時に、読書をすることで救われ、広い世界を間接的に知ることができ、体の中に、ここではないどこかを意識し、客観的にすこしづつ自分という存在を、眺められるようになってきたのである。

もし本を通して、文学、芸術や文化、無限の世界に 触れることがなかったら、と考えるとゾッとする。

日々の暮らしにおわれて、スカスカにならないように、努めて安きに流れやすい己を叱咤激励、本に救いを求めているのは、今も全く変わらない。弱い私は言葉に励まされるのだ。

畏怖する、見城徹(幻冬舎社長)さんではないが、自己検証、自己嫌悪、(見城さんは、自己否定までしておられるが、ここは私とは考えが異なる)などに陥った時、途方に暮れた時、本はほんとうに心を支えてくれる。

本との巡り合いのおかげで、簡単に絶望せず、若い時にいくばくかの、広い世界を(何という豊かさ、ワンダフルワールド)知ることができたし、ささやかに、蟻のように底辺労働者として、糊口をしのぎながら、多くの言語文化歴史の異なる国々を旅し、本質的に同じ人間を知った。
はじめてこの方の本を読んだ

妻をはじめとする多くの良き方がたに支えられ、この年齢まで何とか生きてこられた。

本を読んでは、いまだ突き動かされる自分がいる。良き本に巡り合うといまだ血が騒ぐ。
 そして行動実践する、それの繰り返しなのである。

生きるがための強力無比の味方が本なのである。基本的に人間は孤独な存在である。孤独を愛し、孤独を見つめるしかないのである。言語を有する存在としての自分にしがみついて、言葉に磨かれてゆく。

晩年時間、基本的に翻訳日本語のシェイクスピアの言葉世界を、声に出しながら逍遥しているが、これからしずかに老いの時間を実り多く生きるためには、ますます精神の薬としての、劇薬としての読書を、読もうとして挫折した本を蟻のように少しづづ繰り返し、かみ砕く読書をと、梅雨空を眺めながら念じる私である。

0 件のコメント:

コメントを投稿