さていきなりだが、声を出すことも、本を読むことも、弓をひくことも、集中力と持続力のキープが肝要であることが、この年齢になると実によくわかる。
五十鈴川だよりを書くにも、精神集中力が要る。それを支えるのは一言でいえば、身体の力であると痛感するようになってきた。
最後の蔓バラを愛でながら書く |
だから、何事をなすにせよ。一定時間体に負荷をかけて、体力をキープすることが今の私にとっては何よりも必要なことである。
還暦までは、さほど意識することはなく動いてくれた体が、意識に負荷をかけないと(あえて意識を盛り上げる)なかなかに意識も、動かなくなるということが徐々にわかってきた。
だからなのである、無理のない範囲で、休んでは体に負荷をかけるようなことを、唯一無二のわが体に、課しているのである。それをやれる誰にも邪魔されない、唯我独尊的に過ごせる時間が、わが人生にようやく訪れたのだからそれを楽しまない方はない。
昨日できたことを、何とか今日も持続する。続ける、それだけである。毎日ではないが一番長く続けているのは、もちろん五十鈴川だより、次が声出し(最近ではシェイクスピアにとまらない、いろんな文章を声に出す)弓も何とか一年が過ぎた。(弓は深い)
書いてはいないが、ほかにも体に関して継続してやっていることがいくつかあるのだが、それはまたおいおい書くこともあるかとも思うが、本日は割愛。
さて、佐藤優先生(年下であろうが、私にとっての先生)や、出口治明先生のおかげで、ずいぶんと読む本が変わってきたような最近である。
机でなにかしてる昼寝氏に来る花、だんだん私も猫化してきた、 |
あえて、これまでは読まなかった、苦手だと思い込みがちな著者の(例えば藤原正彦さんの本なども、虚心坦懐に読むようになった、うなずくことも多々あった、教えられた、そして大笑いした)本なども、まずは(相手の内在的論理を知る、佐藤先生に教わった)何でも手にするように心がけている。
何か月か前、数学者であられた岡潔先生のエッセイなども初めて読んだのだが、人間的な魅力が随所に垣間見れて、同じ人間なのであると安堵し、一芸に秀でた方はやはり、文章も素晴らしかった。無駄のない研ぎ澄まされた論理的な一文は、その方の全人生が生み出したものとわかる。だから残る。
知る(学ぶ)ことによって、世界の素晴らしさをもっと深く感じられる人間になるべく、本を読み、散歩できる体力を、一日でも長くと願う、無所属一個人として。