稲城でのにわか暮らし、早くも4日目の朝の散歩を終えて、五十鈴川だよりならぬ、つかの間の稲城だよりである。
昨日に続いて桜並木の下を約一時間、早朝に歩いたのだが実に気持ちがいい。都心の桜は満開とのことだが、稲城の桜はまだ半分も咲いていないので、今週中は徐々に咲き誇るさくらを、私が東京にいる間は楽しめそうである。
さて、孫の望晃くんは、千変万化の顔や手足の表情しぐさで、私を驚かせながら、両親の
愛情を一心に浴びながら穏やかに成長し続けている。
土日はレイさんがいるので安心して稲城だよりが書ける。稲城は郊外のベッドタウンなので、お店が少ない。坂の上の大きいスーパーまで歩いて15分くらいかかるけれど、娘のメモを見ながら、また私が食べたいものなど 適当に買っている。
すでに3回の買い物に出かけたが、朝夕とかなりの距離を歩くので、体調もすこぶるいい。
田舎者の私には正直落ち着かない環境での マンションライフの日々なのだが、致し方ない是も何かの思し召し、楽しむように心がけている。
駅のそばの桜並木が救いである。いかに緑や、樹木が人間生活に必要なものであるのかを知らされる。娘たちの住居は6階にあるので、夜の訪れとともに世界一明るい都市の夜景が一望できる。
このすべての明かりのもとに、おびただしい人々の暮らしが、日々整然と営まれているかと想像すると、妙に感動してしまう。
そんな都会の片隅に、生を受けて育つ望晃くんである。おじじは思う、そして考える。何が、おじじにできるのかと。それは娘夫婦のお役に立つことの中にこそ、いま見つけられていると感じる。
私が何か当たり前のことをするたびに、レイさんも娘も、ありがとうという言葉を発す
る。その言葉を耳にするたびに、おじじとしては役に立つということの喜びが、体にじんわりと広がる。
まずは家族のために、余裕があれば社会の、誰かの、何かのお役に立つということが、晩年ライフのだいご味かもしれない。初孫の 天使のような寝顔に見入っていると、孫から無言のエネルギーが、おじじに注ぎ込まれる。
望晃くんの生誕は、広い意味でおじじの存在、役割 について新たな思考を私に迫る。
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