さて、退職後というか、生活に時間 の余裕が生まれてから、新聞、小説、随筆を含め、あらゆる日本語の文字を以前よりも、ずっと落ち着いて、丁寧に読むようになってきたように思える。
それとともに、いかに自分という存在が、言葉を紡ぎながらよたよたと思考をしているのかが、わかるようになってきた。言葉、文字に以前にもまして敏感になりつつある(ように思える)。
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知的な(かすかであれ)悦びには、今のところ年齢などは全く関係がないのだということを、今年になってますます実感している。足るを知り、無限世界の言葉にたゆたう。
それは、やはり気づいた時から、無知なればこそ知る悦びが味わえるのだという、いささか逆説めく、唯我独尊的わがままな発想によるとはいえ、人生一巡り、還暦を超えたら人生の晩年くらい、唯我独尊に生きてもいいのでは、と考える。
他者と比較するなんて愚を、私はこれまでの人生でほとんど選択してこなかったし、すべてを置かれたところの暮らし向きの中で、耕し掘り進み 、苦楽し今も生きている。
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自分には才能がないのでは、との不安感に、思春期から20代の 青年期、何度も何度もかられたものだが、30代に入り自分は自分の人生を悔いなく生きる、といささかオーバーだが、腹をくくったところあたりから、運命の女神が好転し始めたのだ、と今は思える。
簡単に絶望したり、あきらめたりするのは、あまりにも私にはもったいないという気がしてならない、命あれば人生は長い。どんなことが人生に待ち受けているのか誰しもわからないのである。
目先の勝負なんて本当にどうでもいいのだ、パラリンピックのアスリートにみる、人間の無限の可能性、程度差はあってもどなたにだって備わっている。
カッコ悪くても人(他者はは無責任に勝手なことをほざく)に何を言われようが、気にはしても振り回される必要はまるでない。ほんのわずかであれ、やれば可能性は拓く、やらなければ無で終わる。そういう側から、私は世界を生きてゆきたい(よしんば明日倒れても)
若い時、特に金がなく、ずいぶんみじめな思いをあじわったが、(結果つくづくそれが良かった)自分で自分を楽しませるしか、ほかに私には方法がなかった。在るのは、不確かでひ弱なわが体だけ。私は全財産ともいえるわが身体にしがみつき、何とか生きてきた。
そしていまも、まったく若かりし頃と同じように、わが体にしがみついて 生きている。身体とは、何と不思議な器であろうか。
どこかの先人哲学者の言葉であったかと思う。体は私が作ったものではない、気が付いたらこの世にいたのだ。人間は、こころにも、身体にも衣をまとわないと、息ができない存在なのかもしれない。
リアの言葉【人間・衣裳を剥ぎとれば・おまえのように・あわれな裸の二本足の動物にすぎぬ】リア王という傑作は、人間の運命、存在の奥深い闇を容赦なく私に突きつける。
リア王の登場人物たちは、運命とたたかっている。運命と生きている。私もささやかに運命を生きるしかない。
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