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2018-02-07

辺見庸さんの言葉に撃たれる、そして思う。

いきなりだが、最近時事的な事や、政治的な事に関してはほとんど五十鈴川だよりでは触れていない。空疎な自分の言葉を持たない政治家たちの(すべてとは言わないが)言葉のやり取りを聴いていると、絶望的になるのである。

関心がないわけではなく(あらゆることに関していまだ野次馬的には関心を持ってはいる、政治経済あっての我々の暮らしだからである)書こうと思うと、気分が滅入ってくるので、はなはだ個人的な思いつく身辺雑記的出来事を主に連ねる五十鈴川だよりに、なってきつつある。

何が起きても不思議ではない、魑魅魍魎面妖な時代の趨勢のさなか、同時代を生きながら、年齢を重ねながら、否が応でも人間は態変を繰り返しながら、生き続けるほかに、私にはほかに今のところ方法がない、という気がしながらも、未だどこかあきらめきれない。優柔不断な自分と対峙している。(老いつつも感性の鈍麻にあらがいたい)

歳を重ねると、いわば自然に枯れてきて、悩みやこだわりのようなものも、少なくなってくるのではないか、あるいはなるようにしかならぬという、達観的な境地にでも近づくのではないかとの思いがあったのだが、どうやらその思い




は、まったく今のところ外れている。

以前も書いたかと思うが、私はますます無所属一個人に徹しながら、中世夢が原を退職してから、自分なりに模索しながらの生き方を選択している。豊かさとは、貧しさとは、幸福とは、平和とは・・・?

カッコつければ、あえて時代の趨勢には限りなく遠いところに身を置きながら、何とか自分にとって、気持ちのいいところで呼吸しながら、ゆるやかに自然に枯れてゆきたいのだが、なかなかわが体は、精神は、そうはさせてくれない、絶対矛盾を抱えこみながら、そういう自分から逃れられないのである。

辺見庸さんという、論客というか 言論人、作家がいる。私の書棚には氏の本が、数えたら10冊在る。今その本を傍らで眺めながら、五十鈴川だよりを書いている。

朝日新聞社刊、屈せざる者たちを買ったのが1996年、(私がアフリカンマエストロを企画した年、あれから22年、時代の推移は目を見張る)角川から出た単独発言の奥付2013年、以来氏の本を買っていないが、時折気分がなえそうになった時、氏の視座のぶれない確かな発言力に勇気を得ている。そして学ばせていただいている。

貴重というか、まさに稀な絶滅危惧種的な真の意味でのジャーナリスト魂を持った方だと畏怖している。

インフルエンザで肉体労働者から、一時撤退しているので、このところ、手すきの時間に氏の想いの底から、絞り出した文章に触れて、我が身を鼓舞している。

人間の良心の底からの文章は古びない。新鮮である。わがささやかな本棚には、これからを生きてゆくために必要な、繰り返し読むに堪える、私の精神を鍛えてくれる本が十分にある。

繰り返し読み、逍遥する。日本で一番最初にシェイクスピア作品を翻訳した文学者は、坪内逍遥である。日高逍遥とあやかりたい>

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