岡さんからゆく前と、帰ってきてから、いってらっしゃいと、お帰りなさいの言葉を頂いている。一方、親友のK氏からはケータイに、長めのお祝いの言葉を同じように、ゆく前と帰ってきてから頂いた。
この場を借りて、深く感謝いたします。私は自分が考えているよりも、ずっとずっと不器用な性格なので、すぐに返事を書いたり、すぐに返信をうったりすることがどういうわけなのか、なかなかにできない。
これは今の時代では、なかなかに通用しないことなのではないかとは思うのだが、うーむ、いかんせんこんな自分を、いまだ時折持て余してしまう。だから、申し訳ないとおもいつつ、ブログにてご容赦を。
短いとか長いとかは関係なく、頂いた言葉を繰り返し読んで、じっくりと受け止める時間のようなものに耽っているうちに、機を逸してしまうのである。(K氏へ、お食事会のお誘いは、むすめたち夫婦にも伝えておきますので、上京の節はなんとか実現させましょう)
話変わり、ようやく昨日あたりから時差も消え、昨夜の遊声塾のレッスンあたりから普段の自分のリズムを何とか取り戻しつつあります。昨日畑で、N氏と二人でひたすら時差ボケ解消のため、チシャトウという野菜をコンビで植え続けたのですが、ショック療法のような感じで消えてしまいました。
ところで、今回の旅は単なる観光旅行ではなかったせいもあってのことかもしれないのですが、未だ旅の余韻が続いていて、ドレスデンへの旅、という文章を、何回か書いて残しておこうという気持ちになっているので、休日にでも落ち着いて、つたなき一文を綴るつもりです。岡さん、K氏にお伝えするつもりで。
またもや話は変わりますが、ブログではほとんど触れてはおりませんが、昨日からアメリカがまたもや、シリアを爆撃開始。イラク、ウクライナ、海の向こうでは、見知らぬ世界の果たてでは、日々無辜の人々の上に過酷な現実が起きていることを、否応なく知らされます。
日々の安穏と、静かに暮らせることの何という在り難さを、感じずにはいられない私です。庶民の大多数を脅かす、戦争というものの愚はいかにして引き起こされるのか、おびただしい死者の上に築かれる平和とは、いったい何なのかと、愚者の一人として考えずには居られません。
ドレスデンへの旅で、城山三郎さんの【日本人への遺言】という本を読みました。ずしりと、胸にきました。読み書き、考えないといかんと思います。ドレスデンもものすごい空爆から、見違えるような古都に蘇がえっていました。
人生の門出を、おだやかに祝福するなんてことは、平和なればこそでしかありません。瓦礫の廃墟から、見事に立ち直った街で、悠然と流れるエルベ川のほとりでの我が娘たちの結婚式は、あらためて、当たり前の何げない平和というしかない眼前の厳粛な儀式の前で、私は時折粛然とした思いにとらわれ、胸の中で今は亡き両親に手を合わせました。
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