先日初めて行った姫路城 |
父は、敗戦後借金して畑地を買い家を建て、新生活を始めました。その家で、新たに3人の子供に恵まれ、我が兄弟姉妹は、5人となりました。私が小学生の高学年から、高校生くらいにかけてが、我が家の家計が最も苦しかったのであろうことが、たった二人の子供を育ててみて、身にしみて分かります。
一体いつ頃、家の借金を払い終えたのかは、18歳で世の中に出た私にはわかりません。両親はお金のことを家の中でほとんど口にすることはありませんでしたが、子供心に家計が苦しいことはよく感じていました。祖父母も共に暮らしていましたから、今とは比較にならないくらいのにぎやかさでした。
私も兄たちのお下がりを着て育ったのですが、小さい頃はそんな両親の苦労も知らず、わがままを言って困らせたものです。しかし、小学校に行くようになると、私よりも貧しい身なりの子供がもっといて、そのことは今に至るも鮮明な記憶として、残っています。男4兄弟、川の字になって寝ていました。お金はなかったのですが、兄や弟とあらゆる工夫をして遊んだ黄金期の少年時代が、思い返すと宝です。原風景の川や海には、ごみひとつなく、ヒトの心も澄んでいました。のんびりしていました。
年を積むと、他の方は知りませんが、私の場合はしきりと昔のことが思い出されます。そしてその記憶は、経済的にはまずしくはあるのですが、飢えてはおらず、皆が生き生きとしいていて、いさかいも多かったにもかかわらず、今思い返すに幸せな記憶として我が脳裡に、大事にしまいこまれているのです。
私は4番目、一番上の姉が女、後は男です。姉は今年が古希だと思います。お正月に全員がひとつ年をとり、各自の誕生日を祝うなんてことはありませんでした。おそらくほとんどの家庭がそのような、苦しき生活の中、必死でやりくりしていたのでしょう。あれから半世紀。全く浦島太郎のように生活環境は激変し、世の中に出た私は、自分で選んだとはいえ、木の葉のように落ち着かない生活を強いられながらも、なんとか泳いで、今を生きています。
父はとにかく質素に、身の丈に合うような暮らしを心懸けていましたから、その両親の生き方は多分に私にも受け継がれています。何はなくとも、ヒトと比較せず、つましく足るを知る生活を続けたからこそ、なんとか生きてこられたという実感が私にはあります。
少年時代に還ることはかないませんが、あの頃の生活の、豊かさではなく、良さみたいなものが
しきりに思い出され、懐かしいのは、私がひとえに過去を美化しているのかもしれませんが、あながちそうも言えないのではないかという気がしています。
質素に楽しく暮らすことの中から、見えてくるものがあります。今現在も私は自分でいうのももなんですが限りなく質素に暮らすことの中から、見つけられること、見えてくることを探しています。でなければ現代社会は、途方もなく物や金に縛り付けられる、構造になっているからです。その呪縛から逃れるためには、どうしいたらいいのかを、おのおの各自がきちんと考える力を身につけなければ、と考えます。なぜかくも、おれおれ詐欺にあう人が後を絶たないのか。
母のことをしきりに最近何度もブログで書いていますが、自分のことにはほとんどお金を使わず、ひたすら、娘や、孫、そして婿である私にまで、ささやかに貯蓄したお金を惜しまず、与えるその形容しがたい心の豊かさには脱帽します。身近にいる母をお手本にして、今後はこのように生きてゆけばいいと思っています。
母を見ていると余分なことは考えず、天命を受け入れ、編み物、お裁縫、菜園作りと、まったくと言っていいほどお金がかからない生活を、他者の手を煩わせず、80歳になる今も元気に過ごしています。私の記憶する少年期、このような日本人を私は多く見ました。母はよく笑います、身の丈に応じて有効に、愛する者のために使う、愛が見つけられた人は怖いものは何のではないかと母を見ていて、感じます。
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