昨夜から降り始めた雪が、どれほど積もっているのかを確認するために、先ほど外に出て、ほんの少しの時間雪の中で、たたずんだ。こんなことは雪国にでも出かけない限り無理なので、しばし少年に還った。
年齢を忘れ、こんな悠長なことを雪国でやっている人は、まずいないだろう。夜明けに、西大寺でさらさらとした雪が降っているのを体験するのは初めて、記憶がない。カーテンを開けると雪化粧した庭が見える。その上にまた、雪降りつもる。なんともはや、おつな、たまさかのひとときである。
世の中が始動する前の、静かな時間しんしんと降りつもる雪は、私のような凡人でも、しばし詩人的な思いにいざなわれる。こういう感覚も、めったに起きないことだからだとは思うが、雪に閉ざされる国ぐにの人々にとっては、何とのんきな戯言と、お叱りを受けるに違いない。
しかし、南国生まれの私にとっては、雪はたまに降るからこそ、素晴らしいというしかない。故郷日向で少年期、雪が降ってくると、風の又三郎的な感じになったかのように、心がざわめいた記憶が残っていて、それが初老になっても残っていることに、われながら戸惑う。
こんなちょっぴり恥ずかしき、いい年をして感覚が、いまだ抜けないということに関しては、今しばらくの間抜けないいでもらいたいというような、淡い少年期的感覚が、私にはある。口に出すことは、恥ずかしくても、文章ならかける。
これが言葉を紡ぐことの楽しさである。多分に戯言感覚が楽しめるということ、言葉が呼び水になり、言葉が次々に生まれてゆくという連鎖で遊んでいるうちに、心が少年に還ってゆくというしかない。遊ぶということは何にもまして、心が軽くなる。
本質的に遊ぶことにはそんなにお金など要らなかったはずなのに、現代人はお金がないと、生きられないかのような、強迫観念に身も心もかすめ取られているのではないかという気がしてならない。かくいう私だって、お金がないと現代社会では生きられないのだが、あまりお金に侵食されない精神世界に、しばしたゆたいたいとの思いを、常日頃から心懸けるようには、している。
じっとして思いを巡らす、すると不思議なことに、空っぽの自分が実に気持ちがいい。身も心も軽くなる。やりたいことが、スムースに流れだす、緩急自在に、今現在を確認する。TVをはじめとする、間接情報ではなく、自分自身の身体が発する第一次情報に耳を澄ます感覚を、取り戻すことが大事だという気が、私はことのほかする。情報を一面的にうのみにしない。
さもないと、一生情報に踊らされるような、慌ただしき人生をただ生きるという、味気ないことになってしまうのではないかという気が私にはする。世の中は、これからしばしオリンピック狂騒報道(オリンピックを否定しているのではありません)が続くのでしょうが、フールオンザヒル、の感覚で私は世の中の推移を、眺めている。
それが私にとって、気持ちがいいからそうしているだけである。雪で仕事はお休み、こういう雪のおかげの日は、昔時間に還る。普段できないことができる、至福のひとときとなる。
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