気がつけば早2月といった塩梅、例年一月二月の寒い季節は、何とはなしに私の場合精神的には冬眠しているような感じで過ごすのが理想です。あまりどこにも出かけず、ひたすらじっと耐えながら、静かに春の訪れを待つ。
この季節は、家族の生誕と命日が、交互にやってくるということもあって、個人的には家で静かに、故人に思いをはせたり、ささやかに祝ったりすることにしている。
さて、農の仕事はほとんどを外で過ごします。まあ夢が原の時からもそうですが、いやでも季節の移り変わりや、ひびの移ろいに敏感になる、そのように感じます。かすかにかすかに日が長くなってくるのが、日差しが強くなってくるのが体でじかに感じられます。
いかに体が、自然と不即不離の関係で成り立っているのかが体感できます。お天気に体は一喜一憂します。私は名前もそうですが、お陽様が出てくると、単純に元気が出てきます。そういう意味で昨日はまるで春が来たかのような暖かさの中で、終日寒さを忘れ畑で気持ちよく働くことができました。
雨の翌日は、トラクターは畑に入ることができないので、他のことをするのですが、農の仕事はやろうと思えば、無限にやらねばならぬことがあります。要はやるべきことを自分で見つけられるかどうか、です。昨日は暖かくなってくるに従ってネギの畝の間に伸びてくる難敵の雑草を鍬と手で抜いたりする除去作業を、終日やりました。
これは本当に地味な作業で、若い人にはなかなかにいろんな意味で、大変な作業かもしれないという気はしますが、(本当はそうでもないのですが)私くらいの年齢で、体を動かすということをずっとやってきた人であれば、なんとはなしにのらりくらり、軟体動物にでもなったかのような感じで続けてゆくのがこつで、私は楽しめます。
鍬を一人前に扱えるようになりたいという思いが私にはあります。六一歳の手習いというわけで、とにかく鍬を持ち続け鍬と体が一体化するように集中する。台詞を覚えるように、ひたすら繰り返す。それしかない、集中していると、時は知らぬ間に流れます。
気がつくとずいぶん畝がきれいになっています。それの永遠の繰り返しの中での実りを、大地から頂く、それが農の仕事だと思います。腰が痛くなったら、少々の骨休め、そして昔の人たちは厳しい仕事をしながら唄を口ずさんでいたのでしょう。
機械化されるに従って、仕事が楽になるに従って、人々は歌を歌うことを忘れたのでしょう。歌を忘れたカナリアは、やがてどんな運命をたどるのかを書くことは、野暮な気がします。ただ便利な暮らしをしながらの、不便な暮らしとの共存、バランスをとる、新しいライフスタイルを、自分の暮らしの中に構築する。これが肝要だと私は思っています。
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