もうとうに過ぎたのですが、バレンタインデイが流行商売として定着したのはいつ頃からなのかは私は知らない。キリスト教に疎い私にはなぜかくもこんなにクリスマスケーキやチョコレートが売れるのかは皆目理解の範囲を超えている。一言でいえばなんとも実態のないブームの中で、世の中の流れというしかない。かくいう私もその時代の空気感の中をたゆたうしかないのか、考える。
日本人はこういうことが、あまり深くは考えなくとも気にならず、楽しい感覚でお気軽に遊べる民族に私も含め変身してしまったのだろう、か。小さいころ、今のような華麗なお菓子を見たら狂喜乱舞したかもしれない。戦後、日本の子供たちがアメリカのハーシ―のチョコに群がったように。
そのような原点感覚を、頑固にいつくしみながら忘れたくはないという記憶の宝が、今を生きる私をかろうじて支えている、といっても過言ではない。時代の流れといくらずれていようと、とんと構わない。
話は変わる、いささか個人的な感情とは矛盾するが、とてもうれしいチョコレートを二人の女性から頂いた。私はそのうちきっと、血糖値が上がるのは目に見えながらも、父親の血を受け継ぎ、甘いものが好きで、なかでもチョコレートが大好きである。
がしかし、その甘いチョコレートの苦い真実を新聞で知った。西アフリカのガーナとコートジボアールの2カ国で世界のカカオの6割を生産していて、日本が輸入するカカオの8割はガーナ産とのことであり、そのカカオ農園で働いている子供たちは、低賃金、学校にも行っておらず、過酷な労働環境で働かされている記事。
子供たちのほとんどは、我々が口にする甘いチョコレートを食べたことすらない、といった真実。こういったいまだ奴隷状態で働かされ、過酷な労働の上に生産された富の大半を搾取して平然としているような、時代が日本でも世界でもいまだ公然と、平然と行われている、動かしがたい、事実には暗然とする。
知ったからには、これからは臆することなく、自分の感じることを、つたなくても書いてゆく五十鈴川だよりでありたい。こういう記事を大新聞で伝えてくれるから、読者である私はきちんと読まなければ、新聞を読む意味がないとさえ思う。世界とつながっている感覚。
経営矛盾の中でも、きちんと伝えようとしている記事をしっかり受け止める感覚を、私自身なくしてはならないと、痛感するのだ。新聞はいまだ本当にいろんなことを伝えている。読む力をなくしてはならない。
こういう記事を読んでからは、チョコの裏側に、かすかにガーナの子供たちのことを想像してしまう。ガトウショコラ、フェアトレードの本も出ていると知った。ささやかに知ることからすべては始まる。目に余る世の中のおかしな現実に関し、せっかく言論の自由活かさずして、ガーナをはじめ、世界中で労働搾取されている子供たちに申し訳がない気がする。
そういう意味では、インターネットというのはありがたい。どんなにつたなくささやかな、一滴の思いではあれ、伝わる人には伝わるのである。ささやかに感じるおかしなことには、五十鈴川だよりは、臆することなく、個人的に発言してゆきたい。
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