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2013-12-23

年賀状は手で書くことを決めた年の瀬の朝


ブログを書き始めてからわずか4年の間に、とてもではないが書ききれないくらいの私の知っている著名な方々がお亡くなりになっている。もちろん私の知らない方々は、世界中でもっともっとたくさんなくなっているのには違いない。そして今年もまた。

 

ああ、あの方もなくなったのかと、柄にもなくときおりわたしは、何かの感に耽る。若いころはこのような感慨の深さはなかった。つまり生きるに忙しく(それが普通だと思う)死はもっと遠くにあるかのようにしか、考えられなかったのだ。

 

今は違う、一仕事終え、還暦も過ぎ、いい意味で死は、私には身近とまではいかなくても、遠いという感覚はない。我が娘が来年は結婚する、もしかしたら私は数年先にはおじいさんになるかもしれない。一寸先どのようなことが起こるやもしれぬ可能性の高い、まさに大変換時代の渦中を生きているという、認識がかろうじてある。

 

だからこそ私は、今を生きることに関して、いい意味で貪欲でありたいと、考える立場だ。
貪欲、という表現はいささか誤解を与えるかもしれないが、老いに向かう世界を、肯定的に捉えながら、一日を過ごせるかということを、考え続けたいのだ。

 

本音と建前の、日本社会というパラダイムを、もう私の中では、消してしまいたいというくらいの感覚が、育ってきてしまったという認識だ。限りなき自己矛盾からは逃れられないが、可能な限り本音で生きてゆくことを、これからの人生では選択してゆきたいという心もちなのだ。

 

そこで年の瀬の恒例年賀状も、リセットすることにした。出す出さないとかの次元のことではなく、何か今を生きている波動を感じられる方がた、好きな方に、出すという感じ、当たり前だとは思うが、この当たり前が、当たり前ではない所が、日本社会を円滑にしているのかいないのかは、私の頭では定かではない。

 

というわけで、書きたくなる人に時間をかけて、年が明けて門松がとれるまでに、文字を書いて、昔父がやっていたように、父の硯で書で出すことにきめた。

 

私が手で文字が書けなくなった時が、年賀状の終わりにしたいと思っている。私という器は、血と肉でできている。そのことを生きものとして、忘れたくはないという自己認識の側に私はいる。

 

やがては思考も動かなくなる、でも今は動き考えることができる。ありがたいことだ。

 

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