妻が育てている玄関先の小さき花 |
妻のことを、少しこの間25周年ということで書かせて頂きましたが、昨日、本当に久しぶりにめったに外食をしない妻が、ランチを食べにゆきたいということで、妻の知っている、郊外の我が家から車で10分くらいのところにある、小さなフランス料理のお店にゆきました。
こんなことは、一年に一度か二度くらいしかないのですが、下の娘が大学を卒業するまではと、本当にほれぼれするほどに、つましい彼女の生き方は、おのろけでは全くなく、私をして感動させます。あれやこれを望まず、母として最善のことを娘たちのことに、私のことに、つまり家族のことにほとんどのエネルギーを費やす姿を、間近に見ていると、やはり男の私とは、まるで異なる存在であると思わずにはいられません。
来年からは妻との時間を優先しながら、これからの人生を再構築してゆく、新たな出発をしたいと考える私です。妻は今時珍しい、権威や、見かけの肩書や、その他もろもろの偏見などにとらわれない、私の母親のような、極めて母性的な昔だったら極めて普通の女性です。
それだからこそ、私のようなちょっとできそこないのタイプを、伴侶として、くれたのかもしれません。愛と憎しみということは、表裏一体とかになりがちです。愛するがゆえに、憎しみも重なりあうということなのかもしれませんし、長いこと共に暮らすと、一番大切なことがややもすると見失いがちになるということ、だと思います。
夫婦というのは、不思議です、小さいころ、父と母がいさかいをし、私が母の味方をし、あんな暴言を吐く父親の悪口を言うと、母がお父さんは大変なのだから、あんたがそんなことを言う必要はないと、私を叱り、父を弁護したのです。
子供心に大人は不可解だと思いました。あのころから、私の人間という生き物に関しての、謎の芽生えは始まったのだと思います。一筋縄ではいかない、人間という存在。アイデンティティを、絶対矛盾的自己同一、と訳した西田幾多郎という日本の哲学者。
みじかいブログで書くことではないのですが、生と死、愛と憎しみ、愛と死、生と宗教、戦争と平和、正義と戦争、親と子、仕事と家族、ずっと書かないといけないので止しますが、(ヒトは何故ヒトを殺すのかという哲学的命題の謎)。
還暦を迎え、何故生きて企画をするのかということについては、いよいよもって、終えるまでの旅を、永遠の時間軸の中で、一年一年その年の今の花としての企画をしたく思うのです。
ところでランチを食する妻は、こんな料理(カボチャのスープ他)は家ではなかなか作れないと言い、健気な微笑みを浮かべました。安くて美味しくて、私も大満足、夫婦で、小さい初冬を見つけました。
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