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2012-05-31

新藤兼人監督の冥福を祈ります


いま呼んでいる本

昨日、新藤兼人さんが100歳でお亡くなりになった。また一人、巨星が去った。好き嫌いを超えて、偉大な映画作家が姿を消した、もうこのような映画人は出てこないと思うと、やはり何かさみしく、時代の終わりを強烈に感じる。



私はあまり新藤監督の作品を見てはいないのだが、26歳、ロンドンで見た、裸の島は・無言の映画で強烈な印象を私に与えた。いきなり画面に現れた、地を耕し天に至る、という言葉は今も脳裏に刻まれている。殿山泰司、乙羽信子、もうこのような俳優もいなくなった。



夢が原で働くようになり、歳と共に、世の中がIT時代になろうが(ある意味で、時代と逆行するかのように)その言葉はいまも、私の中に住んでいて、人間は大地から離れたら、やがてはいびつな存在になってゆくという、箴言として受け止めている。



安全な、大地、空気や水や光、無くして人間は生き物として存在しえないという、当たり前のことに思えることを考える、感じ取る、感性力が、本当に弱くなってしまった。(私も含めてです)文明人というと呼ばれている我々は、思考停止といって差しつかえないほどに、考えなくなってしまった。そう感じているのは、わたしだけではないとおもうけれど、少数者であることは確かだと思う。生きている人間の顔に力がない。



時間というかけがえのないものを、わたしも含めてのことだが、お金という魔物で、消費するということにかまけていて、地に足のつかない、浮ついた時代を、夢遊病者のように、漂流しながら自分と向かい合うことなく、情報に踊らされているという、懸念がどうしてもわたしはしてしまう。



危険な、自分に自信のない(自分で考える、物差しがない)人々が大人の中にわんさか増えているような気がするのは、わたしだけだろうか。通勤電車の中で眼に入る、他者の存在にまるで無関心な様子の人々の顔。他者は私の鏡である。私もあのような顔をしているのではないかと思うと、ゾッとしてしまう。



偉大な芸術家というものは、ヒトが忘れてしまうことを、決して忘れないヒトのことです。いきいき遊悠塾では、私がこれはと思える作品も上映し、日高事務所でも日高と共に映画を見る時間を、定期的にやりたく思います。新藤監督をはじめ、すぐれた映像作家を。さしあたり、百花プラザにはDVDを上映する部屋があるので、日にちを押さえ、告知は五十鈴川だよりでしますから、なにはともあれ、一人からでも始めたく思います。人が集まりやすい、日曜日の午後にします。

2012-05-30

遊悠塾のテキストはシェイクスピアです

夢が原の茶畑

週に3日お休みなってから、なんとも心に余裕を持ってブログを書ける自分が、何とも嬉しい朝をまた迎えました。余裕があるから、夢が原の園長職を離れての仕事もまた実に自分のペースで出来て楽しく働いています。何よりも役職がないということは、素に帰れて最高です。



残り少ない夢が原の仕事ですが、最後までしっかり働き、次のステップに向かいたく、休日はほとんどを(日没まで)日高事務所のこれからに向かっています。



さていよいよ6月16日から、いきいき(略して遊悠塾)遊悠塾が始まります。とはいっても、ブログでしか伝えていないので、まだ申し込みはないのですが、ともあれ今、募集チラシを作っています。悠々と急いでゲラにチェックを入れたので、6月1日には完成します。出来次第、アップします。



ところで、声を出す塾では、焦点が絞れず、弱いと思ったので、じぶんの人生に多大な影響を受けた、ウイリアム・シェイクスピアの作品をテキストに用いることにいたしました。



シェイクスピアの素晴らしいセリフ(小田島雄志訳)を声に出してみたい方はもちろんですが、そうではなく、興味本位で構わないので、現在の生活を見直してみたい方や、ただ単に遊んでみたい方(これがいいのです)を募集したく思います。



チラシができたら、ゆっくりあちらこちらに配布したく思います。来年3月までに、なんとか15人くらいの方が、集まってくださるまで、とにかくしっかりあらゆる方法で宣伝するつもりです。



犬も歩けばの気持ちで、自分自信楽しみながら営業活動をするつもりでいます。先日自宅で塾を開いておられる方から、夏休みに子供に声の出し方を教えてほしいという思わぬ依頼がありました。遊悠塾は一応中高年対象の塾ですが、ゆくゆくは依頼があれば、子供も対象にしてもいいかとも考えました。ともあれ、何事も考えながらアクションを起こさなければ何事も前には進まないということです。



遊悠塾は、西大寺の我が家の近くで出発しますが、依頼があればどんなところにも出張いたします。



テキストがシェイクスピアなので、私も昔に帰り、なんかうきうき、とても楽しみです。






2012-05-29

樹木の下のゲストとの語らい

樹木の下の款談スペース

一昨日の日曜日の午後我が家のバラガーデンパーティに2名のゲストが、午後3時ごろ来てくださいました。日差しの強い一日でしたが、我が家の奥には、一本の大きな毎年実をつけてくれる、はっさくの樹があり、その木陰に妻がテーブルと椅子を置き4人が座れるようになっているのですが、その下で、なんとも愉快に歓談することができました。



我が家の御神木とも言える樹木、最近天気がいい時は、お休みもその木の下で新聞を読んだり昼食をしたりして過ごします。木陰を吹き抜ける風が何とも気持ちいいのです。これから秋まで、私はかなりの時間をこの木の下で過ごすことになります。おそらく私のこれからの生活に、欠かせない木です。



さて、2名のゲストは1996年から一貫して私のイベントを支援して下さっている、もと北方郵便局の局長をしておられ、現在は自分の世界をゆっくりと広げておられるS氏ともう一人は表町で45年以上御鮨屋さんを構えておられるM氏のお二人。S氏は全くお酒が飲めない体質、かたやM氏は御酒がないと生きてゆけないような方。全く好対照な御二人が、連れだって来てくださったのだが、いや、私自身も久方ぶりに多めのお酒を嗜み、なんとも楽しい五月晴れのように、心も晴れ、改めて晩年を楽しく過ごすためには、心から肝胆相照らす、愉快な仲間がいるということのありがたさを思いました。



S氏はこの2月にアフリカのキリマンジャロにも登頂しており、(キリマンジャロの石を頂きました、大切に両親のそばに飾っています)普通のかたより早めに仕事を辞められ、独自の晩年ライフを歩んでおられます。絵も描かれ、写真もやり、畑もされるという、極めて寡黙な方ではあるのですが、内面には熱いものがいつも燃えておられるかたです。静かにゆくものが、最も遠くまで行くという言葉がありますが、さしずめ私などは氏からもっと学ばねばという気がいたします。



M氏は私より10歳年上で在り、すし職人一筋で、今も現役。お鮨を握りながら、お客さんの顔を一日でも眺めていたいとおっしゃっています。健康で、お鮨が握れるということ、働けるということ。自分にいくつになっても居場所があり、心に張りのある生活があるということの充実。私も可能なうち、あと10年何がしかの企画を続けたいとの思いが深まり、氏の元気さにあやかりたいと思いました。



それにしても、樹木の力を思い知りました。3人がなんとも楽しく、すがすがしい気持ちになれたのは、やはり場所の力だと思います。これからも極めて少人数での、木の下歓談会を年に数回やりたくなりました。




2012-05-27

自我を癒してくれるくれる花と植物

つるバラ別の角度で

自分でブログの写真をアップするようになって感じるのは、自分で育ててもいないのに、自分は花が好きなのだということである。つまり眺めるのが好きなのだということである。たまたま、この間買った記念切手は、牧野富太郎博士の記念切手で、もちろん知らない名前の小さき花や植物。以前書いたことがあるけれども、夢が原で過ごすうちに、なんともすごい雑草も、当たり前だがなんとも可憐な花を咲かせていて、歳と共に無名の花々に眼がゆくようになってきた。日々刈っている雑草でさえ、別な視点で眺めるようなってきている自分を感じている。



でも人間というものは(自分のことです)かくも主観的な生きものであるのかということに気づき、ときおり仕方ないとはいえ、愕然とすることがあります。朝から、何やら真面目に過ぎる、展開ですがご勘弁ください。自我という意識、自分を守るということによって、他者を認めないというか、自分が理解できない世界のことには、ふたをするというのか、時には他者を攻撃するとか。



これは自分のものであるとか、これが自分なのだという強迫的な思い。私の中にも様々な自我がうごめいており、それに縛られ、自己どうちゃくというのでしょうか、自分で自分がどうにもしようのない、思い、自己嫌悪になることが、ときおりいまだに、私にはあります。そんなとき昔はお酒を飲んだりしていたのですが、しなくなりました。ブログを書くことで、自分との対話がかすかに進んだせいのようにも思うのです。



いまだかすかに変化する自分がある限り、あきらめずにやれるところまで自分と付き合ってゆくという思いです。おそらく仕事を辞めることにきめ、自分で生きてゆく選択をした時から、何か意識に新しい光が這いいり始めたのかもしれません。安全なところにいたのでは、なかなかに脳は全開しないのではないかという気がします。守りに入ってはだめだということです。



無理をするということと、ギリギリのところでしっかり生きるということは全く違うということです。一円も使うことなく、充実した一日が過ごせるということを、50代に入って私は学びました。



昨日は、下の娘の19歳の誕生日で、植物図鑑という、有川浩の本を(頼まれまして)、プレゼントしました。知的な遊びができなくなったら、ヒトとしてちょっとさみしい気がいたします。遊悠塾は何よりも、生きていることを確認する塾です。

2012-05-26

遊悠塾は自分自身を意識する塾です



母と妻が丹精したつるバラ

時間を見つけて意識的に、身体を動かすことを特にこの数年ささやかにやっている。来年からはもっともっと、自分の身体と向かい合う時間が増えるし、遊悠塾を始めるので、何よりも私自身が、私なりのトレーニングを積んでいないことには話にならない。



さてそういうわけで、昨日は休日だったので、日高事務所の立ち上げに当たり終日営業活動をしたあと、夕方運動公園で体を動かした。年齢的にそうハードなことはやらないのだが、一番苦手な懸垂はかかさずやるようにしている、数年前に始めた時はまるで出来ず、暗澹たる思いに駆られたことがうそのように、今、8回位は出来るようになった。



一度腕の筋を痛め、一年くらい止めていたのだが、今年の冬恐る恐るやってみたら、なんとかできたので、以後絶対無理をしないように、ひそかに続けていたのである。今はなんとか、先のことは考えず、一日でも長く8回をキープしてゆきたいと考えている。



それと最近、100メートルを、自分なりに出来るだけ早く走るということを始めたのだが、それなりにまだ走れる自分がいて驚いている。これは体をほぐした後、最後の仕上げで、その日の体調で1回から3回しかやらないのだが、これも懸垂と同じで一日でも長く続けられたらと、考えている。ほかにもいろいろやって、ワンセット30分くらいの、簡単な運動で、若くはないのだからハードなことはしないで、基本は今の体力を維持することが、目的の運動だ。



外でやるのは運動、家の中では体操ということになるのだが、なにはともあれ基本は自分の身体と遊ぶという感覚での、我流体操である。これもその日の体調と相談し、同じ姿勢を続けた後とか、ほんのちょっと時間ができた時に、意識的にやっているのだがこれは遊悠塾では、必ずやりたいと考えている。



意識する訓練を続けるということが、遊悠塾では基本になるから、とにかく私自身がこれまでの人生で、やってきたことを、これからは参加してくる方と共に実践する私塾であり、

なによりも、錆びついた自分を磨き、身も心も裸になって、現在の自分自身と向かい合う塾なので、私自身も向かいあっているというわけである。



ところで、話は変わり我が家の車庫のフェンスの赤い蔓バラが今満開を迎えつつあります。明日、日曜日(27日)午後3時から5時までバラパーティをいたします。一品持ち寄りですが、このブログを開いている方で、もし参加したい方がいらしたら連絡して下さい。一人でも結構です。

2012-05-24

自由への幻想

今年2月被災した石巻で

なにかぬきんでた世界に辿り着くことがあるかもしれないという、淡い幻想がいまだに私にはあるように思えます。よしんばそれが実現しなくてもかまわないくらいの気持ちではいるのですが、可能なら無理のない範囲で、自分の自己限界をそれなりの現実との折り合いをつける中で見つける、ということをこれまでの人生で繰り返し今日までやってきたように思います。



何故そういう思いが、しつこく私の中にあるのか、ときおり考えるのですが、幼少のころから、身を震わせるような感動といいますか、そういうことを脳が経験しているがためなのだということを、脳についてさかんに書いておられる茂木健一郎さんの本を読んで、ふむふむといろんなことが腑に落ちました。



これから参加者と共にいきいき遊悠塾を立ち上げる私には、そうかやはり自分がやろうとしていることは、脳にとって、つまり身体にとってとてもいいことなのだという自信を深める本となりました。結局、生から死に向かう時間をいかに生きて、いかに幕を閉じるのかという普遍的な命題を、遊悠塾では自分の身体を他者の身体を鏡として、見つめてゆくという塾なのです。



どんな方が参加して下さるのか、とても私は楽しみなのです。発案者の私が、見果てぬ夢のように創造的に他者と共に生きてみたいと思うのです。私のこれまでの生き方に興味を示してくださる方を対象に、中高年対象の塾です。



自然には、まったく無駄がないという気がします。ひるがえってわずかな時間しか生きていない(たった60年ですが)中で、何と息苦しい文明社会にひたひたととりこまれているのかということを。つまりは不自然な、矛盾の果ての無駄を生きているという気さえします。



世界の人口、70億人、そのうち飢餓にさらされている人が10億人、メタボになっている人が10億人などと統計は語ります。(ところで私は統計や、データの数字はあまり信じてはいないと言いますか、実感がわきません)昔の生活は私だって望まないものの、自分自身の中に(生活に)一言でいえば美をとりもどすこと。幸福感をとりもどすこと、が日高事務所で、取り組みたいことです。



日々書きながら、私も試行錯誤をあきらめず続けます。サヨウナラ昨日までの生活、こんにちは新しい生活(チェーホフの3人姉妹の中の台詞)。

2012-05-23

脳が活性化している最近の私です

夢が原はアザミが原です

人生再出発してから、はや2カ月。何か充実している、自分で見うまく表現できないが、いい感じである。心身に、変な意味でのストレスがないのである。脳細胞が活性化しているのを感じる。とんとお酒がほしくない、良く眠れる。人間は追いつめられるとだめになるタイプと、逆に根性が座るタイプと2種類に分けるとすると、どうも私は後者らしい。つまり楽天的な性格、我ながら阿呆である。



昔から、バカは死ななきゃ、治らないなんて言うけれども、私に言わせれば、このようにしか生きられないから、このように生きているにすぎないのであって、石橋をたたきながら、未知なる世界を目指すという一回性の、贅沢を生きているだけなのだ。



冗談はともかく、18歳から世の中に出て、お金を稼ぐということの大変さが身にしみている私としては、なにはともあれ、なんとかして自分のやれることで、収益を挙げ、家族に迷惑をかけず生活するという道を選択したのだから、全エネルギーをかけて日高事務所にかけているのだが、思った以上につぎつぎにやりたいことが湧いてくるのは、やはり退路を断っているからだと思う。



この間も書いたのですが、なによりも、まだ何をするかも示していない段階から、予想を超える個人協賛の支援会員が、あるということの大いなる励み、皆さん私と同じように、つましい生活費の中からやりくりしながら、私の企画するものを応援して下さっているのだと思うと、一円も無駄にせず、期待にこたえる企画を考える気持ちががんがん湧いてくるのだ。



よく理想と現実といいますが、私に言わせれば、現実からしか理想は生まれないという感じがします。このブログで何度も書いていますが、お金があるから企画するのではなく、企画したいものがあるから、お金が必要なのです。家族の生活があるので、最低妻が安心するくらいの収益を挙げながらなんとかして、日高事務所らしい企画を打ちたいのです。



そのためには、新しいスポンサーに出会うべく、これからは時間を見つけて、営業活動もやるつもりです。20代、30代の起業ではなく、60代からのアドベンチャー起業なのですから、遊びや心の豊かさに焦点を絞った、おじさんベンチャー起業があってもいいのではないかと考えるのです。年齢に関係なく、要は何がやりたいかということがしっかりしていればいいだけのことだと思います。

2012-05-22

しきりに最近歌が歌いたい、私、です

妻が昨年植えたバラ

昨日一日、夢が原で草刈りを集中してやって、自分なりの体力測定をしました。結果は思いがけないほどに、元気に体が動いてくれることを確認しました。平坦な所ばかりを刈るわけではないので、息がかなり上がるところもあるのですが、息が上がると、息が整うまでしばし休息し、また草と格闘するという繰り返し、この21年ンの草刈りや、茅作業は私の精神にどれほどの、忍耐力と(人生辛抱だ、は真実だと思います)集中力を養ってくれたことかと感謝しています。あらゆる種類の忍耐を夢が原では学ぶことができたのではないかと、思える今です。



だからこそ、私は日高事務所を立ち上げる勇気が、自分の中にあるのだと思います。不得手なことを克服したからこそ、得意なことがより得意に思える自分のささやかな世界に帰れるように思えます。



いま、朝のひととき、岸洋子さんの唄を聴きながら、ブログを書いています。こんなにも穏やかな気持ちで、歌を聴ける時間、何とも嬉しい私です。最近どういうものか、私はとても歌が歌いたくなっている自分を感じています。先日の故郷でも兄弟全員でカラオケに行ったことは、先のブログで触れましたが、いきいき遊悠塾でも、何か歌を歌いたと思うのです。



昔、東京での生活、生意気盛りの若いころ、絶望的気分で、生きておりましたが、そのようなとき、小泉文夫先生の日本の音という本を読みました。その中に歌を歌わなくなった民族は滅びるとありました。(土取さんのブログでも、先生のおたまじゃくし無用論に触れています)今・その言葉が私の意識の奥底で、騒ぐのです。



もし万が一、世界が明日滅びるようなことになっても、私は歌を歌えるような、自分でありたいと最近しきりに考えるようになりました。だから私はこれから、歌を歌いたいのです。下手でも何でもいいのです、60過ぎたらもう一度、声を出すのです。無理しないで・今・動く自分の身体を、意識し動かすのです。



何か、今の自分を変えたいと考えておられる方に、私は会いたいという思いで遊悠塾を立ち上げます。何らかの形で10人から15人の方会いたい。そのためにはどうしたらいいのか、今考えています。



感動しなくなったら、人間ではないとアインシュタインは言っているそうです。

2012-05-21

私は路地が好きです

夜明け前の我が家の白いつるバラ

時間に余裕のある生活が、以前よりできたので、休日は愛犬メルを連れて必ず、運動公園まで散歩に往くようになっているのだが、車を使わないのでほとんど車の通れない、細い家と家の隙間のような道を歩くのだが、このような画一的な家が立ち並ぶ時代の中に合っても、やはり人間は、その中で、極めてその人らしい暮らしを営んでいるのだということが、その家の庭を見ると、良く見えてくるような気がする。



同じ道を何度も何度も歩くのだが(なるべくいろんな細い道を探して歩いている)いろんな表通りからは見えない、いわゆる路地のような道が、まだ西大寺にはそこかしこに残っていて、私はそのような車が通れないような、路が大好きである。来年はもっともっと西大寺の観音院周辺まで散歩のコースを広げ、歩いた道を、このブログで写真にとって、書きたいと思う。何せ時間ができるのだから。ささやかな路上考現学、なんて大したものではなく、ただ単に、車が入れない細き道に私は惹かれるのです。市井の人が暮らしている道。



けっして表からはうかがい知ることはない、ささやかではあるけれども、なんとも庶民はたくましく、日々を生きているのです。そのことを私は思い知らされています。あ、ここにも何と、慎ましく豊かに生きている家人が住んでいるのだと思わせる家が、あるのです。庭や植木に住んでいる人の、愛情が丹精がこめられているのが、わかるというのか見えるのです。



昨日も、ささやかなお家に、見事な赤いバラが咲いていて、たまたまその家の方が、そのバラを摘んでいる時に通りかかったのですが、その女性はなんとも言えない良い顔で自分が育てているバラを眺めていました。何気ない日常のひとこまですが、バラの香りがこちらにまで、匂ってくるかのような心もちになりました。



美しい、その人らしい植物や植木を育てたりするのは、織物をおるように、手間暇が子育てのようにかかるのだと思います。だからこそ、花が咲いた時の喜びは、花を育てた人にしかわからない喜びがあるのだと思います。



手間暇かける喜び、横着をしない(無理をすることではありません)与えられている時間を大切に生きる。そこにこそやはり、ヒトが人らしく生きられる何か大切なこと、ヒントがあるのだと思います。我が家の庭は、妻に任せきりですが、今ようやく夜が明けてきて、窓から庭を眺めながら、幸福感に包まれています。






2012-05-20

5月19日、何をしていたか

手作りチケット、一枚目完成

二十日朝です。毎日同じようなことを書いている私のブログ、読んでいる方がいるのかいささか不安ではあるのですが、ないそでは振れない、恥をかきかき2年半、石の上にも3年ということわざを、私は信じているものですから、いきいき遊悠塾も最低3年は続けたいという、夢を持っています。



さて、昨日土曜日、私は何をして過ごしていたのかを、かいつまんで書きたく思います。これは日々の記録としてのブログでもあるので(もちろんかけることしか書きません)。



起きてまず、五時半ころからブログを書きました。その後、二階の書斎で、3通お手紙を書きました。これは今年から必ず、お礼状は万年筆で可能な限り手で書くということを、日高事務所を立ち上げるにあたり(短いうただけの、筆がきも含めて)決めたのです。ゆっくり相手の顔を想像しながら、手紙を書くなんてンことは、やはり余裕と時間がないことには、不可能ですから。



それから、日高事務所の最初の大きな企画の、土取利行さんによる、明治大正の日本の演歌のチケット作りに、午前中挑戦しました。先日チラシを作ってくれている、西大寺の仲間のM氏推薦のお店で買ってきた和紙をある程度の大きさに、紙を水でぬらし、ちぎってゆく作業。初めての作業なので、恐る恐るとやっていたのですが、だんだん慣れ、やがて面白くなりました。一枚の紙から50枚以上の、ティケット用の紙ができました。



とりあえず、紙ができたのでどうしても書いてみたくなり、父親の形見の硯をすり、なんとか一枚書いたら、思いのほか、自己満足的いい感じに仕上がりました。何事も遊び心で、これからは心に浮かぶ、よしなしごとをやってみるということ。まったくお金なんかなくったって出来るのですから。手で筆文字を書くなんてことは、なかなかに集中力が要りますから、一度にはそんなには書けませんが、写経のようなつもりで5月中になんとか100枚書きあげます。支援会員にはこのチケットを送ります(チラシと共に)残りはなんとか、行商しますのでどうかよろしくお願いします。



12時から2時半まで、東区の街づくり審査会に、委員として出席。帰ってから、図書館へ、本を返し本を借りました。戻って5時から大相撲を見て(私は相撲が好きです、稀勢里のファンです)それから愛犬メルとの散歩をし、運動公園で30分ほどささやかに続けている、トレーニングをし家に、ゆっくりお湯につかり、ゆっくり夕食をし、好きな女子バレー食後見て、その後土取さんのブログを読み(素晴らしい)、本を持って、床についたのですが、またたく間に睡魔に襲われ、また朝が来たというわけです。



今日もこれから、これからお礼のお手紙を書きます。重要なことは午前中に済ませます。

2012-05-19

日高事務所はシンプルイズビューティフル

今年初めて自分で摘んだわらび

何度も書いているが、土日がお休みだということが、突然21年ぶりに訪れ、私の身体はなんとも言えない嬉しい喜びに包まれている。決まったお給料がなくなり、これからは、まがりなりにも自分自身の才覚で自立して生活しなければならない大変さは、子供ではないのだから、重々承知している。



しかし、ようやく60歳にしてこのような時間が私に与えられ、日高事務所を立ち上げることを契機に、私は全てをこれから先、プラスに考え、学び、行動してゆくつもりでいる。来年からの完全フリーの前の、これからの時間を、助走時間としながら、週に3日の自由時間は、日高事務所のこれからの仕事にほとんどを費やしながら、この2カ月を過している。



歩みはありのようなのですが、何よりの大きな励みは、思いもかけぬ(何十年ぶりにお手紙をいただいたり)方々から、個人協賛の予想を超えた反応が寄せられているということに関して、正直私は驚いています。これは日高事務所の存在理由があるということを証明してくれているといことなので、私としては荒海に出る悲壮な覚悟なわけですけれども、非常に単純な私としては勇気づけられます。



世はリストラ時代、この十数年、三万人以上の方が毎年自殺しているわが国で。おかしいという原初的な感覚でさえ、私には大多数の人が思考停止に入っているかのように思え、もうなし崩しに、流されそうになっているかのようにさえ、感じられます。



何もかもが揺らいでいるなか、まあそう肩に力を入れず、日高事務所は自分の胸に手を当てて、自分の中から湧いてくる何かを頼りに、自立した企画を目指します。



要は、最低生活であれ、笑顔の生活ができればいい、というのが私の小学生的な認識です。大昔から庶民はそれをやってきたのですから。シンプルイズビューティフルがこれからの、日高事務所のキィワードです。私は庶民です。



さて、最後にいきいき遊悠塾、これを読まれた方参加してみませんか。芝居は英語でプレイです。遊ぶという言葉を日本人はあまりよく思わないかもしれないので、悩んだのですが、人生あらゆるところに、自分の中に遊び心を見つける、という意味での塾です。



繰り返し書きます、一人の参加者がいれば、遊悠塾はスタートします。勇気を持ってのご参加をお待ちします。定員(こないだは字が間違ってました)15名です。








2012-05-18

いきいき遊悠塾始めます

大崩山(おおくえやま)の巨石

日高事務所の再出発企画は・土取利行氏による邦楽番外地(ゲストが2名)、日本のうたよどこいった、添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌の世界。9月7日(金曜)19時から西大寺観音院に向けて、一歩一歩確実に進めています。チケットは前売り3000円です。



このような時代ではありますが、なんとか協賛や、個人協賛を募り、チケットを売り、私なりに全精力を傾けます。折々、このブログでお伝えします。五十鈴川だよりは私にとっては、蜘蛛の糸のような、オフイスヒダカの広報誌でもありますから。



チケットの申し込みは、6月1日以降いつでも、受け付けます。日高事務所支援会員と先着100名には、私自身が手書きの(父の残した硯で書いた)チケットを手作りします。背水の陣で(オーバーではなく)私はチケットの行商おじさんになります。可能な限り手作り、ハンドメイドな、いまの時代の流れの中での逆を往くイベントを、ヒダカ企画は目指します。体温、血のぬくもりのある企画を。



簡単なチラシを今月中には創ります。正式なチラシも6月中にはすり上げますから、出来次第、ブログでお伝えします。私の企画はほとんどを個人でやっていますので、全てに時間がかかるのですが、お金はなくとも考える時間があるので、この21年間の中で初めてといっていいくらい、精神的に余裕をもって事を進めています。



ありがたいことです。まさに時は金なりなのです。チケットを手作りするなんてことは、時間がないと出来ません。店員が100人以内のミニイベントは、これから全て手作りにしようかと考えています。



さて、私のもう一つの生きがいを目指す、いきいき遊悠塾、6月16日から始めます。時間は10時から12時、毎週土曜日です。場所は西大寺の百花プラザの10畳の和室です。施設は二カ月ごとに更新なので、7月21日までの土曜日を昨日押さえました。可能なら更新しながらずっと借りることにします。



とにかく、アクションを起こさないことには前には進みません。この塾の募集チラシも今月中には創ります。参加費は一回1000円です。店員は15名ですが、とりあえず一人でも参加者がいればスタートします。参加者が増えた時点でもっと大きいスペースを借ります。












2012-05-17

何故今、日高塾を始めるのか


同じ人間の、極めて狭い行動範囲の、日々の移ろいを、ささやかに意識することで、おなじようではあるけれども、毎日新しい一日を、可能なら少しでも、豊かに彩りたいという、極めて自己満足的、ブログを2年半以上書きつづける中で、私自身が変化し、新しい自分がかすかに見えてきたような気が最近いたします。



それは、極めて謙虚な自信のようなものです。例えば、今でも私はITが苦手です。ブログを書きはじめた時、まるでキィが打てませんでしたが、最近は左手でも随分打てるようになりました。53歳から韓国語のいろはを学び(来年からまた、新たに始めます、何せ時間ができるのですから)なんとか昨年弁論大会に出ることも叶いましたが、老いてゆく中での、自分自身との向かい合いを楽しみたかったのです。



ことほど左様に、歩みは遅くとも、年齢を重ねても、人間にはいろんな可能性があるということに、私自身が気づかされているのです。可能性の扉をこじ開ける、きまりきったかのような日常(ではないのですが)、自分自身に新鮮な風を入れる、こと。


大崩山(おおくえやま)山頂にて

ヒトはよく、自分で自分自身の可能性を閉ざしがちになる生き物であるという気がします。若いころの私がそうでした。自分には才能がないと思うのです。が果たして、才能とはなんでしょうか。そのことを、いまだ私は考えます。18歳で夢だけを頼りに、世の中に出た私ですが、ご多分にもれず、まったく自分には才能がないという思いに打ちのめされました。



今思います、私に立った一つささやかに才能が与えられていたとしたら、何かに感動するということの感覚があったということなのだと、最近思うのです。スポンジのように柔らかい心で、森羅万象に反応するということ。それがなくなり身も心も乾いて、カサカサになると、人生をあえて別な方向へと変えてきたように思うのです。



そして、還暦にしてまた新たにその時が来ていることを、本能的に感じるのです。生き生きヒダカ塾は、参加される方がいれば一人から始めようと思います。一クラス15名、以上は無理です。



よくどんなことをするのですかと聞かれるのですが、一言でいえば(基本は声を出し、体を動かすのですが)私と共に遊ぶための塾です。自分自身を開放し、老いてゆく時間の中で、自分自身の可能性を見つけるための塾です。参加される方と共に、何かを創りたく思います。名称は・生き生き遊悠塾・です。




2012-05-16

残された私のこれからの時間を生きる

大崩山(おおくえやま)の新緑

この数年で、まるで私の一日の時間の使い方は変わったように思う。そしてこの4月からは、週3日のお休みがあるので、いよいよこれから自分のやりたいことに向かって進み始めたところ、極めて充実した時間があっという間に過ぎてゆくというかんじである。



何よりも一番の変化は、外でお酒をのまなくなったということ(飲む時間も、お金もなくなったということ)です。ハッキリ言えば、そんなことをしている時間が惜しいくらいに、私の頭は勉強したりしていることの方が、楽しいということに、気づきはじめました。



もうそんなことをしている時間は私には残されていないし、いまわれわれが生活している社会というものは、便利ではあるけれども、いつ何が起きても不思議ではないくらいの、極めて不安定な時代に入っているという自覚が、私の中にはあるのです。



再三、私はお金では買えない世界の、見えない世界に心を写し、貧しき仲にも豊かなライフスタイルを築いてきた、祖先の残してきた、芸術や文化に最近はとみに惹かれている自分を感じています。だからこそ、還暦を境に心機一転日高事務所を立ち上げ、あえて未知なる、経済的には難しい世界に足を踏み出したいという思いなのです。



5年後では遅い、悔いが残るという気がしたのです。思いついた時に決断しなければ出来ないのです。岡山へ移住するときも、英国留学を決めたときも、富良野塾に参加するときも、文学座を受けたときも、やらなかったら、悔いが残るという、あえてその当時としては、難しい決断を私はこれまでのン人生でしてきました。



そのことを、今振り返り思います。人生はたった一回限りのことなのであるということを、私は演劇を学ぶことで教えられました。現実を生きる中で、可能な限り意識的に生きることを。



二十歳ころ、チャップリンの自伝を読みました。私にとっての人生の一冊。人生で大切な三つのこと、それは、勇気と友達(妻も含む)と少々のお金、とありました。そのことを私はいまも、胸に刻んでいました。勇気を持って飛び込むというのは、なかなかに難しいことではあります。



しかし、私はお金では買えない世界の豊かさに、支えられて生きてきた人間です。だから日高事務所を創り、ご縁のある方と苦しくとも、豊かで楽しい、つまりは愉快な晩年ライフを、生きたいのです。

2012-05-15

友人の手紙と家族について思う

亡き父が建てたお墓の納骨堂碑

5月15日の朝です。起きて15分しかたっていませんが、ブログタイムに頭が入りました。外はまだ薄暗いのですが、窓からの春の花々が美しく、雨は上がっています。少し肌寒い感じですが、この静けさを、ことのほか私は好みます。



ところで、昨日は嬉しいことがありました。神奈川に住む、我が良き友K氏からまたまた思いのこもった、手書きではないのですが(手書きの葉書も、たまにいただきます、文字が可愛く、すべてとっています)お手紙を頂きました。家族のこと、わけても愛妻家らしい妻のことが自然に触れられていて、素敵な家族であることが、文面に現れていました。



家族とは何か、夫婦とは何か、兄弟とは何か。なんてことをいい年ではありますが、いまだときおり考える私自身がおります。この半世紀の日本の歴史の中での自分がまがりなりにも生きて、成長する中での見つけることができた家族ということの、ありがたさや、難しさ。ヒトは生きている限り、そのようなことからは逃れられませんし、またそのことはオーバーではなく、ずっと考え続けなければならない、いわば生きている宿命のようなものなのだと、最近は考えています。



朝から、なにやら真面目な問題を書きはじめてしまいましたが、先日も故郷で本当に何十年ぶりかで、兄や姉と山登りや、小旅行をする機会にたまたま偶然恵まれたのですが、それは仕組んだものではなく、眼に見えない何かがおぜん立てしてくれたように、私には感じられたのです。



あまり難しく考える必要はないというのが、私の考えです。人間にとってこれが一番難しいことなのかもしれませんが、やはり相手の立場になって考える想像力を持てるか持てないか、ということに尽きるように、最近は思います。私自身もおそらくこれからも、ずっとなんとも慌ただしい時代の中で、あらゆる不自由を抱えながらも、生きる中での家族(皆、変化しながら日々の情況に適応しながら、生きているわけですから)のことに関して、日々の何げない暮らしを、改めて大切に生きてゆかないといけないという思いです。


浦島太郎のように、娘たちがこんなにも成長しているのだということに、ある日突然驚かされることが、最近ありました。親である私が何も知らぬまま、娘たちは自分で考える力を身につけ始めています。何よりも、家族というものが社会の最小単位ですから、親である私がしっかりしなければならないと思う今朝の私です。

2012-05-13

還暦帰省の旅


ここまでは私のみが行きました

昨日、宮崎のふるさとから帰ってきました。予定より一日長く今までで一番長く4泊5日を過しましたが、そのうち二日を兄弟全員の(タイにいる弟をのぞく、義理の姉も含む5名で)鹿児島旅行で思いもかけず過すことができました。知覧の特攻隊記念館にも行くことが叶いました。



今回の帰省の旅は、あまりにも思いがけないことが続き、書きたいことがたくさんあるのですが、またお休みの日に、さわりだけほんの少しでも書きたいという思いです。



ただ、大崩山という宮崎で一番高い山があるのです。いつの日かチャンスを作り一度登りたいと考えていた念願の山なのですが、結論を先に書けば、その念願が、還暦にしてようやく叶いました。



そのこともまた、ゆっくり時間があるときに書きたく思います。山登りも二男をのぞき、長男夫婦、姉、私の4人で登ったのですが、こんなことはおそらく年齢的にもう二度とない、出来ないという思いを、各人が胸に秘めての山登りとなりました。



そういう意味での今回の帰省の旅は、改めていろんなことを考えさせられる、貴重な旅となりました。兄弟そろってもうみんなそれなりにいい年齢ですし、こんなにそろっての山登りや旅ができるなんてことは、よほどの条件の折り合いがつかないと、実現することは叶いません。皆リタイアし、それぞれの人生を歩んでいますし、わたしもこんなにも時間が取れたのは、やはり退職したからなのです。



現代の社会において、晩年兄弟がこのような時間を共に持てるなんてことはなかなかに叶わぬことではないでしょうか。そういう意味において、小さいころのようにこのように楽しい時間が持てた今回の旅は、貴重な旅となりました。



またこれから私塾を始めたいと考えている私にとって、リタイア後の時間、お金に頼らない過し方という意味において、いかに健康が大事であり、心からの仲間が必要であるかというヒントを、改めて今回の帰省の旅で、見つめることができたように思います。