妻がいそしんでいる庭の花 |
丸2年と5カ月以上、こんなにも書くことを続ける自分が生まれてこようとは思いもしなかったことは、囲炉裏通信時代から、何度も書きてきたような気がするが、書くという行為は、否でも自分との対話を強いられるというのか、内省的にどうしてもいい意味でなるように、私には思われる。
若いころは、世界の風に当たるべく、外国旅行をすることが、一つの夢というような時代もあった。がやがて日々の暮らしに埋没し、好奇心なんかもやがて薄れ、ごく普通の初老の平々凡々たる人間になってしまうのであろうかと考えると少し恐ろしかったが、今は平凡の素晴らしさを受けとめる自分がいる。若いころには気づかなかったことを、外国旅行にゆけなくても、随分感じるようになってきたし、日々、内国旅行をしているような遊び感覚。異国に生れれば、日本もまた外国なのである。視点を変え、思考空間をたゆたう遊びは尽きない。肉体は退化するが、精神は進化するというパラドックスを、還暦後の自分の中に感じている。
毛はすでに抜け、白髪が増え、顔のしわや、シミ、背中や身体の節々の痛み、などなど、年相応に老いてきているのだが、そういう自分をどこか俯瞰的に眺められる余裕のようなものが生まれてきているのだ。やがて花がしおれ散るように、生と死は一体で完結、繋がっているとのだ。老いてゆくことは、個人差があるにもせよ必然なのだから、その必然をいかように生きてゆくかということは、個人個人に課せられている(これを楽しみたい)という気がしてならない。
若いころには気づかなかった、あまりに身近な日本の素晴らしさを、ようやくにしてしみじみ愛おしく感じ始めている。還暦おじさんとしてはゆっくりしか歩けないのだが、若いころには読む気もしなかったような本が、読めるのである。何十年も働く中で見失っていた子供のような好奇心がいまだかすかに、生きていることを神に感謝しながら、これから私に与えられている時間を、できるだけお金というものに頼らないつましい生活の中に見つけてゆくということに、新たに挑戦してみたいのである。
これまでの人生でも、天の邪鬼的発想、逆から眺める方法でなんとかしのいできた我が人生。だからこそいろんな思い出が、詰まっているのだと、今思えるのだ。物を書いたり、考えたり、歩いたり、掃除したり、料理したり、何気ない日々の毎日の繰り返しの中に、本当に大切で豊かなことが、存在しているのだということを、還暦にして思い知る私である。
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