満開の夢が原の山桜 |
五木寛之さんのことは、何回か私のブログで取り上げているが、私は20歳年上のちょっと日本では珍しいタイプのこの作家に、還暦を過ぎて特に改めて惹かれている、自分を感じている。
どこにも属さず、風のように旅をしながら、ひたすら自分自身と対話しながら、死を見つめながら時代を見つめながら、流されゆく日々を書き連ねながら、ときおり小説、(親鸞)を完成させる。80歳で現役。それはいきなりなされるものではないということが、ほんの少し私にもわかるのだ。
日々の積み重ね、なんてことを気軽に言うけれども、私ごときの拙文でさえ、やはり日々の積み重ねの中で、文が文を呼び込んでくるかのように、ときおり感じてくるのが3年目にして、ようやく感じられるから、書くということの自問自答は、私には今後、いつまで生きるかわからない、なんとも貴重な日々を、なにがしかの充実感を確認しながら過すということは、最も大切なことだととみに最近感じている。
五木さんも読みやすい文章で、繰り返し同じようなことを書かれているが、書かれている年齢によって微妙に変化していることが、読んでいるとよくわかるのである。一般大衆は平易な文章でないとまず読まない。坦々と歩く姿にひかれます。私もかくありたい、のです。
さて、今私は五木さんが74歳くらいの時に、書かれた天命という、死に着いて考察された本をもうすぐ読み終えるのだが、深く納得し同感を覚えるのだ。自分という存在の悪を見つめながらの、生と死の考察は個人的な体験を、赤裸々に書かれているので、共振するのだ。
ここまで書かれるのは、やはり70を超えないと、という気が私なんかはしてしまう。私もいつかは何ともいまだ恥ずかしい、青春の日々やそのほかのあまり触れたくないことなども、さらりと書ける日々がやってくるのかもしれない。だが今はまだ煩悩に取り囲まれながら、あたふたとブログを書きながら、一日を生きながら、と考える。いきなりあの境地には行けない。とにかく自問自答しながら氏は学び続けているのだ。作家独特の感性での独学は、爪の垢でも学びたく思う。
つまりは、自分は自分でしかないということである、ということから逃れられず、そこから出発するしかないということである。そこで作家は書き、私は企画するわけである。
日高事務所の立ち上げ第一回企画は、土取利行さんによる・演歌の世界を秋にやることに決めました。ようやく還暦を機にして、自分の今後の企画者としてやりたいと思う、方向性のようなものが見えてきた気がします。今最も失われ、なし崩しになってゆく、日本人が大切にしてきた世界・心・(、私自身もいまだ知らない、学んだことのない)を、知ること・あえて書けば取り戻すこと、から始めたいのです。癒しや気休めの音楽ではなく、私自身が企画することにわくわくする企画をしたいのです。土取さんは商業主義に毒されていない、独自の厳しい道を探求している、芸術家です。その方が今この時代に、演歌に取り組むという、何故なのか、そのことに企画者の私は強く惹かれます。
何度も書いていますが、無名でも(日本で知られていないだけ、知る人は知っているけれど)素晴らしい仕事を(私のアンテナにかかる自分の世界を大切にしている)されているアーティストを日高事務所は企画します。
集客は大変ですけれども、これから5か月、私が書いた手作りのチケットを、これから行商するように、一枚一枚心ある方に、手ずから買っていただくつもりでおります。ローソンティケットでは買えません。
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