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2025-04-06

今朝起きて五十鈴川だよりを開いたら、谷口さんから3連発のコメントをいただき、有り難き春の夜の夢のごとし、なり。

 昨日新見の猪風来縄文美術館を訪ね、(午前9時前に着いた)打ち合わせを約2時間した後、猪風来さんご夫婦、瀬政さん、那須さん、私の5人で持参したお弁当で、和気あいあいの昼食を済ませ、岡山市内に戻ったのが午後2時であった。朝7時2分発赤穂線で岡山駅へ。瀬政さんが西口で私をピックアップしてくれ、一路新見を目指した。往復瀬政さんの車、彼が運転してくれた。(瀬政さん運転、ありがとう、ご苦労様でした)

風雪を、耐えて凪海、舞い降りる

岡山市内の天神山文化プラザで降ろしてもらい、私は6月22日の猪風来さんのトークのための会場を押さえるべくその足で事務所に向かった。あいにくすべての部屋が埋まっていたので、そのまま歩いて県立図書館に向かった。7年前リア王の発表会で使ったことのある空間が空いていればと願ったのだ。空いていた、よかった、すぐ手続きを済ませた。

猪風来さんの体が空いている日を押さえ、その日のうちに会場を押さえる。スムースに事が進んだことで、企画者の私としての心は一気に軽くなった。が、まだ春の日は沈まない。持参したスパイラルアームズのフライヤー200枚を、必ず置いてくださる、シネマクレールの浜田さんに直接お会いし、フライヤーを置いてもらえるようにお願いした。

浜田さんはニコニコと、いつものように応じてくださった。やはり眼力がある。岡山の中心部にシネマクレールがあるということは、岡山の誇りである。浜田さんは映画と言うものに、映画への愛に全人生を、いまもそそいでいる稀な方である。そのうつむき加減のたたずまいに秘めた底力、覚悟を想うとき、企画者のはしくれとしてエネルギーをいただくのである。

シネマクレールでのフライヤー配布を終え、岡山駅まで歩き赤穂線で西大寺の我が家に着いたのが午後5時近く。起きてから帰宅するまでおおよそ12時間、充実した疲れが体を浸していたが、またもや谷口さんから、心有り難きコメントが入っていて、あり得ない夕刻の五十鈴川だよりを打つということになり、結果ヨレヨレの体で打った。

そして今朝である。3連発のコメント。心にぎゅっと、グサッときた。14年目に入っている五十鈴川だよりだが、3連発でのコメントは、もちろん初めてである。オーバーではなく、実感する。このような稀な珠玉と言うしかない、宝石のようなコメントをいただくと、またもや老人はあらぬ世界に舞い上がるのである。ヒトは昔鳥だったのかもしれないね、という中島みゆきさんの詩が老人の頭に甦る。たぶんヒトは出会いと別れを繰り返し、刹那の人生に夢をみる。

もうこの年齢なので、お恥ずかしくも打つが、、、。だがやはり控える。今日は日没をできたら眺めながら、感じながら、ひとり谷口さんのお言葉にしたがって、凪海を呑みたい。

2025-04-05

谷口さんのコメントに想う、猪風来縄文美術館を訪ね、打ち合わせをした春の日の夕刻に打つ、稀な五十鈴川だより。 

 五十鈴川だよりにはいただくコメントが少ない。だからたまにコメントをいただくと本当に嬉しい。実は新見の縄文美術館に打ち合わせに行って、(瀬政さん、那須さんと4月30日に配布する、予告フライヤー、及び猪風来さんの縄文土器に打ち込んだ50年の人生を語るトークフライヤー2種類を作るための)帰ってきたばかりで、ぐったり疲れているのだが、谷口さんの頂いたコメントを読んだら、無性に何か打ちたくなったのである。

今日頂いたDVDのフライヤー

コメントに交通事故に遇われたことが触れられている。改めて想う。お会いしたのは一度だけ、あれから33年の歳月が流れたのである。おそらく誰にでも訪れたであろう時間の流れ、重みを想うとき、文字だけではなく、じっくりと改めて送られてきた焼酎【凪海】を飲んでみたくなったのだが、今のところまだ開封していない。

長くなるからはしょるが、先日我が家にステイした、小島京ちゃんと4月30日のハレノワが終わったら、我が家で祝杯をあげることにしていたのでそれまでは、凪海を味わうことは控えている。凪海は、私にとっては特別のお酒になってしまったのである。

であるが、今後いつまで飲めるかは別にしても、飲める間は谷口さんの造った焼酎を家では飲み続けたい。いや、飲む、だから、ささやかだが谷口酒造の焼酎を年に何回かまとめて注文したい。あわよくば、私の回りの焼酎好きにもPRしたい。

なにやら舞い上がっているかのような、老人五十鈴川だよりだが、ヒトは舞い上がれたり、動き回れるあいだに何事も思い付いたら吉日をモットウ、としている私としては私の心が思い付いたことに従うのである。

よしんばそれが現世の常識的通念とは乖離が甚だしくとも、感じるヒトは感じるし、わかるヒトは解るし、解らないヒトには解らないのだから。そういう意味では、今年は私の中の老いをより深く味わい、意識的に生きる老人元年として記憶に刻み付ける、エポックな年にしたいという老いのいい意味での欲望が、谷口さんのコメントで湧いてきている。谷口さんの造る御神火焼酎は名前が、今を生きる老人の私に火を灯すに充分である。

誤解を恐れずに敢えて打つが、ハレノワのスパイラルアームズが満員にはならなくても、もちろん満員にはなってほしいのはやまやまなれど、私のなかでは、どこか企画を引き受けた段階からなるようにしかならないという、どこかいい意味での諦念のような感覚が、ぬぐえなかったのは事実である。(うまく言えないが今という虚ろな時代を必死で生きているヒトはきっと反応する)

本番迄一人でも多く足を運んではほしいものの、どこか腹をくくってはいる、のだ。来られるかただけで、ハレノワの空間にえもいわれぬ熱が満ちれば足りるのである。谷口さん始め、濃い聴衆が駆けつけてくださることがハッキリしているからである。

この年齢にして、またもや何かを掴んだという実感が今の私の体を包んでいる。謙虚にこの感覚を育てれば、何か次の世代にバトンタッチできるような、プロデュースする側の意識の転換イベント、企画になる予感が今日も打ち合わせをしていて、体にわいてきたのである。ハレノワから秋の縄文美術館でのイベントにつながる流れを私は模索している。文章で思いを伝えるのは、やぶさかではないが、この五十鈴川だよりに実体を注ぐには、私の今現在の肉体が動いて事実を伝えるしか私には方法がないのである。                                 

2025-04-01

3月31日夕刻谷口英久さんから【凪海】とお便り届き心にぎゅっと春が一気にやってきた。

 昨日、谷口英久さんから【凪海】と言う素敵な名前の焼酎と、またもや谷口さん独特の文字のお便りが夕刻とどいた。極めて超個人的な喜びを、花粉症のせいなのか、鼻水が止まらず体調が悪いのだが、短くても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。




いちばん嬉しかったことは、きちんと今現在の五十鈴川だよりを読んでくださったことである。自分のことはあまり自分ではわからない。私のやっていることへの評価をこのような形で直さいに伝えてくださったことへのあまりの嬉しさである。そして直しも含めての谷口さんの直筆の独特さ。軽みと純粋さと子供心。思い立ったら、駆けつける粋な今時珍しい心意気。いい年をして、ハシャギ、妻にあきれられる始末。

今回の企画は、あらゆる意味での不思議な再会が続いているが、この谷口さんとの再会は、自分でも信じられないくらいの、意外な出来事のひとつとして、生涯の晩年の思い出の筆頭になることは間違いない。

何事も愚直に持続継続していると、ときおり神様が粋な計らいを与えてくださる。まるでお酒が発酵してなにか突然変異が内なるからだで起こったかのような喜び、これまであまり経験したことがない嬉しさなのである。今をとにかくがむしゃらに生きていて本当によかった。

最後に、何度か書いているが、自分の体、手で文字を書く、その人の文字の力である。こればかりは機械で書くような画一的にはゆかない、その人なりの全人格が自ずと出てしまう。もういいのである。自分の文字で遊び刻み引っ掻くのである、。自由自在、どこ吹く風、その日の風に身を任せ。いよいよこれからの時間は、遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、そのような仲間との時間を大切に生きてゆきたい。

2025-03-31

春3月末日、ひんやりした花冷えの朝に想う、五十鈴川だより。

 明日から4月である。先週で3月の労働を終えたので今日は労働はなし、だからというわけではないが、時間があるのでちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。すごく打ちたい日もあれば、打つこともない日もある。労働がない日のかなりは五十鈴川だよりを打っている。労働も大好き、五十鈴川だよりを打つのも大好きである。

今朝の我が家のチンチョウゲ
(でないと続かない)

夢が原で働いていたときは、【囲炉裏通信】を綴り打っていた。ブログと言う、昔にはなかったツールでいわば遊びはじめて(ささやかに発信しはじめて)そうとうな時間を日々の生活のなかで割いてきたことになる。振り返って読んだことがないので、今となってはどのような事を書いたのかもまったく思い出せないが、綴り打った事だけは確かである。

まるで日記と言うほどではないが、ささやかな個人史記録にはなっているのではないかと言う、自足的なエゴとでも呼ぶしかない何かが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

大船渡や岡山、今治、我がふるさと宮崎でも山火事が相次ぎ、ようやく鎮火したかと思えば、海の向こうのミャンマーでは大地震が起こって、阿鼻叫喚の報道が伝わる。高層ビルが崩れゆく様の映像はまるでこの世のおわりである。(果たして文明とはなんと無慈悲であることか)

毎朝のお務め、愛犬メル散歩を春のひんやりとした空気を吸いながら、ご近所の花ばなを眺めながら済ませてきたのだが、老人になってしまった私は、ただ平凡に暮らせていることの有り難みを、足りていることを芯からの感じられることの有り難みを、五十鈴川だよりに打つ。

大昔、テレビやインターネットとうの、つまりテクノロジーがなかった時代には、遠く離れたところでどのような悲惨な出来事が起ころうとも、知るすべがなかったのだから、知らぬが仏と言う言葉はあながち、むげにはできないほどに、ある種の真実をついているような気がしている。

情報に踊らされる。余計な情報が心を蝕む。欲望に火を焚き付ける。デジタルの発達で詐欺などの、あらゆる犯罪が巧妙かして、いつなんどき変な犯罪の片棒を担がされるか、とおもうとき、迂闊に家にかかってくる電話などには、もう私はほとんど出なくなっている。誤解されてもいいが打つ。限りなくでくの坊生活に私は憧れると言うことを、古稀を過ぎる頃から度々打ってきている。その傾向はますます強くなってきている。メメントモリ的時間をいきている、のだ。

新見の猪風来縄文美術館に昨年暮れから、度々訪れている。今年の秋の猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念イベントの協力を依頼されたことがきっかけではある。私のなかで、何か機が熟したとでも言うしかないタイミングでの本質的な再会がようやくにして叶ったとでも言う他ない。猪風来さんや奥さまよし子さんとの語らいの時間にとてつもなく気持ちがよいのである。

まるでふるさとの五十鈴川で、幼い頃の姉や兄と語らっているかのような、安心感安堵感に包まれるのである。だから私は度々縄文美術館にゆくのだと想う。何かおおいなるものに包まれる気持ちよさにひたり、充足し、現世的な欲望まみれ世界からの逸脱、エクソダス時間に身を委ねるのである。その事の気持ちよさを我が体はまだ失っていない。

現代世界をあまねく覆うかのような、えたいの知れない不安感、鵺的魑魅魍魎妖怪から逃れる心の安らぎの拠り所、トポスとして、猪風来縄文美術館はこれから必須の輝きを放ち続ける、だろう。


2025-03-29

長女の旦那さん(パートナー)レイさんからスパイラルアームズの公演企画に対して、昨日思いもよらぬカンパが振り込まれ、想う。

 先月長女のところに上京した際、娘は不在だったが、夜、交遊歴の長いM子さんにわたすべきものがあり、稲城のマンションまでわざわざ来て頂いた。レイさんは見ず知らずのM子さんを温かく迎えてくれ、わずかな時間ではあったが、M子さんも安心して打ち解けてひとときを過ごした。主に私とM子さんが話すのをレイさんは聞いていた。

机の前の3年前の写真、ミアは生まれていない

M子さんは、70歳から再開した私の大きな企画の全てを支援してくださっている稀な方である。夜中M子さんとお別れした後、なんとレイさんがお父さん私もカンパするので、口座番号を教えてと言われたのである。

私は兄や姉にはカンパをお願いしたことがあるが、娘たちにはお願いしたことはない。手がかかる子育て真っ最中である。そのようなレイさんが何故、私の企画にカンパをしてくれたのかを、縷々説明する気はない。ただ、生まれも育ちも世代もまったく異なる私とレイさん。娘がまだ大学生であった頃、我が家に娘がボーイフレンドが出来たと連れてきたのがレイさんとの出会いである。

10年前、レイさんと娘は旧東ドイツ、エルベ川のほとりの町レイさんのふるさとドレスデンで結婚式をあげた。私たち夫婦もドレスデンまで駆けつけた。それは慎ましくも素敵な結婚式であった。あれから瞬く間に10年、今、レイさんと娘には7才になったばかりの男の子ノアと、まもなく2才になる娘ミアがいる。

話は忽然とかわるが、娘がレイさんと結ばれ家族を成したことで、私のなかでいわく言い難いいやが上にもの変化が、今も続いている。その事を五十鈴川だよりで簡略に説明することは不可能に近いが、一言で言えばバックボーンの異なる歴史文化の男性を、娘が生涯の伴侶に選んだことで、我が家に日本風とはまるで異なる意外というほかはない新しい風が生まれ、その事が私にも、老いたりとはいえ、嫌でも日本風男の根本的な弱点を、私に突きつけたのである。

レイさんは全てにドイツ的な、(レイさんのドイツ)いわば自然にレイさんの流儀で何事も為してゆく。古い私のような戦前の親父の影響が抜けきらない男にとって、新しいというほかはないほどに、板についた男女平等を実践する。時に余りも自然で、脱帽してしまうのである。このようなことを打つと、親ばかの謗りを免れないのでこれ以上打つのはやぼ、控える。(レイさんが私の今の活動に寄り添ってくれていることへの感謝、このような男性を選んだ娘に感謝する)

娘が異国の男性を伴侶に選んだことで、ノアとミアは、ダブルスタンダードのバックグラウンドを抱え持つ、宿命人生を嫌でも歩むことになる。がその事をまったく私は案じてはいない。どのような人生であろうと、ヒトは生まれ落ちた宿命を生きるのである。

彼らが大きくなるまで、私が見届けられないかもしれない。が、案ずるよりも産むが易し、を私は選ぶ。その方がずっと実りがあることを、私はこれまでの73年の人生で学んで来た、からだ。(ノアとミアは困難をきっと乗り越えてゆくのを見守りたい)

娘とレイさんが出会って十数年で、新しい命が生まれ新しい家族の営みが一瞬の休みもなく形作られてゆく、生命の輝き連鎖、その行く末を見届けはしたいが叶わぬ。それでいいのである。だから私は五十鈴川だよりを打つ。いつの日にかほんの一部分でもいいから五十鈴川だよりを読んで貰えればいいのだ。見えなくなっても宇宙の塵となってでも見守れるのだから。

五十鈴川だよりに、スパイラルアームズ公演のカンパのお礼を綴り打ちます。レイさん😆💕✨ありがとうございます。




2025-03-27

伊豆大島で焼酎造り酒蔵を営む、谷口英久さんがスパイラルアームズの(30日)公演に来てくださいます。そして想う。

40歳で 中世夢が原で働くことになり、当時妻と3才の長女と東京から岡山に移住、企画者の端くれとなり61歳で退職するまで働き、紆余曲折70歳で再び企画を再開、今年4年目の企画は土取利行さん率いるスパイラルアームズであることは、繰り返し五十鈴川だよりに綴っているので、読まれている方はまたかとお思いの方も、おられるかもしれない。

老人は繰り返し同じことを語り続ける。私は老人である。繰り返し念仏を自分のうちなる闇に向かって、唱えるかのように五十鈴川だよりを打つ。とにかく新しい、今日一日を気持ちよく過ごすために、貴重な老人ライフの充実に努めながら生きている。

谷口さんの年賀状と暑中見舞葉書

もう企画をすることも(引き受けることも)ないだろうと思っていた矢先の昨年11月、土取さんからの依頼で、スパイラルアームズ、岡山公演の企画窓口を引き受ける、はめになった。そのことで、私の生活は、老人である事を暫し忘れ、時が逆回転したかのような生活を余儀なくされている、といっても過言ではない。

何事にもことが動くには、奇縁、タイミングと言うものが大きく作用すると言うことを知らされる。意外な、予期せぬ出来事が次々に出来する。依頼が土取さんでなかったらまず引き受けてはいないし、覚悟して引き受けたからこそ、意外な再会や、予期せぬ展開がもたらされる、としか思えない。そのことの不思議を、五十鈴川だよりに打ちたくなる。(のだ)

長くなるので簡略に打つが、伊豆大島で家業を受け継ぎ、焼酎造りに情熱の限りを尽くしておられる、谷口英久さんと面識を得たのは中世夢が原がオープンした1992年であったと記憶する。爽やかな方で何故かうまがあい、5年近く、お年賀や暑中見舞をやり取りする関係が続いたがいつの間にか、関係性がとおのいていた。

昨年から私は、身の回りの今となってはお荷物の本や、CD、レコード、チラシポスター、資料、衣類等と共に、数十年保管していたお手紙や葉書、年賀状などを、いまもゆっくりと手放している。だが、どうしても手放せないものがやはりある。

娘たちからもらった手紙や、兄や姉からの葉書手紙、分けても友人たちからのお手紙、年賀状には私の交友録、出会いの縁、妙、人生がつまっている。この数年毎回これが最後の気持ちで企画をしている。谷口さんの、あの懐かしくも素晴らしい年賀状は私が生きている間は手放せない。(のだ)

久方ぶりに年賀状にみいっているうちに、急に私はたった一度しかお会いしたことがないその谷口さんの住所宛に方に、今回の企画のカンパのお願いの一文のはいったおたよりを厚顔を省みず送りたくなった。なぜ送ったのかはわたしにもわからないが、きっと元気なうちにもう一度会いたいという気持ちが、そういうアクションになったのだ。

後日、突然カンパを振り込んだというお葉書を頂いたときの私の嬉しさは、格別という陳腐な表現しかないほどに、じわーっとからだの芯からの嬉しさが込み上げてきた。まさに偶然の思い付きが思いも及ばぬ結果を生む、事実の重さに祝杯をあげた。

私はカンパのお礼に、猪風来さんの本、ご子息原野さんの絵本等と共に、今回のフライヤーと一文を添えて送ったところ、またもや先日、ハレノワでのスパイラルアームズの公演にやって来るとのお葉書を頂いたのである。私よもやまさか伊豆大島から来ていただけるとは。青天の霹靂の嬉しさ、思わず私はインターネットで谷口酒造の電話を調べ、お電話した。

女性の方が出られたので御礼を伝えたら、すぐに折り返しご本人から私のケータイにお電話を頂いた。声はまったく変わっていなかった。名状しがたい感情に襲われた。一気に空白が埋まった。まるでドラマだが事実である。

スパイラルアームズ公演の企画を引き受けなかったら、33年ぶりの再会は実現しなかったにちがいない。折り返し後半の人生、企画者の端くれとして再出発して33年、今回の私のエネルギーを支えているのは、これ迄の交友録で関係性が途切れずにいる友人たちのおかげである。現時点での私の人生の集大成の企画といっても過言ではない。が、これで終わりではない、その事を谷口さんや京ちゃん、今回私を支えてくださる宝石のような面々から教えられている。(人生の奥の深さを)


2025-03-24

40年以来の古き友人が、一泊二日の岡山にやってきて我が家にステイ、縄文美術館を案内しました。

一昨日土曜日お昼から、昨日午後3時半まで 小島 京志さん(以下京ちゃん)が、わざわざ岡山まで来てくれて、有意義な時間を共に過ごせたことのありのままを、ほんの少しでも記憶が新鮮なうちに、記録的に綴っておきたいと思う。

一昨日午後2時に岡山の県立美術館で私は京ちゃんと待ち合わせた。京ちゃんはお昼前に岡山について柚木沙弥郎展を見ていた。私はその間約300枚のスパイラルアームズのフライヤーを岡山駅、県立美術館エリアの、カフェやショップに久しぶりに配布した。

猪風来さんと京ちゃん

午後2時、落ち合ってからは、歩いてハレノワを少し見学した後、30日の公演後の打ち上げのお店探し等を、京さんとともにし、手頃なよき店を店を見つけることができた。

そのお店の開店が午後5時だったので岡山駅に近い居酒屋で、約一時間軽く再会の乾杯をしてから、打ち上げのお店に移動、腰を落ち着けて語り合った。

2時間お任せ4000円コース、飲み放題を二人で注文、去年の暮れ以来の久方の、飲み食べ語りあいのよき時間を過ごした。男同士、古稀を過ぎての語らいは秘密の森に分けいるかのように妖しい展開を帯びて、切なくも面白かったことをきちんと打っておく。最後美味しい日本酒の店でしめ、午後8時半過ぎの赤穂線で西大寺へ。春のよる。ほろ酔いおとこふたり、家まで歩いた。裏方企画者は仲間も歩く。京ちゃんはタフである。

ほんとうに久しぶりに私は酔い、家でも京ちゃん持参の高級な焼酎を飲んだら、あっという間に睡魔が来た。妻もわずかな時間、京さんと語りあえたが、午後10時にはお開き、私も京ちゃんも嬉しき睡眠世界へ。

昨日日曜日は6時におきてすぐに買い出しに行き、妻のおもてなし朝食を済ませ新見の縄文美術館に向けて8時に出発、10時半に着いた。京ちゃんは、11時に10人ほど事前に予約して訪れた団体の方たちと共に、猪風来さんのお話を聞きつつ、縄文美術館の展示作品に先入観なく見いった。

私はその間、初めて奥さまのよし子さんと二人でお話をする時間を持てた。なんと原野さんの幼少期の写真を見せていただいた。宝のお写真のかずかずに寸暇見いった。まさか写真を見せていただけるとは思いもしなかったので、素直に私は嬉しかった。

団体の方たちが、じっくりと作品にみいっている間に、4人で(猪風来さん、よし子さん、京ちゃんと私)おむすび、サンドイッチ、リンゴをつまみながらお昼。食後よし子さんがいつも熱いコーヒーをいれてくれる。

食べながら秋のビッグイベントについて猪風来さんは語り続ける。当初、秋に向けての打ち合わせ時間は、とれないと思っていたのだが、限られた貴重な時間のなかで、とりあえず、4月30日当日配布するフライヤーと、それまでに【猪風来、我が縄文土器造りに捧げた人生50年間を語る】(期日未定、タイトルも仮題、私が考えた)を4月26日までに作ることを決めた。そのフライヤーはスパイラルアームズのフライヤーを創ってくれたN氏依頼することにした。

午後1時半、縄文美術館を後にし、15時半京ちゃんを岡山駅まで送り、福岡に帰る京ちゃんとは一月後の再会、固い握手をしてお別れした。丸一日以上密度の濃い時間を過ごした。私の体は最高に喜んでいた。岡山から縄文美術館往復の車中京ちゃんとは、またもやいろんな話が出来たし、よき思い出ができたことを、五十鈴川だよりに打てることが嬉しい。

なによりも我が古き友人が、縄文美術館にいたく感動したことが、案内したものとしていちばん嬉しかった。言葉少なく圧巻の縄文美術館といってくれ、春のハレノワ、に続いて秋の縄文ビッグイベントにも裏方として仲間として加わったことのありがたさは、例えようもない。お互いに、この年齢ではかなりの強行行動ではあったし、なり疲れたが、疲れが全て吹き飛び、満たされた。

京ちゃんの滞在時間は、一日とちょっと、そばにいてくれ、ただ私の話を受け止めて、次々と裏方としてポジティブなスパイラルなアイデア、提案をしてくれる。配慮の人、大人である。おそらく京ちゃんがそばに居なかったら、私の頭もフル稼働はしなかったと想う。小島京志さんへの真摯な感謝を五十鈴川だよりにキチンと打っておく。