6月22日の朝である。昨日、今日の猪風来さんの【縄文芸術人生を語る】については五十鈴川だよりで打ったににもかかわらず、蛇足であれなんであれ、朝の時間他にはやりたいこともなく、簡単な準備は昨日のうちに済ませているので、何か打ちたいという老人妄想五十鈴川だよりである。
オシント情報(オープンソース)のみで、ほとんど表面的、一方的なニュースを受けとるばかりで、世界の複雑怪奇なあちらこちらでの出来事に関しては、もうまったくうんざりしているというのが、老人の偽らざるおもいである。(イスラエルのイラン核施設への突然の一方的な攻撃は、遠い島国の老人をも、気持ちを萎えさせる)
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村上原野さんの縄文造形作品 |
さて、梅雨のこの季節にしては、異常気象という言葉の虚しさを感じるほどに、日中の陽射しは老人の我が体にはきつすぎる。がしかし、ぼやいてばかりではよけいに虚しい。そのような陽射しを浴びながら、今週もなんとか労働し、日々をやりくりし猪風来さんのトークライブの日の朝を迎えた。ちょっとうきうき、企画を発案したものとしては嬉しい。
今のところ25名の事前申し込みがある。先日レディオモモ(FM)で事前申し込みはしなくていいので、関心があるかたは当日直接いらしてくださいと、私が話したので、効果があることをねがっている。がしかし、昨日も打ったが、25名来ていただけるだけで、私としては充分にありがたく嬉しいのである。
心からやりたい企画が私の足を動かす。ゆっくりしか歩けず、今や走ることは不可能な我が体ではあるけれど、確実に歩を進められる。そのことの老いの醍醐味の気付きの深まりをかろうじて我が体は感じている。老人は時代に置いてきぼりにされる。私自身にそのような自覚がある。だが、置いてきぼりなりの企画がやれる。仲間もいる。わたしは元気に今を生き存在している。
そして、なによりかにより、猪風来さん御夫妻に(このお二人は2卵生双生児であるかのようである)なにやら本質的に、この年齢にして出会えたことの偶然的な必然の恵をかみしめている。お二人が放つ、縄文世界の豊かさのオーラを以前にもまして感じる。
感じる。うきうき、そわそわ、文字のない縄文時代に思いを馳せるとき、なんという天然大自然のなか、日本列島に奇跡的に出土した縄文時代の一万年にも及ぶ長きに花開いていた空前絶後の文化をお二人から教えられる。自由自在にその土地、風土、環境の中で命の讃歌を土偶や器に魂をこめていたのかと。老若男女、畏怖し、感動し、悦び、全身で創る。邪念のかけらもない。
気の遠くなるほどの豊かというしかない縄文時代にとりつかれた猪風来さん、さてもさても、今日は暫し企画者であることを忘れ、猪風来さんのお話に耳を澄ませたい。