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2025-07-06

猪風来縄文美術館に出掛ける前の五十鈴川だより。

 今日は、ほぼ3週間ぶりに、現在猪風来美術館でひらかれている縄文スパイラルアート展に出掛ける。午後1時からギャラリートークが行われるので、ちょっとその場に居合わせたいと思っている。猪風来さんのお弟子さんたち19名の縄文アートを虚心に作品に向かい合いたい。

正直、昨年秋、猪風来さんからの一本の電話をいただくことがなかったら、こんなにも猪風来美術館に足しげく通うことは無かったかもしれないと考えると、ある種不思議な気持ちに襲われる。事実として猪風来美術館に出掛けることが、うまく説明できないのだが、どこか愉しいのである。

何故楽しいのかは、私にも深い自覚をもって説明することは不可能である。猪風来さん、よし子さんとの何気ない他愛もないやりとりが気持ちが良いのである。また猪風来さんの縄文創作年代作品に、取り組みこめられた思いの丈、その深さ、ご子息原野さんの作品について語る愛情というしかない思いに打たれるからである。何度聞いても新鮮で面白い。(あまりにもの愚直なまでの一途さに、縄文人が忽然と現れてきたのではないかと、ときに思えるほどである)

私のように絶望的に現世に染まった俗物にとっては、それを洗い流す、物言わぬ五十鈴川に通じる、大いなるものに包まれている安堵感を覚えるのである。そのような大人(たいじん)傑物から、20周年の企画の応援を頼まれるなんて、意外性の極致、その事実にとまどいつつも、企画者として関われる嬉しさが、私にくりかえし五十鈴川だよりを打たせるのである。

おおよそ、あと4ヶ月とちょっとで10月12はやって来る。明後日7日七夕の日に、5月27日以来のミーティングも開かれる。本番当日まで、何が自分に出来るのかを草刈りしながら、五十鈴川だよりを打ちながら、知恵を絞って考えたい。

今日は瀬政さんの車で行くことになっている。瀬政さんは私とは異なったスタンスで、縄文世界に深い関心を寄せている。フライヤーを創っている(デザイン一切)那須さんも強力にボランティアしている。それに吹屋の地元を深く愛する大場さん、今のところこの4人が黒子として熱く参集している。

妻丹精、マンドリアの花

私としては当日も含め、この倍以上の積極的な、自分の人生とどこかでクロス、接点の火花が散るような人材ボランティア、我がこことして動く(うごける)人間を求めている。これまで様々な企画をして来て、いつもほとんど個人的に信頼できるかたに、ご無理をお願いしてきたが、今回ももちろん、お願いするつもりである。

プラス、意外な人が加わることを私は望む。黒子に徹する喜びを味わいたいのだ。黒子の力で、より記憶に残る20周企画イベントになるようになるように。

猪風来さん家族が生涯を賭して発見した縄文土器造形世界の空前絶後のイベントを実り豊かに終えるためには、肝をわって話し合い、有意義で用意周到なミーティングを重ね(あと5回は必要な気がする)冷静に細部を詰めてゆかねばならない。

2025-07-05

猛暑の最中、熱中症対策、チビリチビリ本を読み、がまのあぶら、汗をかき新陳代謝を心がける。

 7月に入り2回めの五十鈴川だよりである。新聞購読を止めてもう一年以上になる。瀬政さんや、河合さんから、折々これはという記事を転送してくれる友人がいるのでとても有難い。昨日も瀬政さんが、猪風来さんや、セバスチャンサルガドの記事を送ってくださったので、読むことができた。

話は変わるが、私は日々飛び込んでくる様々な情報に正直うんざりしている。だからなのである新聞の購読を止めたのは。50歳を過ぎる頃から折々目についた、記事や書評を切り抜く作業を、我ながらよく続いたとおもうが、ノートに切り抜いては貼り付けていた。そのノートは棄てられず、数十冊今も手元に置いてある。

真面目に考える。新しい記事もさることながら、こ

元気が湧いて来る本。

れら切り抜いた古い記事の方が、今を生きる私にとっては、限りなく面白く有益であったりするのである。もう日々のニュースソースよりも、過ぎ去った(おなくなりになった)方々の記事などの方が、今の私には活が入るのである。

おそらく、猪風来さんのお仕事や、(猪風来さんは現役バリバリである)セバスチャンサルガドの仕事は、これからの私の人生の持ち時間をいかに生きて行けば良いのかの指標になる。先日故郷に帰省し、何時ものように五十鈴川の畔で過ごした82歳の姉との時間の有り難さは、言い知れない。

この世での、姉の今現在の様子が、一枚の五十鈴川での写真に撮れたことがただよかった。セバスチャンサルガドが亡くなったのは、今年の5月、82歳である。姉だっていつ天命に召されるか分からないし、人は皆母なる大地、宇宙へと還ってゆく摂理を生きるしかない。

と、ここまで打って論旨がまとまらなくなってきそうなのだが、あえて打ちたい。今回の五十鈴川帰省旅で、初めて姉兄と現世で会える時間が有限であることを実感したのである。その事で、五十鈴川の、日向灘のあまりものすばらしさを、お金ではとうてい買えない、大自然のただ行けば、いつもそこに在る恵みの偉大さ(どのようなテーマパークもかなわないのだ)に気付き、茫然とし、打たれたのである。

ところで故郷への帰省旅のお伴に、たまたま図書館で見つけた【マーク、ボイル著、ぼくはお金を使わずに生きることにした】、2011年発行の本を持参し、チビチビ読み進めこの猛暑のなか、昨日読みおえた。

当時30歳のマーク、ボイルが一年間お金を使わずに生活した、貴重極まるこの現代消費文明生活のなかでの、奮闘実践記録のレポートである。【世界を変えたければ、まず自分がその変化になりなさい】マハトマ、ガンディーの言葉に深く揺る動かされた彼は実践する。その一心不乱なあまりもの実戦力は、老人の私にも届いたことを、五十鈴川だよりに打たずにはいられない。

そのあまりにも、がんじがらめ欲望消費がた資本主義(つぎつぎ新製品で人間の欲望に火をつける)世界に放り込まれた人類の行く末に絶望した若者が、脱出する方法、終わりなき試行錯誤のリポートである。私が感動したのは、太陽光で古いパソコンを使いながら、このインターネット時代のなか、人類がいかにこの惑星地球の恵みを、人類がシェアしてゆくのか、ゆけないのかを、問いつづけていることである。

五十鈴川はただ流れている、小倉が浜の波は寄せては引く。黙して語らずである。限りなく与えるだけで人間を気持ちよくさせる。大いなる大自然はときに人間をうちのめす。セバスチャン、サルガドは晩年黙して語らず、ふるさとの土地を甦らせる。400年以上も前、ハムレットは後は沈黙、といって死ぬ。

とりとめなき、今朝の五十鈴川だよりになったが、この猛暑のなか、何とか一日一日働き、生活しながら、この世に生を受けた存在のひとりとして、五十鈴川の声なきこえに耳を澄ませ、心穏やかに暮らす、お金に振り回されない、生活の探求を実践したい。

2025-07-01

7月1日、夕刻打つ五十鈴川だより。(あの世には、もってゆけない、五十鈴川)

 昨日夕刻岡山に戻った。そして今日労働バイトに復帰、夕刻いつもの自分の机に座って五十鈴川だよりをちょっと打っておきたい。

今日から7月、すごい暑さのなか無事に労働できた喜びが、五十鈴川だよりを打たせる。もう何度も打っているから、もうほかには打つことがないのかと言われそうだが、もうほかには今日はなにもないのである。

兄姉の家から歩いて、8分位のところにある駅

30分も草刈りをしていると、この痩せた体から汗が吹き出る。一時間ごとにTシャツを着かえ、水分補給や塩分の補給をする。自分で言うのもなんだが、この年齢でこの数年の気候変動の真夏日、お昼までとはいえ(午後も働くときもある)働きながら、五十鈴川だよりを打とうという気持ちになることが、自分にしかわからないささやかな喜びなのである。

話を変える。今回の4泊5日の帰省旅は、いつにもまして、いい旅になったという実感、喜びが五十鈴川だよりを打たせる。それはこの年齢にならないと、実感できないというしかない、当たり前の生活の素晴らしさを以前にもまして気付きの深まりを、体感したことである。その事さえ打てれば、今日の五十鈴川だよりは終わりである。

が、もうちょっと打つ。何故こうも私は、一年に何度もふるさと五十鈴川の向かうのか、その答えが、今回具体的に分かったのである。それはお墓参りはもちろんだが、そして姉や兄の存在が大きいこともさることながら、やはりいつも私の帰郷を自然に温かく迎えてくれ、毎回心のこもった手料理で迎えてくれる義理の姉の存在がなかったら、やはり私の足はこんなにもふるさとに向かうことはないであろう。その事を五十鈴川だよりにきちんと打たずにはいられない、のだ。

ところで、今回五十鈴川だけではなく、珍しく日向灘のおくらが浜に夕刻行ったのだが、これが本当に、’久しぶりに行ったのだが、この海の砂浜の素晴らしさが、改めて体に深く刻まれたことを、なんとしても打っておかねばとおもう。

私が生を受けた、門川町の素晴らしさが、いよいよもって人生の持ち時間が、すくなるなるにしたがって、染みてくるようになってきたこと、きちんと打たずにはいられない。姉や兄の家のそばが、門川中学校でいくら少子かで、子供の姿が少なくなってきたとはいえ、今回も私は門川の中学生たちを何気なく見かける度に、ホッとした。なんとはなしに門川の子供なのである。うまく言えないが、皆可愛い。

そのような我が町にたった3泊しただけなのであるが、単なる観光旅行とはまるで異なる、ふるさと旅の有り難さを、随所に感じる旅となったことを、その有り難さをきちんと打っておく。

交通費と食事代、位でかくも豊かな旅ができる我がふるさと、五十鈴川の湖畔に位置する私にとっての宝のような町の事を、かくも偏愛する私の性をお許し願いたい。こればかりは老いてみないとわからない境地である。

ともあれ、これから今年後半に向かうエネルギーが五十鈴川への旅で充電されたこと、その喜びを打って本日はこれにて。

2025-06-30

今日夕刻岡山に帰る、その前に小島京志さんの2階の私が寝た部屋の机で打つ、五十鈴川だより。

 6月30日午前10時、私は今福岡は春日の小島京志さん、京ちゃんの家で寸暇五十鈴川だよりを打っている。昨日日向市発8時56分の特急でふるさとを後にし五語1時28分博多に着いた。なんとホームまで京ちゃんが迎えに来ていた。とも遠方より来る、有り難くこの事実は書いておきたい。

二人でお昼にかこつけて、早速約2か月ぶりの再会を祝し、ビールを飲んで、博多らしい駅地下の居酒屋で、鰹のたたきや、目光のフライ(あげたてでサイコーに美味しいかった)などなどいただいた。その店でお腹も気持ちも満たされ、在来線で博多から3つ目、京ちゃんの家がある大野城駅で降りると、パートナーのKちゃんが車で迎えに来ていた。

Kちゃんが撮ってくれた、感謝。

パートナーのKちゃんとは10年、もっと会っていないかもしれないのだが、記憶のなかのKちゃんとほとんど変わっていなくて、スーっと久方ぶりの小島家のリビングの雰囲気(Kちゃんの美意識て統一、洗練されていている)にも馴染む私がいた。夕刻一番先にお風呂をいただき、リラックスしていると、京ちゃんは4月30日のライブの写真をDVDに落とす(私が着いてすぐ頼んだ、私はパソコンを持っていないので)作業をたんたんと進めていた。Kちゃんはもくもくとお料理を準備していた。

午後6時半Kちゃんお手製のお料理が次々出てくる。前菜、(山芋のスライス、もづく、ほかにも)餃子(手作りでジューシー、韮の香りが、)桃とモッツァレラチーズのサラダ(意外性の極致美味しかったです)、スパゲッティはズッキーニのお花つき、Kちゃんは洋風料理が得意で、義理の姉の登紀子さんは和風が得意、今回の4泊5日の帰省旅の最後の夕食はkちゃんの手料理で、私としてはもうなにおかいわんや、今年の前半を締めくくる最後の夕食を京ちゃんの家で、Kちゃんのおもてなし手料理で締めくくれ、言うことなし。

記録として飲み物も書いておこう。ビールで始まり、シャンパン、そして焼酎を私はいただいた。小島京ちゃん、Kちゃんとの出会いは、桃山、土取さんのワークショップに参加して以来だから、もう35年くらいになる。テクノロジーの発達、人心、世相の変化の目まぐるしさのなかで、長きにわたって、関係性が持続していることの事実の重みは、私を幸福な気持ちに誘う。

さて、ゆっくりと愉しく美味しく夕食を終え、ドリンク歓談タイムへ。その歓談の合間も、京ちゃんはDVDをダビングし、結局10枚も。このようにマメで、無償でテキパキと私の出来ないことを、サーっとやってくれる京ちゃんのことを、有り難うと、五十鈴川だよりに打つことくらいしかできない。結局午前0時過ぎまで、京ちゃんと私の貴重な語らいはつづいた。

今朝は7時過ぎに起きたら、すでに京ちゃんは仕事に出掛けていた。すぐにkちゃんがオムレツとトーストの朝食を用意してくれ、低いテーブルの半分を持ち上げるとなんと座って楽に食べられる食卓となるすぐれもの。二人で並んで朝食をいただいた。Kちゃんとご亭主が出掛けたあと、並んでユニークなテーブルで二人で朝食をいただいた事、五十鈴川だよりに打っておかなくては。ティファニーで朝食を、ならぬ小島家のリビングで朝食をである。

話は続く、朝食を終え、なんと二人でネットフリックスでKちゃんお薦めの、【ラッキー】という韓流映画を観たのである。その事も書いておかなくては。kちゃんがソファーのボタンを押すと、なんと緩やかなベッドになったのだ。小島家でのリビングでの予期せぬ朝食後映画鑑賞のひとときは、帰省旅の白眉として打っておく。

これから、仕事を半ドンで切り上げてくれる京ちゃんと博多でお昼をしてから岡山に帰る。今回の旅の総括は、岡山にかえってしばらく後に、ゆっくりとかくつもりでいる。(小島夫妻への感謝を五十鈴川だよりでお伝えします)

2025-06-28

6月28日、五十鈴川に近い、日向市のマクドナルドで打つ五十鈴川だより。

 兄の家で土曜日に朝を迎え、姉の登紀子さんの美味しい朝食を済ませ、門川にはワイハイの飛ぶところがないので、以前帰省したときに利用したことのある、日向市の入口にあるマクドナルドにきて五十鈴川だよりを打っている。

姉と私の五十鈴川遊び

ざっと昨日の過ごし方を打っておく。五十鈴川だよりを打った後持参した本、すぐに読める河合祥一郎先生のシェイクスピア名言集を兄の家で読み、お昼を兄と義理の姉と私の3人で、延岡のおぐらという店まで食べに行った。チキン南蛮が有名なお店で、3人ともそれをいただき、私だけトッピングでハンバーグを頂いた。兄はノンアルコールビール、私は朝日の中瓶をのんだ。満足した。

戻ってお昼寝を3時過ぎまでして、それから姉を誘って二人で念願の五十鈴川に遊びに行った。姉はまもなく82歳、数年前長いこと足首の痛みに悩まされていたが、数年前思いきって手術をしてそれが成功し、いまでは痛みがなく、スムースではないものの、生活には不自由しない程度まで歩けるようになった。私が五十鈴川に誘うと、予期していなかったからか、ゆくゆくととても嬉しそうであった。

兄の家から車でものの10分もしないで五十鈴川に4時過ぎに着いた。長い夏の日の夕刻だが、充分に明るい。我々のほかには誰もいない。老人の私と、老婆の姉の二人である。鴬の鳴き声が聴こえると、姉は童心に還ってきゃっきゃっとはしゃぐ。いくつになっても三つ子の魂の持ち主である。わけいってもわけいっても山野の緑が眼前に広がり、私と姉を慈しむかのように包み込む。

私は登紀子さんが用意してくれた水着に着かえ、五十鈴川に入る。全然冷たくない。深くないところを対岸まで歩いた。姉も日傘をさして足を水に浸けて、メダカが足をつつくと騒いでいた。よもやこのようなひとときを姉と過ごせるとは、予定しなかったので、誘ってよかったと、私は満たされた。だからこのような老いた弟と姉のつかの間のひとときを五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

最後私は泳いだ。まだ泳げることを確認した。来年の夏は泳げるかはわからないが、今年は泳げた。人の体力は千差万別、私のモットーはヒトとは比較をしない。自分は自分の人生を、ただひたすら肯定的に生きる。この頑固なまでのポジティブさ、人様に披露することはないのだが、こういうもののみかた、考え方は、ひとえにシェイクスピアの聳え立つ作品群のなかの登場人物の台詞、言葉からまなんできたことである。

話がそれた。短い時間ではあったが、姉と五十鈴川で水遊びに興じることができ、その事を五十鈴川だよりにきちんと打つことができて、ただ私は嬉しい。この30年でデジタルライフにまるで置いてきぼりになっているかのような、暮らしぶりではあるが、少なくともこの数十年、毎年のように、私は時折帰省しては、姉とのささやかな再会を慈しみ楽しんでいる。姉もまた私の愚弟ぶりを俳句に詠んだりしてくれる。

戦争の爪痕が、微かに残る戦後昭和の、田舎の幼少期を、共有生きた姉や兄たちは、今となっては、かけがえのない人たちであると歳をふるごとに思い知るのである。赤ちゃんの一年ばかりがすごいのではなく、老いゆく一年もまた、時間は同じ、素晴らしいのであるとの認識を私はもつ。

戻ったのが5時。午後6時神田川と言う名の門川では唯一の人気のお寿司屋さんに二人の姉、兄、私の4人でゆき楽しい夕食時間を過ごした。もどってすぐわたしは横になった。そして今朝まで約10時間私は夜中トイレに一回起きただけで、ひたすら寝た。この半年間の岡山での疲れが緩やかに吹き飛んでいった。


2025-06-27

昨日ふるさと帰省、五十鈴川に程近い、門川町新庁舎で打つ五十鈴川だより。

 昨日から200日ぶりくらいにふ、るさと門川は兄のところに帰省している。ふるさと五十鈴川だよりを門川町の新しい役場のロビーで打っている。兄のところにはワイハイが飛んでいないので、役場に勤めている若いかたがあっという間に設定をしてくれたので、打っているというわけだ。

生と死を、梅雨空感謝、五十鈴川

家にいても、小さな旅に出掛けても、五十鈴川だよりは今や私にとっては、日々の生活の活力根源とでもいうほかはないほどに、必須なので、意味もなく何ほどかの文章がつむぎだせれば満足なのである。昨日はお昼過ぎに日向市駅について、若山牧水の生家に近い、道の駅で兄と手打ちそばを食べ、ついでに道の駅で地元の食材を義理の姉のおみやげに買い求め、午後2時過ぎ兄の家に着いた。

姉の登紀子さんが、買い求めたトウモロコシをすぐにラップに巻いてチンしてくれたのを、兄と共に頂いた。兄は腎臓ガンを患ってはいるのだが、あれから4年近く生き延びていて、トウモロコシを2本キチンと平らげていたのには、驚くと共に安堵した。

夕刻まで暫しゆっくりとお昼寝をし、16時半、登紀子さんお手製の夕飯(スズキのお刺身、煮物、おみそしる、等々、ふるさとの味、格別であった)をいただき、食後は兄や姉と歓談しながらのんびりと過ごした。今朝は朝一番、兄とお墓参りに行き、墓前にあれやこれやの儀式、報告をした。いつものことだが、ほっとする。もどって朝食(ニラ玉、トーストコーヒー、すいか、大満足)をいただき、門川町役場まで兄に送ってもらい、五十鈴川だよりタイムというわけだ。

私が73才、次兄が76才、長兄が79才、姉が82才である。この数年打っている。毎回これが最後の帰省になっても悔いのないように、私としては帰っている。幸い身の回りのことを、キチンとこなしながら生活しているのを、今回も確認でき、こうやって五十鈴川だよりを打てる小さな幸せを噛みしめている。やがては当たり前、お別れがやってくる摂理を受けとめねばならない。だがしかし、生きて元気な間は、ふるさと詣でを限界までやりたくおもう私である。

この惑星に、生を受けた場所、原点に回帰、過ぎし来しかたを、ふるさとの海山川草木の風景の中で、思いを馳せる時間は、いよいよのこれからの人生はなはだもって大切なひとときなのである。だからこそ、ほんのわずかな時間ではあれ、思いの欠片を、綴っておかねばと、おもうのである。

目に見えるふるさとの風景は、激変しているが、五十鈴川ほか、海に浮かぶ無人島、乙島、山並は不変である。普遍な風景にふれると、我が心は満たされるのである。【梅雨さなか、お墓参りや、五十鈴川】写真はお参り手を合わせる兄、私も撮ってもらった。本日はこれにて。

2025-06-23

昨日猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を終え、思う夕刻の五十鈴川だより。

 昨日夕刻午後4時半、猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を無事に終えることができた。正直何か打たねばとの思いはあれど、体が(それでも午前中働いた)この湿気と暑さのせいで、モワーッとしていて思考がまとまらない。

だがしかし、そのような私の体ではあるのだが、打てばかいろのひよりあり、短くてもいまの心境を綴っておかねばと、我が煩悩体がささやくのである。いまもあの、猪風来さんが高揚して、時に老いた獅子が吠えるかのような絶唱とでも言うしかない声が、私の体に渦巻いている。予定を30分もオーバーし、77歳の猪風来さんは水を飲むのも忘れて、2時間半立ったまま語り続けた。(関係者見含35名の人がお話に聞き入った)

縄文世界にとりつかれて50年間の、苦難のまさに激闘の歴史という他はない、貴重極まるお話の、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたいとは思うものの、いまの私の体調では無理である。ただ事実として映像記録(瀬政さんと那須さんの尽力による)が遺ったことが、企画を立案したものとして一番嬉しい。

私が挑んだ企画は、これまでほとんどがライブ音楽会や一人芝居であり、初めてトークライブ(単なる講演会の枠を猪風来さんのトークは超えていた)を企画したのだが、やるのだと決めさせたのは、猪風来さんのもつ唯一無二の、あまりにも一途、純粋無垢なその存在力の魅力である。

原野さんの小説、冬じっくり読むつもりです

このような傑物芸術家の存在を一人でも多くのかたに知らしめることが、企画する醍醐味なのである。40才から企画を始めて、企画を実現することで、振り返ると幾ばくかの取り組み実現した仕事の思い出が、我が体には記憶の宝としてのこっている。自己満足であれ何であれ、一番新しい企画として、猪風来さんのトークが加わったのである。素直に名誉である。

今は実現したばかり、’疲れはてているが、この老いたからだはきっと次なる企画を産み出しそうな予感がする。少しの夏休みの後、秋の20周年記念イベントに向かうことになる。

さきのことは皆目分からないにもせよ、猪風来さんご夫妻の回りには素敵な仲間がたくさんおられることを、今回知ることができたし、何よりも新しい未知なる世界を知り、小さな企画で大いなる気付きを頂いた気がしている。いずれにせよ猪風来さん、村上よし子さん、原野さんのファンになったことを五十鈴川だよりにキチンと打っておく。企画は未知の縄文世界の扉を拓く、先ずは自分の老いゆく体が悦ぶ企画を夢見る。