世間や世相の流れとはまったくおおよそ無縁な年の瀬を生きている。繰り返し同じような事を綴っているようにも思うけれど、お許しあれ。昨日の私と、今日の私では、微妙に変化し続けているように思えるからこそ、五十鈴川だよりを打つ、のだと厚顔無恥なる私は、考えている。
さて、上巻だけで782ページ、下巻706ページにも及ぶ、立花隆さんが20年前に出された[天皇と東大]上巻を25日から早朝の時間に集中して読み始めている。孫たちが帰って来たら読めないので、読み終えるのは来年早々になりそうである。
だから来年最初に読む本は、立花隆さんの天皇と東大になる。このような本と出会えて嬉しい。
そのいちいちの嬉しさを、年の瀬時間打っている余裕はない。がしかし、厚顔無恥で無知蒙昧を今も自認している私は、近現代史と言うものの、複雑怪奇さをまるで系統だって、きちんと読んだことがないので、一言ただ読んでいてワクワク、面白いのである。
このような在野で、好奇心のおもむくまま、多岐にわたっての未知の分野に、膨大な優れた著作を遺されたお仕事に頭をさげる。有り難いというしかない。
どのような名著であれ、自分の人生とクロスするところがないと私は本が読めない。読む作家、本との相性タイミングで、自分のなかの何かがびびっと反応しないと読めないのである。自分でも何だが、この年齢になっても反応するところにしがみついて、素直に学びたいとの想いは深まる。
何かを諦め手放すと、また新たな世界が見つかる。目の前の足下の、手の届く範囲の楽しみをこそ、見つけてゆきたいのである。近現代史、分けても両親が生きた時代、大正時代のことすら、ろくすっぽ知らない。戦前の昭和と戦後の昭和のあまりの相違。昭和、平成、そして令和。
その前の、大政奉還、怒涛の明治時代、近代化、欧化文明開化、明治、大正、昭和、敗戦、敗戦後から、現代までの歴史。よくぞこのような本を遺してくださったことへの(まだ読み終えてもいないのに)感謝が、五十鈴川だよりを打たせるのである。信頼できる人の渾身のノンフィクション、七年がかりで著された稀な本。あだやおろそかには読めない。朝一番、頭がすっきりしている時間に集中して読む。(上巻全35章の20章、今朝449ページ迄読み進んだ)
つくづくの無知をこの年齢で思い知らされる。が年齢ではない。知ることの醍醐味に反応する自分がいる。その事が有り難いのである。いろいろな意味で、今年は変節、変容、を我が体は感じている。
午後孫たちが帰ってくる。が、わずかであれ打っておきたい。孫たちはこれからの時代を生きてゆく。お爺じとしてささやかに何が出来るのか。体を動かし労働し、本を読み考え続けたい。






