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2025-04-01

3月31日夕刻谷口英久さんから【凪海】とお便り届き心にぎゅっと春が一気にやってきた。

 昨日、谷口英久さんから【凪海】と言う素敵な名前の焼酎と、またもや谷口さん独特の文字のお便りが夕刻とどいた。極めて超個人的な喜びを、花粉症のせいなのか、鼻水が止まらず体調が悪いのだが、短くても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。




いちばん嬉しかったことは、きちんと今現在の五十鈴川だよりを読んでくださったことである。自分のことはあまり自分ではわからない。私のやっていることへの評価をこのような形で直さいに伝えてくださったことへのあまりの嬉しさである。そして直しも含めての谷口さんの直筆の独特さ。軽みと純粋さと子供心。思い立ったら、駆けつける粋な今時珍しい心意気。いい年をして、ハシャギ、妻にあきれられる始末。

今回の企画は、あらゆる意味での不思議な再会が続いているが、この谷口さんとの再会は、自分でも信じられないくらいの、意外な出来事のひとつとして、生涯の晩年の思い出の筆頭になることは間違いない。

何事も愚直に持続継続していると、ときおり神様が粋な計らいを与えてくださる。まるでお酒が発酵してなにか突然変異が内なるからだで起こったかのような喜び、これまであまり経験したことがない嬉しさなのである。今をとにかくがむしゃらに生きていて本当によかった。

最後に、何度か書いているが、自分の体、手で文字を書く、その人の文字の力である。こればかりは機械で書くような画一的にはゆかない、その人なりの全人格が自ずと出てしまう。もういいのである。自分の文字で遊び刻み引っ掻くのである、。自由自在、どこ吹く風、その日の風に身を任せ。いよいよこれからの時間は、遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、そのような仲間との時間を大切に生きてゆきたい。

2025-03-31

春3月末日、ひんやりした花冷えの朝に想う、五十鈴川だより。

 明日から4月である。先週で3月の労働を終えたので今日は労働はなし、だからというわけではないが、時間があるのでちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。すごく打ちたい日もあれば、打つこともない日もある。労働がない日のかなりは五十鈴川だよりを打っている。労働も大好き、五十鈴川だよりを打つのも大好きである。

今朝の我が家のチンチョウゲ
(でないと続かない)

夢が原で働いていたときは、【囲炉裏通信】を綴り打っていた。ブログと言う、昔にはなかったツールでいわば遊びはじめて(ささやかに発信しはじめて)そうとうな時間を日々の生活のなかで割いてきたことになる。振り返って読んだことがないので、今となってはどのような事を書いたのかもまったく思い出せないが、綴り打った事だけは確かである。

まるで日記と言うほどではないが、ささやかな個人史記録にはなっているのではないかと言う、自足的なエゴとでも呼ぶしかない何かが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

大船渡や岡山、今治、我がふるさと宮崎でも山火事が相次ぎ、ようやく鎮火したかと思えば、海の向こうのミャンマーでは大地震が起こって、阿鼻叫喚の報道が伝わる。高層ビルが崩れゆく様の映像はまるでこの世のおわりである。(果たして文明とはなんと無慈悲であることか)

毎朝のお務め、愛犬メル散歩を春のひんやりとした空気を吸いながら、ご近所の花ばなを眺めながら済ませてきたのだが、老人になってしまった私は、ただ平凡に暮らせていることの有り難みを、足りていることを芯からの感じられることの有り難みを、五十鈴川だよりに打つ。

大昔、テレビやインターネットとうの、つまりテクノロジーがなかった時代には、遠く離れたところでどのような悲惨な出来事が起ころうとも、知るすべがなかったのだから、知らぬが仏と言う言葉はあながち、むげにはできないほどに、ある種の真実をついているような気がしている。

情報に踊らされる。余計な情報が心を蝕む。欲望に火を焚き付ける。デジタルの発達で詐欺などの、あらゆる犯罪が巧妙かして、いつなんどき変な犯罪の片棒を担がされるか、とおもうとき、迂闊に家にかかってくる電話などには、もう私はほとんど出なくなっている。誤解されてもいいが打つ。限りなくでくの坊生活に私は憧れると言うことを、古稀を過ぎる頃から度々打ってきている。その傾向はますます強くなってきている。メメントモリ的時間をいきている、のだ。

新見の猪風来縄文美術館に昨年暮れから、度々訪れている。今年の秋の猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念イベントの協力を依頼されたことがきっかけではある。私のなかで、何か機が熟したとでも言うしかないタイミングでの本質的な再会がようやくにして叶ったとでも言う他ない。猪風来さんや奥さまよし子さんとの語らいの時間にとてつもなく気持ちがよいのである。

まるでふるさとの五十鈴川で、幼い頃の姉や兄と語らっているかのような、安心感安堵感に包まれるのである。だから私は度々縄文美術館にゆくのだと想う。何かおおいなるものに包まれる気持ちよさにひたり、充足し、現世的な欲望まみれ世界からの逸脱、エクソダス時間に身を委ねるのである。その事の気持ちよさを我が体はまだ失っていない。

現代世界をあまねく覆うかのような、えたいの知れない不安感、鵺的魑魅魍魎妖怪から逃れる心の安らぎの拠り所、トポスとして、猪風来縄文美術館はこれから必須の輝きを放ち続ける、だろう。


2025-03-29

長女の旦那さん(パートナー)レイさんからスパイラルアームズの公演企画に対して、昨日思いもよらぬカンパが振り込まれ、想う。

 先月長女のところに上京した際、娘は不在だったが、夜、交遊歴の長いM子さんにわたすべきものがあり、稲城のマンションまでわざわざ来て頂いた。レイさんは見ず知らずのM子さんを温かく迎えてくれ、わずかな時間ではあったが、M子さんも安心して打ち解けてひとときを過ごした。主に私とM子さんが話すのをレイさんは聞いていた。

机の前の3年前の写真、ミアは生まれていない

M子さんは、70歳から再開した私の大きな企画の全てを支援してくださっている稀な方である。夜中M子さんとお別れした後、なんとレイさんがお父さん私もカンパするので、口座番号を教えてと言われたのである。

私は兄や姉にはカンパをお願いしたことがあるが、娘たちにはお願いしたことはない。手がかかる子育て真っ最中である。そのようなレイさんが何故、私の企画にカンパをしてくれたのかを、縷々説明する気はない。ただ、生まれも育ちも世代もまったく異なる私とレイさん。娘がまだ大学生であった頃、我が家に娘がボーイフレンドが出来たと連れてきたのがレイさんとの出会いである。

10年前、レイさんと娘は旧東ドイツ、エルベ川のほとりの町レイさんのふるさとドレスデンで結婚式をあげた。私たち夫婦もドレスデンまで駆けつけた。それは慎ましくも素敵な結婚式であった。あれから瞬く間に10年、今、レイさんと娘には7才になったばかりの男の子ノアと、まもなく2才になる娘ミアがいる。

話は忽然とかわるが、娘がレイさんと結ばれ家族を成したことで、私のなかでいわく言い難いいやが上にもの変化が、今も続いている。その事を五十鈴川だよりで簡略に説明することは不可能に近いが、一言で言えばバックボーンの異なる歴史文化の男性を、娘が生涯の伴侶に選んだことで、我が家に日本風とはまるで異なる意外というほかはない新しい風が生まれ、その事が私にも、老いたりとはいえ、嫌でも日本風男の根本的な弱点を、私に突きつけたのである。

レイさんは全てにドイツ的な、(レイさんのドイツ)いわば自然にレイさんの流儀で何事も為してゆく。古い私のような戦前の親父の影響が抜けきらない男にとって、新しいというほかはないほどに、板についた男女平等を実践する。時に余りも自然で、脱帽してしまうのである。このようなことを打つと、親ばかの謗りを免れないのでこれ以上打つのはやぼ、控える。(レイさんが私の今の活動に寄り添ってくれていることへの感謝、このような男性を選んだ娘に感謝する)

娘が異国の男性を伴侶に選んだことで、ノアとミアは、ダブルスタンダードのバックグラウンドを抱え持つ、宿命人生を嫌でも歩むことになる。がその事をまったく私は案じてはいない。どのような人生であろうと、ヒトは生まれ落ちた宿命を生きるのである。

彼らが大きくなるまで、私が見届けられないかもしれない。が、案ずるよりも産むが易し、を私は選ぶ。その方がずっと実りがあることを、私はこれまでの73年の人生で学んで来た、からだ。(ノアとミアは困難をきっと乗り越えてゆくのを見守りたい)

娘とレイさんが出会って十数年で、新しい命が生まれ新しい家族の営みが一瞬の休みもなく形作られてゆく、生命の輝き連鎖、その行く末を見届けはしたいが叶わぬ。それでいいのである。だから私は五十鈴川だよりを打つ。いつの日にかほんの一部分でもいいから五十鈴川だよりを読んで貰えればいいのだ。見えなくなっても宇宙の塵となってでも見守れるのだから。

五十鈴川だよりに、スパイラルアームズ公演のカンパのお礼を綴り打ちます。レイさん😆💕✨ありがとうございます。




2025-03-27

伊豆大島で焼酎造り酒蔵を営む、谷口英久さんがスパイラルアームズの(30日)公演に来てくださいます。そして想う。

40歳で 中世夢が原で働くことになり、当時妻と3才の長女と東京から岡山に移住、企画者の端くれとなり61歳で退職するまで働き、紆余曲折70歳で再び企画を再開、今年4年目の企画は土取利行さん率いるスパイラルアームズであることは、繰り返し五十鈴川だよりに綴っているので、読まれている方はまたかとお思いの方も、おられるかもしれない。

老人は繰り返し同じことを語り続ける。私は老人である。繰り返し念仏を自分のうちなる闇に向かって、唱えるかのように五十鈴川だよりを打つ。とにかく新しい、今日一日を気持ちよく過ごすために、貴重な老人ライフの充実に努めながら生きている。

谷口さんの年賀状と暑中見舞葉書

もう企画をすることも(引き受けることも)ないだろうと思っていた矢先の昨年11月、土取さんからの依頼で、スパイラルアームズ、岡山公演の企画窓口を引き受ける、はめになった。そのことで、私の生活は、老人である事を暫し忘れ、時が逆回転したかのような生活を余儀なくされている、といっても過言ではない。

何事にもことが動くには、奇縁、タイミングと言うものが大きく作用すると言うことを知らされる。意外な、予期せぬ出来事が次々に出来する。依頼が土取さんでなかったらまず引き受けてはいないし、覚悟して引き受けたからこそ、意外な再会や、予期せぬ展開がもたらされる、としか思えない。そのことの不思議を、五十鈴川だよりに打ちたくなる。(のだ)

長くなるので簡略に打つが、伊豆大島で家業を受け継ぎ、焼酎造りに情熱の限りを尽くしておられる、谷口英久さんと面識を得たのは中世夢が原がオープンした1992年であったと記憶する。爽やかな方で何故かうまがあい、5年近く、お年賀や暑中見舞をやり取りする関係が続いたがいつの間にか、関係性がとおのいていた。

昨年から私は、身の回りの今となってはお荷物の本や、CD、レコード、チラシポスター、資料、衣類等と共に、数十年保管していたお手紙や葉書、年賀状などを、いまもゆっくりと手放している。だが、どうしても手放せないものがやはりある。

娘たちからもらった手紙や、兄や姉からの葉書手紙、分けても友人たちからのお手紙、年賀状には私の交友録、出会いの縁、妙、人生がつまっている。この数年毎回これが最後の気持ちで企画をしている。谷口さんの、あの懐かしくも素晴らしい年賀状は私が生きている間は手放せない。(のだ)

久方ぶりに年賀状にみいっているうちに、急に私はたった一度しかお会いしたことがないその谷口さんの住所宛に方に、今回の企画のカンパのお願いの一文のはいったおたよりを厚顔を省みず送りたくなった。なぜ送ったのかはわたしにもわからないが、きっと元気なうちにもう一度会いたいという気持ちが、そういうアクションになったのだ。

後日、突然カンパを振り込んだというお葉書を頂いたときの私の嬉しさは、格別という陳腐な表現しかないほどに、じわーっとからだの芯からの嬉しさが込み上げてきた。まさに偶然の思い付きが思いも及ばぬ結果を生む、事実の重さに祝杯をあげた。

私はカンパのお礼に、猪風来さんの本、ご子息原野さんの絵本等と共に、今回のフライヤーと一文を添えて送ったところ、またもや先日、ハレノワでのスパイラルアームズの公演にやって来るとのお葉書を頂いたのである。私よもやまさか伊豆大島から来ていただけるとは。青天の霹靂の嬉しさ、思わず私はインターネットで谷口酒造の電話を調べ、お電話した。

女性の方が出られたので御礼を伝えたら、すぐに折り返しご本人から私のケータイにお電話を頂いた。声はまったく変わっていなかった。名状しがたい感情に襲われた。一気に空白が埋まった。まるでドラマだが事実である。

スパイラルアームズ公演の企画を引き受けなかったら、33年ぶりの再会は実現しなかったにちがいない。折り返し後半の人生、企画者の端くれとして再出発して33年、今回の私のエネルギーを支えているのは、これ迄の交友録で関係性が途切れずにいる友人たちのおかげである。現時点での私の人生の集大成の企画といっても過言ではない。が、これで終わりではない、その事を谷口さんや京ちゃん、今回私を支えてくださる宝石のような面々から教えられている。(人生の奥の深さを)


2025-03-24

40年以来の古き友人が、一泊二日の岡山にやってきて我が家にステイ、縄文美術館を案内しました。

一昨日土曜日お昼から、昨日午後3時半まで 小島 京志さん(以下京ちゃん)が、わざわざ岡山まで来てくれて、有意義な時間を共に過ごせたことのありのままを、ほんの少しでも記憶が新鮮なうちに、記録的に綴っておきたいと思う。

一昨日午後2時に岡山の県立美術館で私は京ちゃんと待ち合わせた。京ちゃんはお昼前に岡山について柚木沙弥郎展を見ていた。私はその間約300枚のスパイラルアームズのフライヤーを岡山駅、県立美術館エリアの、カフェやショップに久しぶりに配布した。

猪風来さんと京ちゃん

午後2時、落ち合ってからは、歩いてハレノワを少し見学した後、30日の公演後の打ち上げのお店探し等を、京さんとともにし、手頃なよき店を店を見つけることができた。

そのお店の開店が午後5時だったので岡山駅に近い居酒屋で、約一時間軽く再会の乾杯をしてから、打ち上げのお店に移動、腰を落ち着けて語り合った。

2時間お任せ4000円コース、飲み放題を二人で注文、去年の暮れ以来の久方の、飲み食べ語りあいのよき時間を過ごした。男同士、古稀を過ぎての語らいは秘密の森に分けいるかのように妖しい展開を帯びて、切なくも面白かったことをきちんと打っておく。最後美味しい日本酒の店でしめ、午後8時半過ぎの赤穂線で西大寺へ。春のよる。ほろ酔いおとこふたり、家まで歩いた。裏方企画者は仲間も歩く。京ちゃんはタフである。

ほんとうに久しぶりに私は酔い、家でも京ちゃん持参の高級な焼酎を飲んだら、あっという間に睡魔が来た。妻もわずかな時間、京さんと語りあえたが、午後10時にはお開き、私も京ちゃんも嬉しき睡眠世界へ。

昨日日曜日は6時におきてすぐに買い出しに行き、妻のおもてなし朝食を済ませ新見の縄文美術館に向けて8時に出発、10時半に着いた。京ちゃんは、11時に10人ほど事前に予約して訪れた団体の方たちと共に、猪風来さんのお話を聞きつつ、縄文美術館の展示作品に先入観なく見いった。

私はその間、初めて奥さまのよし子さんと二人でお話をする時間を持てた。なんと原野さんの幼少期の写真を見せていただいた。宝のお写真のかずかずに寸暇見いった。まさか写真を見せていただけるとは思いもしなかったので、素直に私は嬉しかった。

団体の方たちが、じっくりと作品にみいっている間に、4人で(猪風来さん、よし子さん、京ちゃんと私)おむすび、サンドイッチ、リンゴをつまみながらお昼。食後よし子さんがいつも熱いコーヒーをいれてくれる。

食べながら秋のビッグイベントについて猪風来さんは語り続ける。当初、秋に向けての打ち合わせ時間は、とれないと思っていたのだが、限られた貴重な時間のなかで、とりあえず、4月30日当日配布するフライヤーと、それまでに【猪風来、我が縄文土器造りに捧げた人生50年間を語る】(期日未定、タイトルも仮題、私が考えた)を4月26日までに作ることを決めた。そのフライヤーはスパイラルアームズのフライヤーを創ってくれたN氏依頼することにした。

午後1時半、縄文美術館を後にし、15時半京ちゃんを岡山駅まで送り、福岡に帰る京ちゃんとは一月後の再会、固い握手をしてお別れした。丸一日以上密度の濃い時間を過ごした。私の体は最高に喜んでいた。岡山から縄文美術館往復の車中京ちゃんとは、またもやいろんな話が出来たし、よき思い出ができたことを、五十鈴川だよりに打てることが嬉しい。

なによりも我が古き友人が、縄文美術館にいたく感動したことが、案内したものとしていちばん嬉しかった。言葉少なく圧巻の縄文美術館といってくれ、春のハレノワ、に続いて秋の縄文ビッグイベントにも裏方として仲間として加わったことのありがたさは、例えようもない。お互いに、この年齢ではかなりの強行行動ではあったし、なり疲れたが、疲れが全て吹き飛び、満たされた。

京ちゃんの滞在時間は、一日とちょっと、そばにいてくれ、ただ私の話を受け止めて、次々と裏方としてポジティブなスパイラルなアイデア、提案をしてくれる。配慮の人、大人である。おそらく京ちゃんがそばに居なかったら、私の頭もフル稼働はしなかったと想う。小島京志さんへの真摯な感謝を五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

2025-03-22

スパイラルアームズを岡山で企画することによってもたらされた至福の旧交復活に想う、今朝の五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。今日午後博多から40年近い交友が続いている小島の京ちゃんが我が家にやって来て一泊二日滞在する。五十鈴川だよりを読んでくださっている方は、昨年暮れふるさとの兄の家まで来て泊まって、翌日彼の住む鹿児島は隼人市まで共にドライブしたことを五十鈴川だよりに綴っているから、ご存じかもしれない。

いずれにせよ、今回のスパイラルアームズの企画も、私の古希からの4年間も含め、個人で抱えた大きな企画は、ほとんど無私で支援してくれる得難い友の一人である。特に私と京ちゃんは、1984年に設立した、土取さんとパートナーの桃山晴衣さんが創られた芸能堂【立光学舎】のワークショップで出会った。依頼交友関係が途切れたことがない。

お互い土取さんとの奇縁、彼は若き日、お互い20代、旅の途中ネパールで土取さんと出会い、私はロンドンで土取さんと出会った。お互いに強烈な影響を受けたもの同士である。あれから幾年月、その土取さんがスパイラルアームズを率いて岡山にやって来る。血が騒がないわけがない。岡山の窓口を私が引き受けると言うことで、万難を排して助っ人として参加してくれるのである。

4月30日の本番はもちろん、今回はわざわざ当日の事前打ち合わせをかねて来てくれるのである。多くを語らなくても同時代を生きてきたもの同士分かち合える、繰り返すがまさに得難い友と言うしかない存在である。居てくれるだけで私は安堵感に包まれる、のだ。理屈はない。

スパイラルアームズ岡山公演の支援者には身内以外、16名の支援者の名前が掲載されている。40年以上、30年以上、20年以上、30年未満の方々ばかりである。これほどの強力な支援者に支えられてエネルギーをいただき、今回の企画実現に私は向かっている。私はよき意味でのわがままな企画者をどこか自認している。私のような老いた(いい意味で)企画者は支援者(パトロンと言ってもいい)の存在なくしてはどのような小さな企画ではあれ実現することは不可能である。

人生の晩年にこのような至福感とでもいうしかない、旧交再会のひとときが数十年の、空白のあとに突然訪れる何てことは、スパイラルアームズを引き受けなかったら、まず有り得なかったにちがいない。そのようなことの、まるで夢のような出来事が期せずして起こってしまうことの醍醐味を今回の企画であらためてその事の不思議に想いを馳せてしまうのである。

東京都ではあるが、伊豆大島で(出会った時は東京の出版社勤務)実家の焼酎造りの跡継ぎをしておられるTさんとの旧交復活も有り得なかったにちがいない。会ったのは夢が原に視察残られたオープンして間もない頃の一回のみ。何故かうまがあい、何回か年賀状のやり取りをしたことがあったのだが、その後ご縁が遠のいていた。

そのTさんの年賀状があまりに素晴らしいので、ずっと保管していたのである。賀状を眺めているうちに急に厚顔にもカンパのお願いがてら一筆いれて、現況をしらせた

なんと突然お葉書を頂いた。きちんと我が父の文章を読まれたことにも触れられていて、私は一気にある種の名状しがたい感情に襲われた。年内なんとか時間をつくって、伊豆大島までTさんに会いに行くつもりである。京さんほか何人かにお声かけしようと思っている。

2025-03-20

春分の日の朝に想う両親のこと、春の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりは日々生活記録的になっている。若いときのように文化的なこと(広い意味での)には、きっと年齢的なことも作用しているかもしれないが、家族、身近な人たち平凡に生活できることの有り難さを最優先で生きている。そして、もうほとんど過去の記憶、思い出に生かされながら、現在を生き直し続けている、といった案配である。

晩年の父と母

この数ヵ月土取さんや、猪風来さんのことに触れることが多いことで、私のことを誤解、曲解しておられる方がいるやも知れぬが、私はまったくそのような人間ではない。

ただ若い頃から多くの映画や、舞台や、音楽、書物、などに触れ見聞を繰り返してきたお陰で現在の自分が在るということは紛れもない事実である。

だが古稀を過ぎてからは、そういうことに耽溺しなくても、日々労働しながら、妻との老夫婦生活ができるだけで、十分な充足感が得られるような暮らし方が送れている。平凡生活のなかで、五十鈴川だよりが打て、日々草と戯れ体動かし、空の下で生きることの気持ちよさを私は見つけたのである。

今もそうだが、18才から世の中に出て井の中の蛙をいやと言うほど知らされた経験、そのトラウマのような感覚が、今だ抜けきれずにいるのは確かである。だが、古稀を迎える頃から、特に大きな手術を経てから後は、以前にもまして、身の回りの生活、妻や家族との時間を何はともあれ最優先生きている。

その合間合間、時間が割けるときに、企画を引き受けたりしているだけなのである。特に土取さんとは、26才のときから今に至るまで、交友関係性の持続の上に依頼されて、引き受けた責任上、生活者としての感覚、のりをこえず取り組んでいる。

土取さん、猪風来さんに依頼されることの誉れは、例えようもなく有り難く嬉しい。その事だけは五十鈴川だよりにキチンと打っておく。私のようないい加減な人生を歩んできた(ある意味では人生と言う運命に放り込まれた)そのことを余儀なくされ、なにがしかの夢のような出来事に、諦めずしがみついて生き続けてきたお陰で依頼された誉をバネに動いているだけである。スパイラルアームズ本番まで後40日、やれることをやる覚悟だけは健在である。

だがコマーシャリズムに身をおかない、ある種時代を超越した音の神秘を、独自に探求し続けている土取利行さんのスパイラルアームズを、この岡山で、今と言う時代に受け入れてもらえることの困難さを感じているのも事実である。その困難さを敢えて楽しむくらいのどこかに余裕、遊び心が不可欠である。

今、心から願うのは、一人でもチケットを買っていただき、スパイラルアームズの音の波動に身を委ねてほしいと、企画を引き受けたものとしておもう。誤解を恐れずに打つが、なんと難儀な企画を引き受けたものかと時に想うが、古い私、父は言うであろう。男がいったん引き受けたら歯をくいしばってでもやれと。小中、鬼のような父親に鍛えられた私は恐らくそのトラウマから一生涯逃れることはできないだろう。

話が脱線したが、フライヤー配布が一段落つき、このところ一筆いれての(メールで一斉送信すれば楽ではある)封書作業を平均一日に何通か、宛名の名前だけでも早朝墨を擦って筆で書き、他は万年筆で書いているのだが、その事が私には楽しい。たぶん今後ますます私は手書きの方に向かうに想う。その方がワクワク心が動きだし、楽しいからである。