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2026-01-28

昨年夏以来、ふるさとに還る前、寸暇打つ今朝の五十鈴川だより。

 早起きは三文のとく。(あくまでも私にはである)今日からふるさとに久し振りに帰省し、お墓参りをし、しばしぼーっと彷徨し、桑江さんご夫妻の最後の公演にゆく。少し時間がある。

そとはまだ夜明け前、まだ暗い。もう覚えていないくらい打ったが、私は夜明け前の一時が大好きである。どのように疲れていても、いまだ有り難いことに、我が体は一晩熟睡すると、まるで生き返った(死んだことはないのだが、眠っていた時間が魔法のように思えるほどに)かのような案配である。

今回の旅のお伴の一冊

昨日の自分と今日の自分は、明らかに微かに異なっているかのように思える。だからこそ、飽きもせず、五十鈴川だよりを打つという、敢えて言葉にするなら今を活きている幻想、一文を綴るのだとおもっている。

さて、来月私は74歳になる。我が姉兄弟は3歳見事に3歳違いである。なかなか会えないが、タイで生活している弟もおそらく今年71歳になる。迎えに来てくれる長兄は80歳、次兄は77歳、姉は83歳になる。

私は兄弟の誕生日を知らない。帰ったら、いまさらだが訊いてみようとおもっている。わが家のお誕生日はお正月元日に家族全員で祝う習わしであったので、今風のイメージのお誕生日、極めて西洋風にお祝いをすることはなかった。父は全員の子供に、新しい服を与えてくれた。その事がとてもうれしかったことをおぼえている。

がその事も、父の仕事で小学六年生になるとき、私と弟は両親と共に転校し、祖父母、姉兄たちとの全員一緒のお正月はなくなってしまった。その時一年間を過ごした美々地小学校は延岡を流れる五ヶ瀬川の上流に位置し、銅を産出する山の中に忽然と現れた炭鉱町であった。当時生活に必要な物はすべてが揃っていて、大きな商店、テニスコートから映画館までがあった。

春からわずか一年間しか過ごさなかったのに、この六年生の炭鉱町での記憶はいまだに私の中に大きな出来事として消えない。翌年、中学一年から都城に近い、僻地の四家中学校にまたもや転校した。(今は廃校である)中学校の2年生の夏休み一人美々地小学校を訪ねた。様子は廃墟一変していた。

やがて廃坑になるという噂は聞いていたが、あまりの様変わりに、茫然自失した。思春期の真っ只中、あの凄まじい様変わりが、私に与えた最初の無常感である。この年齢になっていよいよ思い出したくはない記憶も含め、過去の思い出が甦る。打っていると、きりがない。だけれども、自分という不確かで絶えず移ろう存在のほとんどの礎は、五十鈴川を含めた、18歳までの体験、記憶で(言語、方言が大きい)成り立っている。

その記憶の跡地を特に還暦以後、五十鈴川だよりを打ち始めてから繰り返し、ふるさとに還る度に訪ねているが、やがては帰ることも叶わぬようになる。お別れが来る。だから、一期一会、体が動くうちは帰る。とくに一番上の大陸引き揚げの邦子姉には直接御礼を伝えるつもり。小さいころから、世の中に出て、フラフラと腰の定まらない私を、姉は天真爛漫ずいぶんと支えてくれた。このような姉と出会えて幸せである。

おかげで私は、現時点でいまが一番幸福感に包まれている。だから、のうのうと五十鈴川だよりが打てる。有史以来の人類の歩みを想うとき、何と有り難い時代に生を受けたことかと、感じ入り、痛み入るのである。祖父母しかり、両親しかり、おもい叶わず倒れていった数多の途方もない死者たちの日本各地の慰霊を訪ねたくなっている。長崎の地で桑江さんご夫妻の最後の公演が行われるのも、どこかお導きのようにおもえる。老いてこそ、沖縄のことも桑江さんご夫妻から学びたい。

2026-01-27

立花隆著、[天皇と東大、下巻]を読み終えた朝に思う五十鈴川だより。

 昨年暮れから読み始めた、立花隆著、天皇と東大上下巻を年明けから、尺取り虫のように、主に朝、頭がすっきりしている時間帯に読み進め、ようやっと読み終えた。読み終えたばかりである。

昨年は戦後80年であった。[天皇と東大上下]は2005年に刊行されている。20年前である。20年前と言えば、私が53歳である。まだ中世夢が原でバリバリ働いていて、娘達は中高生であった。が乏しいお小遣いの中から本は買っていて、長いこと本棚の中に眠っていた。

学べる体を養生したい

が、何時かはきちんと読まねばという思いは消えることがなく、ようやく機が熟して、ようよう読み終えて思うことは、つくづく読んで良かった、という言葉しかない。その思いを長々と綴ることは控える。五十鈴川だよりに読み終えた事を、まずはキチンと打っておきたい。その上でもう少し打つ。

立花隆さんが逝かれて5年が経つが、このようなお仕事、ご本を著されたことに新ためて畏敬の念を覚える。求めて後20年後この本を読み終えて、私はすっかり老人の今、さていよいよこれからをいかに人生を降りてゆくかの、細き路をさ迷っている。

が、天皇と東大を読み終えたことで、一念発起、近現代史、分けても戦前までの昭和史を学び、自分なりに知りたくなった。新た老いを生きる目的が拡がっている。

その自分にとっての、第一の入り口として出会った本、選んだ本が[天皇と東大]になったという事、感謝の念しかない。割愛するが私の両親は大正時代の生まれ、軍国主義教育を受け育ち、戦前北朝鮮で二人共に教師をしていたが、敗戦で一切の財産を無くし、塗炭の苦しみを体験、3歳の姉と、生後半年の兄と共に、今の韓国の大空港仁川から(当時はしなびた港町であった)命からがら引き揚げてきたのである。私を含めた3人は戦後生まれである。

(同じ昭和、戦前と戦後の教育の歴然とした相違に愕然とする。そして教育というものの恐ろしさ、この本は一筋縄では答が出ない日本民族の出自、国体、いかに日本民族のアイデンティティーを確立して未来に向かうのかの重い問いを内包していて多義的に照射する)

重い重い避けたくなるテーマ。平和国家とは何か。今も過酷な国状況下や戦禍の中で難民となり、国を否応なく脱出、漂流するニュースが途切れることはない。難民キャンプの映像、もうそのようなニュースに、老人の私はリスポンスするのが、萎びているのを、どこか自覚している。二人称の困難や困窮、死にはかくも敏感に反応するのに、三人称の死にはかくも鈍感な私なのである。

しかし、私には両親のおかげで、どこかに微かに、ほんとうに消え入るかのようにかすかなのだが、難民の両親の末裔だという自覚がある。だからといって、どうともならない。またいうこともとりたててない。だがときおり何かが心の奥深くで蠢き囁くのである。その蠢きは、古稀を過ぎて、消えるのではなく、より蠢くのである。その内的な消えない老いの揺らめきが、[天皇と東大]を読ませたのだと思う。

そして思う。いよいよこれから、あの戦前の昭和(もちろん大政奉還、明治からも)、天皇、軍人、知識人、学者、学生、一般大衆、日本人、(全部)民族がどのように生きて、決断し、選択し、戦後を迎え生きてきたのかを、まずは知らないといけないのだということを、立花隆さんが心血を注いで著してくださった本を読み終えて、いま私がおもうことである。

このような内的な老いの変化移ろいを、五十鈴川だよりを打ち、どこか孫たちにお爺の思いを伝えたいのである。

2026-01-25

1月24日午後、倉敷市玉島市民交流センターで山中惇史ピアノリサイタルを聴きました。そして思う今朝の五十鈴川だより。

 縁あって、昨日午後倉敷の玉島市民文化交流センターで、山中惇史(あつし)ピアノリサイタルを聴いた。

昨年11月15日、下関で妻とともに千住真理子さんのヴァイオリンリサイタルを聴きに出掛けた際のことは、すでに五十鈴川だよりに打っている。その時のピアノが山中惇史さんであった。会場でたまたま昨日の山中さんのピアノリサイタルのフライやーが配布されていて、場所がなんと倉敷の玉島、しかも妻の誕生日(妻は仕事でともにゆくことはかなわなかった)。

妻のお誕生日プレゼントになった

妻が行ってきていいよ、といってくれたので言葉にあまえた。事前に電話したら、充分に席の余裕があるので、当日券で大丈夫とのことだったので、寒いし車で余裕を持って出掛けた。着いて残席のなかから席を選んだ。満席で200から250位の小ホール、50位しか座席が埋まっていない。しかも最前列が空いている。私は最前列の7の席を選んだ。

これまで私は最前列で演奏を聴いた記憶がほとんどない。この席からは演奏家の息づかい、手の動きが(わずか五メートル先の)演奏家のその日の全てを直に体感出来るまたとない座席だった。

一部 ハイドンのピアノソナタ 第47番ロ短調(初めて聴いた)。つづいてショパン ピアノソナタ第3番ロ短調(これも初めて) いきなり別世界に連れてゆかれた。来て良かった本当に。

休憩後第二部、自作曲 上を向いて歩こう、ただし足元にお気をつけて、(ユーモアのあるタイトル、パリは美しく誰もが憧れる都市であるが、足元に気をつけて歩かないと大変なことになる。このタイトル、若き日パリを歩いた私にはよくわかる)。

すこしくらい濡れたって歩きたい気分、(彼の繊細な詩人のような感性がキラキラしているピアノ曲)ドビュッシー月の光、ショパン 舟歌、ショパン スケルツォ第2番 変ロ短調(もちろん初めて聴いた)。カーテンコールはドボルザークほか、短い小品を3曲も。素晴らしく堪能した。

長くなるので簡略に記す。山中惇史さんは35歳、おそらく知る人しか知らない存在でである。千住真理子さんのリサイタルに行かなければ、まず昨日の山中さんの出掛けることは無かっただろう。だが言葉は不要、出掛けてしかも最高の席で聴くことが出来た幸運を五十鈴川だよりに打たずにはいられない。(これからも彼の演奏を聴き続けたい)

わずかな聴衆を前に、全身全霊で演奏される、若くても独特の感性、世界を感じた。ある種の清々しさ、繊細で大胆、ユーモア、お辞儀の仕方に深くうたれた。演奏家であり作曲家でもある。まさにショパンの世界に初めて触れさせて貰えたような若き水先案内人、音楽のことにはまったくの門外漢であるわたしだが、構成選曲、すべてが繋がって、山中惇史さんの音楽性に聴きいった至福の時間であった。

さすがは千住真理子さんが競演されている音楽家である。出会いは出会いを紡ぐ。老いゆく細道に新たな楽しみを見つけられたように感じる。音楽、芸術は万人に開かれている。これまでの我が人生ではクラシック音楽に蒙が拓かれるような体験がなかったのだが、いきなり千住真理子さんの演奏を聴いてからは、まるで我が老いの体に、音の神秘が降臨してきたかのような、オーバーではなく体が喜んでいるのが覚る。

まさに季節が熟して、ぽろりと体と心が変身してゆくかのような塩梅、感じたこともない音の景色の世界をさ迷える愉しさを感じている。

これまで音楽を聴きながら五十鈴川だよりを打ったことはなかったのだが、今朝も聴いている。言葉のない音、好きなアーティストの演奏を聴きながら、五十鈴川だよりを打ちたくなっている。(旅先では無理だが)

2026-01-24

1月24日、妻の生誕の日の朝に思う、五十鈴川だより。

 1月24日、今日は妻の生誕の日である。以前の私であったら、だからといって、臆面もなく五十鈴川だよりに打つことは、無かったであろう。

だがやはり年齢が、打たせるのだと思う。それだけ共に歳月を、刻んできた歩みへの、ある種の感慨と、妻への尊敬の念を五十鈴川だよりに(家族に遺しておきたい)打っておきたいのである。

1月23日の朝に見たオーバーザレインボウ

いずれにせよ、打てるときに打っておかないと、後々打とうと思っても叶わぬと言うことは充分にあり得るのだから、そのようなことにおもいをいたすとき、いざ、という気持ちになる。

これまでも厳冬期、妻の誕生日が来ると何か打ちたくなったのだが、のうのうと打つのが気恥ずかしかったのだが、加齢のせいで厚顔さが増してきているのと同時に、そのようなことにおもい煩うことは、もう馬鹿馬鹿しく思えてきたのである。

したがって今後も加齢と共に、あの爺さんまた連れ合いのことを打っている、と五十鈴川だよりを読んでくれなくとも、もう私は現時点でもまったく構わないのである。誤解されても構わないのだが、社会人としては、すでに終わったヒトとして存在している自覚がある。が社会の動向への関心は無くしてはいない。(解散選挙報道が過熱、世界も益々カオス化しているが、自分の足、体で考えないと、危ない時代の足音を私はますます感じる)

しかし、社会人としては終っても、妻との老夫婦時間は、これからどれだけ二人時間があるのかは未定にもせよ、その未定の夫婦時間の老いの旅路がいよいよ始まる、という自覚は深まるのである。(夫婦老い路旅を五十鈴川だよりで綴りたい)

新ためて出逢い、遭遇の不可思議を思う。34歳の不遇のとき、39年前、吉祥寺の ビデオシアター(当時は映画館とはことなる、マニアックなビデオ作品が上映されていた。上映されていた作品はアルフレッド、ヒッチコック自作を語る)で出逢ったのときの出来事は、まるで映画のワンシーンのように、思い出せる。甦る。

映画の内容はほとんど忘れているが、ヒッチコックがインタビューに答えて、最後の方で、あなたにとって幸せを感じる時間は、どういった瞬間ですか、と訊かれてヒッチコックが応える。それは日没を眺めているときであると。ヒッチコック作品が大好きな私は、、茶目っ気たっぷりに応えた、その言葉が忘れられない。

(私も日没を見るのが好きである。老いの力が増すにつれ、夜明け、日没、月、星、大樹、滝、霧、雪景色、虹、雨、鯨、パンダ、虫などなどの命、万物、縄文土器、、、に一体化、みいる。人知を超えた大宇宙の創造物に、敬虔に祈る)

その作品を観ていたのは、私と妻の二人だけであった。その後の顛末を詳細に打ったら、お里が知れるし、これまたフィクションのようになるので、今朝の五十鈴川だよりでは割愛する。

ともあれ、あの出逢いなくして今は無し、結婚、岡山移住、二人の娘に恵まれ、娘達が巣立ち、それぞれが伴侶を見つけ、それぞれ男女の子供に恵まれ、私はお爺さんになっている。(これいじょうもうなにも不要である)

話を戻す。どちらが先に宇宙に還るにせよ、これからは夫婦時間最優先で生きたい(往きたい)と、妻の誕生日の朝に念うのである。我々は全てが正反対である。だからお互い助け合って今日も飽きることなく、生活できているのだとおもう。その極めて平凡な気付き、共に生活していて飽きないのは、お互い微妙に変化し続けているからだとおもう。季節が移ろうように我が心も移ろう、その事に静かに五十鈴川だよりを打ちながら向かい合いたい。

これ以上は打てない。愚の骨頂、野暮である。知恵を絞り、工夫し、平凡な日々を、非凡な日々と感じられる感受性を、一ミリでも(老いの摂理に逆らうのではなく、受け入れる生活力を養いながら)磨きたい。

2026-01-17

一月末、桑江さんご夫妻に会いに長崎に往く。厳冬期の朝に思う五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。月曜日から昨日まで今週は水曜日以外フルに(午前も午後も)働いた。この仕事は自分の裁量で、自由に時間を調整できるので老人のパートタイマー仕事として、甚だしく私にとっては、おそらくこの仕事を持って、一瞬先は未知ではあるものの、お手当てがある仕事は最後になる。(以後は健康であればボランティアを、猪風来美術館の草刈りをしたい)

さて、お正月早々フルに仕事をしているのは、一月末、長崎にどうしても行かなければ、往きたいからである。沖縄のご夫婦でやられていた人形劇、かじまやあ(沖縄の言葉で風車を意味する)の最後の公演を視るためである。

何度読んでも打たれる

桑江純子(作演出、自分の作品の人形も創る、唯一無二の登場人物たち)、桑江良健(画家、独学で唯一無二の作品を今も画き続けている)。

出偶っておおよそ30年になる。ただ二人の沖縄の友人である。昨年末、本当に久しぶりにお電話したさい、純子さんからその事をしらされた。その場で、長崎に往くことを告げた。

そういうわけで、一月末、一週間以上お休みする。だから働いている。したがって私の一日は、あっという間に過ぎる。ルーティンの本読み他、わずかな時間であれ、中世夢が原を辞した後継続していることも含めると、私の一日は、本当にあっという間にすぎる。妻はそのような老人の私をどこか諦めの(幸い見放してはいない)様子である。

話は変わるが、昨年秋、那須塩原に住むI君(33年君子の交友が続いている。)を訪ねて、その際おもい知ったのである。会える時に会っておかねば、と。十数年ぶりに再会、二人きりで温泉に浸れて、交友を温め合えた、その至福のひとときの有りがたさは言葉で表せるものではない。

至誠、私には似合わない言葉だが、たまたまこの世に生を受け、廻り合い、付かず離れずの、言わば君子の交わりが長きにわたって続いている、方たちとの交友だけは、逃したくないのである。

再三、五十鈴川だよりに打っているが、晃かに昨年の猪風来さんご夫婦の縄文の企画に関わったことで、これからの人生時間をいかに生きてゆけばいいのかが、自分のなかで整理されたことは間違いない。ボンクラの私、人生は有限なのだと頭では理解していたつもりなのだが、そのことの重さが、ようやっと体で理解(分かって)きたように、寒中体動かしながら感じ、思うのである。

なにを隠そう。小さい頃から、生と死の不思議を、なぜ自分は存在しているのか、なぜ涙が溢れ、感動するのか、思春期、なぜ女の子(人)をみるとドキドキするのか、やがては死ぬ運命を、いかに生きてゆけばいいのか、人には相談できないような、悩みを抱えてなんとかこの年齢まで生きてきて、ようやっと、言葉では言えないが、少し安堵している。

当たり前、老いると感受性も脚力も弱くなる、そのことを普通の人はもっと早く感知しているのだろうが、私は能天気あらゆる点で世間とはズレまくっている。が、有り難いことに、未だ感動し涙が溢れてくるし、充分に脚力もあるからこそ、動き回って働ける。だからこそ、今のうちに働くのはそこそこにして、会いたい人、お世話になった人には、直接出向いて、お礼を伝えたいのである。桑江さんご夫妻は、その筆頭に位置するヒトである。

どのような天才であれ、普通の無名の人であれ、万人等しく死は絶対訪れる。いかに生きてゆけばいいのか、いけないのかは、万人の永遠のテーマである。ハムレットは死んで戻ってきた人はいないから、死後の世界は未知の邦だから、人は死を畏れるという。

ある哲学者は人が死ぬのは生まれてきたからだという。何度も読んでいる養老孟司先生は、死んだことがないのでわからない。だから考えないという。そんなわからないことにおもい煩うより、生きていることに悩むほうがいいと。もっと素晴らしいとおもうのは、悩むのも才能のうち、と仰っている。このよううなかたが日本に存在していることに安堵する。私もだから考えない。

せっかく生まれて在るのだから、老人ハムレットのように悩み、生きる側に私は存在したい。虫だって、おけらだって生きている。私だって同じ、生き物として等かなのである。そのような視点にようやっとたどり着いた、在りがたき実感が私の今の生活を彩っている。

というわけで、一月末、桑江さんご夫妻に長崎でお会いするのが楽しみである。人形劇公演は終わるが、ご夫妻とのゆったりとした老いゆく時間は、いよいよこれから始まるのである。そのために、沖縄詣でをするための旅費を稼ぐために、一年でも長く肉体労働をする。(のだ)

PS 千住真理子さんのCDを聴きながら打っていたら、すーっと文章が流れた。今朝の五十鈴川だよりでした。


2026-01-10

頂いた方に拝復お年賀を書き、よいよ厳冬期、休日薪作りに励む、今日の五十鈴川だより。

 一月六日から労働開始、昨日まで働いての土曜日の五十鈴川だより。アメリカのベネズエラへの驚天動地の介入を始めとする、世界の(イランほか)予断を許さないニュース、国内の山火事、地震、薄気味悪い事件などなど、年明け早々飛び込んできて、老人の私はすっかりお正月気分は消えた。そのようなニュース報道を横目、斜めに見ながら、私は静かで穏やかな日々を土の近くで生活している。

さて、話題を変える。古稀を過ぎる前くらいから、私は年賀状を書くことをやめた。義理のお付き合い他、儀礼的なことも年々しなくなった。そのような私の生活ぶりは、かなりの人に伝わっているはずと、私の方では一切お年賀の義理を欠いているのだが、それでもどういうわけか、今年も20枚以上のお年賀を頂いた。

2005年に出版されている。

私の性(さが)、頂いたお年賀には、例年寒中見舞いのお葉書で済ませている。が今年は、午前中手書きで松の内に、すべての方に拝復お年賀を書いて、先ほど投函してきた。郵便局の年賀状ではなく、妻が持っていた絵はがきと記念切手を使っていいとくれたので、有りがたくもらって万年筆で一気に3時間位かけて書き終えた。私は何事も気がのらないと、一筆たりとも書けない質である。(終えてちょっとホッとしている)

私のお返事年賀は、ほとんど文字でうまっている。小さな絵はがきの半分に文字を書いているだけの短い手書きの一文だけである。頂いたお年賀はプリントされたものがほとんどで、わずかに手書きが添えられているのもあれば、まったくないのもある。

私が年賀状を出す気力が萎えたのは、まず肉筆が消えたことが大きい。上手下手ではなく、指紋、声紋、と同じように、その人にしか書けない癖が、文字には滲み出る。アルファベットは横文字、タイプライター文化、五十鈴川だよりは必然的に、タブレットで打つから横文字日本語である。

だけれども私は日本人である。私の娘たちを含め、すでに直筆でもかなりの日本人は横書きであるし、小説なんかでも横書きがある。今後あらゆる日本語が横書きなるようなすうせいである。だが私は直筆は手が動く間、文字が書ける間は縦書きに徹したい。悪筆我流だが、筆書きを私はこよなく愛す。昔(53歳の時)書家の達人石川九楊先生の[縦に書け]という本を読んで目から鱗が落ち、以来縦に書く事に決めたのである。

今でも気が塞ぐと、父が愛用していた硯に墨をすり文字を書いているとあら不思議、気持ちが落ち着く。作用、私の老人ライフはデジタルには程遠く、未来に向かっているのではなく限りなく過去にむかっている。人生の持ち時間がすくなくなっているにもかかわらず、敢えて時間のかかることをこそ、楽しみたいとという、絶対矛盾を私は生きている。

生成AIに頼めばあっというまに(生成AIは敵ではない。最後は私も多岐にわたってお世話になるかとはおもう。老いては便利にまかせる他ない)やってくれるだろう。だがまだ私は自分の手で書く幸せを手放したくはないのである。手間をかけて事を為す喜び、達成感、を私は、富良野塾と中世夢が原で見つけたのである。そして今もアウトドアバイト先で、自分で言うのもなんだが、その延長線上で、日々の達成感、幸せな晩年が送れている。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、は至言だとおもう。

再び話は変わる。いよいよ厳冬期にはいる。この連休、私は職場に我が家の薪ストーブ用の薪作りにゆく予定である。冬、昔のお爺さんは山に芝刈りにの体(てい)で、2000年に家を建て替えて以来、冬の薪の調達は私の必須仕事なのである。もう25年にもなる。継続力。

私のバイト先には常緑樹の枝が伸びて邪魔(風通しよく枝落とす、伐る)になったり、枝が枯れたりしてしているのがあるので、休日に行って薪作りに励むのである。直径十センチ以内位の枝をノコギリで30センチ位の長さに伐り、葉っぱ、細い枝は焚き付けにする。3時間もやると、かなりの薪が出来る。(薪ストーブでお湯を沸かし、湯タンポにする、したがって灯油は少ししか使用しない)

大空の下での運動を兼ねて、ノコギリを引き束ねる。もう何十年もやっているので体がコツを体得している。全身労働はお腹がすく。労働を終え帰宅、暗くなってストーブに火を入れ、冷えた体をお風呂にひたしたときの愉悦、例えようもない。身の丈に合う生活、そして健康に体が動くからこそ成せる事実に、ありがたやと、ただ呟くわたしである。


2026-01-07

2026年、一月七日、寒さを体感しながら、夜明け前に思う五十鈴川だより。

 昨日から労働に復帰しました。月曜日長女家族が移動し、年末年始まる一週間(次女家族とは3日間)我が家は怒涛のような賑やかさに包まれました。あっという間でした。

宿から撮った一枚

昨日の夜、老夫婦だけの静かな夕飯、お正月が終わったことを実感しました。が私の心と体には、3世代でお正月を迎えることができた喜び、余韻がまだ抜けてはいません。だけれども、世のなかは、すでに、一気にどころか激動の2026年の幕開けのように思えます。

がしかし、つくづく私は思うのです。このようなご時世であるからこそ、じっと揺るがない山の姿や、川の流れ、夜明け、日没、雲の流れなどを、ただポカンと眺めることの出来る、つましくも平凡な有りがたさを噛み締める自由自在を、感性をなくしたくない、のです。(スマホもお金も使うもの、逆はちょっと虚しい)

今年は2日、3日は湯原温泉で長女家族と過ごせたことが、老いの実りとでも言うしかない、初めて経験した孫たちとのお正月小さな旅は、今年もまた、地に足をつけて生きてゆく老いの覚悟を深めてくれました。

家族での、私の少年時代の頃の記憶のなかの、お正月風景とは、今は昔の有り様ではありますが、今年孫と過ごしたお正月は、時代の表面の風景は変わろうとも、移ろいゆくなかで、しかし移ろはない、大事なことが確認できたお正月となりました。

さて、今年はどのような年になるのか皆目わかりません。(世界情勢はいよいよ魑魅魍魎世界へ突入してゆくかのようですが、付和雷同だけはごめんです)ただひとつ思うことは出来るだけ静かな、カントリーライフ、本を読んで、散歩に重きをおいた労働生活がしたい。(揺るがないこと、普遍的なことににのみアンテナを磨きたい)

あるがままに流れてゆく。老境、老いの細道を堪能するための生活を、いかに一日一日過ごせるか、過ごせないのか、を思索思念、老いの小学的哲学時間を大事に生活したいと。

これまでの人生を振り返りつつ、手にしてこなかった先人たちの書物に触れて、老いの血流ををよくしたく、未知のゾーン時間を充足したい、とそのようなことを年の始めに念っています。