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2025-05-05

我が家の菜園場を耕して、春野菜を植える前の、もの想う朝の五十鈴川だより。

 私のGWは菜園場で過ごすことで日中の大半が過ぎようとしている。スパイラルアームズ岡山公演を引き受けたことで、菜園場の管理に手が回らなかったので、いま土に触れている時間がとても嬉しい。私のようなぶきっちょな人間はあれもこれもは、全くといっていいほど出来ない。

一輪のウララ(妻丹精の)

だが、抱えたものにしか味わえない、感じられない達成感、喜びがある。あの夜のハレノワでのスパイラルアームズのライブの余韻はいまだ我が体を浸している。が、青空のもと菜園場で土と触れていると、たまっていた疲れがとれて、ようやく普段の生活に戻りつつある。

今日は、終日夕刻まで妻と、菜園場で過ごす予定である。玉ねぎも収穫する。だから短い五十鈴川だよりである。ぼーっとして、本を手にしても集中力が持続しなかったのだが、昨日あたりから、(図書館にいった)ようやく本を読む集中力も戻ってきた。

話は変わるが、この年齢での、私にとっての企画をするということはどういうことなのかを、改めて考えている。70代に入り4本の企画をなして想う。言葉ではとても言い表せないが、それでも私は人間なので言葉にしがみついて、考えるしか方法がない。

人間と付き合うのは本当に骨がおれる。時に心も折れる。だがなぜ仕事でもないのに企画を持続するのか、を私は思い考える。気障だが、見えないギャラを40才から企画を始めて、ずっといただいているからだと想える。とは言ってもこのように能天気な五十鈴川だよりを打てるのは、私ごときの企画者を(いたらないことのおおい)応援、支えてくれる、これまでの人生で培ってきた友人、仲間のカンパのお陰であることを、五十鈴川だよりにキチンと打っておく。

生活的なお金は、肉体労働でいまだおぎなえる。だが私にはどこかの誰かのギャラが、人間がヒトとして幻想ではあれ、豊かになってゆくためには、支援ギャラが絶対的に必要である。今回スパイラルアームズ岡山公演が無事に終われたのは支援者のお陰である。支援者がいれば次の企画が打てる。支援者は次の企画を生む原動力である。普段の生活、暮らしのなかで、生きることを見つめ、支援者仲間と共に夢のある企画を育むために、私なりに努力したい。

私にとっては企画をするということは、その夜限りの観客、他者とアーティストを介在してコミュニケーションをする、ということなのである、ということをあらためて得心した。スパイラルアームズとその夜限りの観客を出会わせるという、お膳立てをする役割である。

一夜のライブのお膳立てに、土取利行&スパイラルアームズを、暗雲漂う現代の今、企画できたという事実こそが、私のギャラなのである。私の信頼する友人Y氏が撮影記録をボランティアで撮ってくれた。満足である。ユーチューブにアップするために撮影しているのでは全くない。



2025-05-03

5月3日、いまだにスパイラルアームズの余韻覚めやらずの朝の五十鈴川だより。

 今日から4連休である。昨日から労働に復帰した。ただひとり春の陽光を浴びながら、気持ちよく黙々と体を動かした。30日ライブの日の出来事が繰り返し頭に浮かんできて、幸せな気分で草を抜いたり、草を刈ったりした。夕刻家に戻り、ゆっくりお風呂に入り、ライブのことを妻と夕飯をたべながら、余韻会話。午後9時には床に着き、ただ寝た。今朝午前6時に起きて、メル散歩の後タブレットに向かっている。

CDにサインする土取さん

さて、今私はつくづくスパイラルアームズ岡山公演の企画窓口を引き受けて良かったとのおもいが体に充満している。正直今現在の自分の体力、気力、能力で集客できるのか、というおもい、弱気というのとも異なる、時代との私自身が抱えるズレが、よい結果にならないのでは、とのおもいが強かったからである。

だが、結論から言えば、集客できなくてもやるだけやる、と肝をくくってからは迷いは消えた。何よりもライブの記録を私は残したかったのである。それさえ残ればいいと、かんがえたのである。とは言うものの、必須アイテムのお客様がいないと一夜のライブは成立しない。

GWの谷間の平日のあの夜のライブに足を運んでくださったお客様は、素晴らしかった。限界まで演奏した土取さんのスパイラルアームズに、カーテンコールの拍手を送ったのである。もちろん、スパイラルアームズはカーテンコールに応えた。

素晴らしいオウディエンスの存在が、土取さんの最後の数分間の奇跡的な、パーカッションソロを生み出し、その事がカーテンコールに結び付いたのを私は眼底に焼き付けた。その場に居合わせたものだけが、体感できる、居合わせたものだけの波動で成立するのがライブである。企画者冥利、肝をくくって芯から良かった。これこそが私にとっての贅沢の境地、それを全身であじわえた。

話を変える。長くなるので簡略に打つ。今回の企画を引き受けたことで、私のなかの企画者としての可能性が、うまくは言えないのだが拡がって、自由自在な発想での企画をやりたくなってきている。裏方企画者に徹する喜びの深まりである。今回遠方から来てくれた、その昔土取さんのワークショップを共に体験した女性のKさんや、岡山で私のシェイクスピアの音読に参加してくれたYさんなど、次世代の企画者として有望な人たち(全ては割愛する)との再会が、私にそういう想いにさせている。企画者として一番大切なことは、感動する力、勇気、好奇心、行動力、それと対等関係の仲間である。

私は地元岡山での企画を、東京でもやりたくなっている。地方発信の企画があってもいいと思う。スパイラルアームズも含め、土取利行さんの思いを受け止める企画を、あくまでも裏方企画者として、共にやれたら【夢】である。

2025-05-01

昨夜ハレノワでに、スパイラルアームズの公演が無事に終えたことを、ちょっとだけ打つ夕刻の五十鈴川だより。

今朝京ちゃんはメルとお別れ

岡山でのスパイラルアームズの公演が終わった。祭りのあとの充実感、空虚感、脱力感、ある種の淋しさ、疲労感が体と心をおおっている。正直なにも書く気がおきない。だが実現した嬉しさ、達成感、幸福感が五十鈴川だよりを打たせる。起きてから家にもどるまでの一日、こんなにもまるで夢の中のような時間を過ごすことができた、春の夜の夢をわずかでも打っておきたい。
土取利行さん率いる、スパイラルアームズの神が舞い降りてきたかのようなパーカッションアンサンブルの昨夜の、即興演奏には、度肝を抜かれた。そのあまりのわずか3人なのに、度肝をぬくというしかない多様な世界の、打楽器の音色にしびれた。ゴールデンウィークの谷間、平日の夜の公演で、開場まで、聴衆が集まってくれるのか企画者としては、心配でしかたがなかった。だが思ったよりも開演ギリギリまで聴衆が駆けつけてくれ、かなりの席が埋まり、よきお客様の熱気がスパイラルアームズに乗り移り、スパイラルアームズの演奏がお客様に乗り移り、一時間半のライブは女性の舞も岡山のみ実現、えもいわれぬ時が流れた。 スタッフはもちろん、特筆して打っておきたいのは、私の信頼する仲間、当日ボランティアのありがたさ、素晴らしさである。いちいちのお名前は割愛させていただくが、受付、の準備から、誘導看板の設置、お客様の対応、終えてからのCDなどの物販の販売と会計、楽屋の片付けや、掃除、ゴミの持ち帰りまで。無私の裏方に恵まれたこと。(遠方からのボランティアにはこの場をかりて御礼をお伝えします) 午後10時から市内の西川のそばの居酒屋で出演者、ボランティア計16名が参加して打ち上げの宴。全員幸せそうであった。私も酔った。幹事を務めたのはもちろん福岡から駆けつけた小島京ちゃんである。一滴も飲めない瀬政さんも(2次会5名)最後までおられたことも打っておく。京ちゃんとタクシーで家に。時計は午前2時をまわっていた。最後に昨日ハレノワに来てくださったお客様に感謝し、限界まで演奏してくださった土取利行さんと人生で巡り会えたことの幸運を五十鈴川だよりを打ちながらかみしめている。(下の写真は吹屋の友人大場さんが撮ってくれた一枚です)

2025-04-30

いよいよ、スパイラルアームズが、ハレノワにやって来日の朝の五十鈴川だより。

 26日から京ちゃんが、今日の日のために我が家にステイしている。昨日の栗林公園内の建物のなかの素晴らしい景観をバックにスパイラルアームズのライブを聴きに、相談の上行ってきた。朝6時過ぎの電車で岡山へ。待ち時間カフェで朝食、7時10分のマリンライナーにのる。高松駅から栗林公園まであるいた.着いたのが9時。

友来たり、ゴールデンウィークとなる

既にスパイラルアームズの二人が着いていた。栗林公園に入り、私と京ちゃんは楽器の搬入や音響の搬入、ステージの椅子並べなどを手伝った。11時すぎには全てが完了、すぐにお昼となり、昼食後スパイラルアームズのリハーサルをじっと私と京ちゃんはみいった。約30分近くで、リハーサルが終了。13時半開場、お客様がやって来る。午後2時本番開始、3時半ライブは無事終了。ちょっとだけ物販のお手伝いをし、私と京ちゃんは再び栗林公園から高松駅まで歩き16時20分のマリンライナーで岡山へ。

着いたのが5時過ぎ、今日打ち上げするお店の場所を再び確認し、ついでにそこで夕飯とした。又もや京ちゃんにご馳走になる。19時11分の赤穂線で我が家へ。西大寺駅のそばのコンビニで、京ちゃんが我妻に、アイスクリームほかの手土産を買った。家で妻も加わり3人で、今日の最終確認をしながら歓談、楽しい時間が流れた。妻の笑顔、私は幸せであった。

最後に昨日のライブ演奏。老人の血が騒いだ。思わず踊りたくなり、とてもではないが、座っては居られなかった。わずか3人での演奏とは思えないほどの、緻密で堅牢で豊かなリズムが響き合う、多種類のパーカッションの交流即興演奏にしびれた。あの演奏が今夜ハレノワで岡山の聴衆とともに体感できる。岡山引き受け窓口を受けて本当に良かったと、春の朝の陽射しを背中に浴びながら想う。


2025-04-28

一昨日と昨日の行動をスケッチ、記録的に打つ、五十鈴川だより。

 26日午前10時岡山駅に着いた京ちゃんをピックアップ。瀬政さんと私の3人で猪風来美術館に向かい、私が運転しお昼について、途中道の駅で買った、お弁当で猪風来さんご夫妻と昼食をとり、午後少し野焼きの準備を手伝った。瀬政さん京ちゃんも。

午後2時過ぎ土取さん一行、スパイラルアームズが到着、猪風来さんと土取さんは打ち合わせをしたのち、猪風来美術館から車で20分、その日の宿である吹屋の元仲田邸に移動、我々3にんも。午後4時前に着いた。

元仲田邸は昔の造り酒屋の主の豪商の明治時代に建てられた大邸宅である。その貴重な建物をを宿に作り替え、吹屋が誇る宿泊施設である。そこの仕掛人で、一切合切を取り仕切っている大場さん、私の友人が温かく迎えてくれた。早速湯を浴び、夕飯までのひとときを、明治の建物の風情が色濃く残る2階建ての離れの別次元に誘われる別邸で、新緑の山郷を望みながら、おのおの自由にくつろぐ。何と大場さんが私と京ちゃんにビールを振る舞ってくれた。瀬政さんはお茶を。2階からの眺め、部屋の古い調度品に囲まれ、タイムスリップ、京ちゃんはご満悦であった。京ちゃんの笑顔が嬉しかった。

夕刻6時半から、6名での夕飯。地元のおばあちゃんお手製の吹屋の食膳を頂いた。全て美味しかった。食後の吹屋の焼酎、京ちゃんが持参した泡盛を、私を含めて4人は飲み、私は久方ぶりに酔って語った。お酒を飲まない土取さん、瀬政さんも、酒宴、談論風発時間の輪に付き合ってくれた。意外な組み合わせの、一期一会の歓談の宴に大場さんも途中から加わりヒートアップ、愉快な山里の夜は更けて午後11時お開きとなった。

現場で体感、見学、感動した。

翌朝朝食前、最高の別邸で6時、早起きの私に大場さんがコーヒーをいれてくれくつろいでいると、瀬政さんがやってきた。7時土取さんが加わり、大場さん、瀬政さん、私の3人は土取さんの途切れない貴重なお話に耳を傾けた。。発端は別邸にかけられていた一枚の変色した写真から始まった。8時が来て、朝食をすませチェックアウトも済ませ、再び別邸で土取さんの話に耳を傾けた。内容は割愛する。

10時過ぎ大場さんの先導で吹屋に移動、弘兼邸を駐車場から眺め、吹屋の大場さんのやっている紅やというカフェに車をおきほぼ一時間ベン柄の里吹屋の目抜通りを散策し、大場さんのカフェで少し休んで、そこから大場さんが道を途中まで先導、猪風来さんの野焼き祭り見学に移動する。お昼に到着、快晴のもと順調に野焼きは進んでいた。

着いたときの野焼き、のろ場の温度はすでに600度、そこから約1時間半で900度まであがり午後2時、予定より1時間早く野焼きは成功無事完了した。終了したことを祝い、作品を作った人たちを中心に数十人で輪になって踊った。私もちょっとだけ輪に加わった。輪に入ってよかかった。土取さん短時間ではあったが見学したことで、秋に望める。スパイラルアームズの二人も野焼きの現場をしっかりと確認したので、私としては大いに安堵したことを、五十鈴川だよりに打っておく。

午後2時半、スパイラルアームズは香川に移動、我々3人は岡山へ、途中まで賀陽の道の駅でコーヒータイム、瀬政さんを岡山で下ろし我が家に5時前に着いた。妻の御許しを得、5時18分の電車で岡山へ。駅前の居酒屋で京ちゃんと飲み語る。20時4分の電車で家に戻る。妻も暫し参加して3人でのひとときを過ごしたのち、最後はふたりで京ちゃん持参の美味しい泡盛を戴く。午後10時お開き。とも遠方よりきて助っ人になる。一泊二日の旅、そのありがたさがしみた。その事を最後に打っておく。


2025-04-26

明日、猪風来美術館でおこなわれる春の野焼きを見に行くまえの、短い五十鈴川だより。

土曜日の朝が来た。明日は新見の猪風来美術館で春の野焼きがおこなわれる。今日は土取さんも午後新見にやってきて、明日の野焼きを見学するので、今日は吹屋に泊まる。めったにない機会なので、私も共に行動することにしている。ちょっと時間があるので記録もかねて五十鈴川だよりを打っておく。

咲き始めた今朝の我が家のもっこうばら

博多の盟友京ちゃんが、午前10時に岡山に着き、ピックアップして、瀬政さんと3人で新見に向かう。とも遠方よりきたる。従って我々3人も土取さんとともに吹屋に泊まることした。(偶然が重ならないとこのようなことにはならない、人は物語を紡いでゆく生き物である。特に私はそのような傾向があると、自覚認識している。企画をすることは、ある面物語を紡いでゆく裏方なのであるのかもしれない。この世に生を受け、あの世に召されるまでの、偶さか時間を、出遭えた息の合う面々で、夢を紡ぐのである)

猪風来さんは新見に移住、以来20年にわたって、毎年年、春と秋の2回野焼きを行っている。不徳のいたすところ、私は猪風来さんの野焼きを見たことがない。秋の20周年特別企画の企画協力を依頼されたものとして、なんとしてもこの春の野焼きをこの眼でみておきたいのである。今日は明日の本番を前に、猪風来さんたちはその準備に追われていると思うので、できる限り、お邪魔にならないように、とは思っている。

とここまで打って、他にはなにも打ちたいことがなくなった。とにかく明日の野焼きの本番がどのように進行してゆくのかを、しっかりと見守りたい。それだけの今朝の五十鈴川だよりである。

2025-04-24

回らない頭で、谷口英久さんにお礼を伝え、想う春の宵の食後の五十鈴川だより。

午前中の肉体労働が終わり家に戻ると、またもや伊豆大島の谷口さんから4月30日のスパイラルアームズの打ち上げようのお酒が届いていた。麦から芋へ。

お礼。その事さえ打てば、もう私はなにも打つことはない。正直もうほとんどなにも打つ気にならないほどに、気もまわらず五十鈴川だよりを打っている。

なにせ、夜食後に五十鈴川だよりを打った記憶がない。だが、今宵は打っている。谷口英久さんにお礼を一言打ちたいがための、五十鈴川だよりなのである。

だが、単にお礼を打つだけでは、もったいないという、老いたりとはいえ、純な気持ちが私にはまだあって、蛇足の感謝を伝えたいのである。そういう気持ちに私がなるのは、添えられていたお手紙が素晴らしいからに他ならない。

話は変わるが、今回スパイラルアームズを引き受けたことで、枚挙にいとまがないくらいに、次から次に、劇的な再会がいちいち記すことができないほどに出来している。その事の筆頭が谷口さんとの再会である。くどくどとは今宵はもう触れない。本番を目前にしてこれ以上打つことは控えるが、スパイラルアームズの今回の企画は、はこれからの私の老いの前途を照らしてくれるように思えてならない。

その事に関して老いのおき火が、今後どのように変化してゆくのかは、いまはまだなんとも私にもわからない。本番を終えて、かならず私の体と心が、何かを見つけてくれる予感がする、としか今宵はいえない。

とまれ、話は変わるが、あたかも恥ずかしいというしかないが、たった一杯のハイボールのせいかもしれないが、生きているということのなんたる神秘に、殊勝な気持ちに誘われるのはきっとまだまだ私が、巌と生きていることの証左ではないかと肯定感に浸れるからである。ともあれ酔うのは勝手だが何事も実現しないと、砂上の楼閣である。老いの可能性を、谷口さんのご神火のスピリッツを口にして想う春の夜である。