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2024-11-24

晩秋、お日様の日差しを浴びて、町内の溝掃除をした後、五十鈴川だよりを打つ。

 人の体、心は日々移ろい、生まれ変わり、生き返る。40才で岡山に移住して、心からやりたい仕事として、まさにやりたいことができる場所として、我が人生で巡り会えたのが【中世夢が原】である。そこで22年間も働けたことが、来年の土取さんへ向かえる、大きな支えである。

原野さんが10才で創った絵本、凄い

61才で中世夢が原を辞して丸12年、土取さんから私にとっては、身に余るお声かけをいただき、無知蒙昧であり、現世をいきる俗人の私が想うことは、40歳から企画者として一から中世夢が原で働き始め、なんとか22年、毎年様々な企画を実現してきたことの、下支えが、やはりあるからだと想う。自分が心からやりたいと思った企画は叶ってきたという、言わば根拠のない自信である。


だがあれから12年、時代の表層は全く異なっている。人工知能と人類の共生、狂気のボタン、核兵器がいっぽ間違えば発射されかねない状況があまりに不気味である。無人戦争兵器の開発競争、でくの坊の私にはあまりにも複雑怪奇な狂気をあおっているとしか思えないような、多国、地域での続く終わりの見えない戦争。

私自身の体も平和ボケしている認識がある。(だが私は戦争で他者を殺すよりもボケる平和、自由をこそ私は望む)そのような現代世界のなか、土取さんのスパイラル・アームズ、土取さん猪風来さんのコラボレーションは、まさに一瞬の閃光のように時代の閉塞感に風穴をあけ、なんとも言えない嫌な感じを照射すると確信する。その事が私を熱くする。

気候変動による、地震、火災、ゴミ、食料、人工、あらゆる人類問題山積課題、出口が見えない閉塞感の高まりが、おそらく全人類の心あるあまたの人々の心をおおっているのでは、とでくの坊は想像する。目も耳も塞ぎたくなるような、映像をいやでも瞬間瞬間見せられ続け一方的な報道を聞かされ続ける、私を含めた多くの庶民生活者の心が思考する回路が麻痺、いたずらにただ大きな流れに流されてゆく。このままでいいのか、いけないのか、何よりも自分自身が問われている。

絶望的閉塞感、出口なし時代、老人の私にとっての救いは、私より年長の孤高の芸術家、土取さんと猪風来さん、お二人との仕事を共有できるありがたさである。時代遅れ、時代についてゆく気もないでくの坊老人ではあるが、この私にとっての大きな企画が、来年無事に終わるまでは、健康で元気第一で望まねばとの思いである。

孤高の芸術家にほど遠い、孤低の俗人である私がやれることは、まず原点に帰る。夢が原で培ったことから始める。次に若い世代から学びながら、若い人たちにバトンタッチしながら、想像力を拡げ、これまでの方法とは異なる、多世代でのタッグを私は夢見る。

話は変わるが。私は夢が原で働き始めてから、夜眠れなかったことがほとんどない。70才、古稀を過ぎてからいまも、ありがたいことによく眠れる。お昼寝も入れ、ほぼ平均8時間寝ている。寝ないと私はダメである。日が沈んだらもう私の体は、まるで老人である。思考がほとんど働かない。だが不思議と一晩ぐっすりと眠れば、お日様が出ている間、特に午前中は五十鈴川だよりも打てるし、何よりも労働ができる。午前中、晩秋、初冬の日差しを浴びての労働時間は、私にとっては至福の思考時間である。動き働ける間は、土取さんと、猪風来さんとの関係性をより深め、何よりももっ謙虚に学ばねと、自省する。

今年は、11月に予定していた韓国への旅を断念することにしたのだが、12月半ば頃までには、両親のお墓参りだけはしたい。

2024-11-23

晩秋、来春土取さんの、スパイラルアームズ(ハレノワ)の公演、秋の猪風来美術館でのイベントに想いをはせる五十鈴川だより。

 休日だが、ほぼいつもどおりに起きる。五十鈴川だよりと銘打ち13年目に入っているかと思う。その間なん十回と打っているかと思うが、夜明けの、晩秋のこのなんとも言えない静かな一時、一人時間が私は好きである。部屋に差し込む光を浴びる。

静かに、珈琲をのみながら、どのような一文がつむぎだされてくるのかを、待つひととき、ささやか、いまここに存在している、生きていることのありがたき嬉しさに、でくの坊は想いを巡らせる。

猪風来美術館を是非訪れてほしい

もう大きな企画は打たない、打てない自分を自覚していたはずであるのに、精神的自給自足生活を過ごしたい、という老人ライフに軸足を移したタイミングに、よもやまさかの土取さんからのメールで、言葉にならないような日々を過ごすことになろうとは、私自身想いもしなかった。自分のいいかげんさにどこかあきれてもいる。

18才から世の中に出て幾年月、寄り道人生を、よたよたととぼとぼと歩み続け、いささかくたびれ、もう十分やり尽くした、このいまわの際の決意を、土取さんと猪風来さんはあっという間に覆してしまった。それはなぜなのであろうか。とてもではないが、言葉でもっては語りきれない。

確実に言えることは、土取さんとの出会いからの、関係性での蓄積と、猪風来さんとの、ご子息が召されてから後の、数度の関係性の深まりが、この未曾有の企画だけはなんとしても、という念に駆り立てられる。

お話をいただいて、十分老人を自覚している私のなかに、自分で言うのも気恥ずかしいが、タッグを組む相手次第で、時おり年齢を忘れたかのようなエネルギーが、どこからかわいてくるのが救いである。先日、五十鈴川だよりにコメントをいただいた松田さんが、私の行動にある種の執念を感じるとの指摘を受けたのだが、過分な言葉である。ハムレットが言うように、友人に頼まれたからである。

ともあれ、賽は自分に向かって投げられた、というようなおもいにとらわれながら、平日は普段どおりに労働しながら、できるだけ血の巡りをよくするように心かけ、思い付くことを昔夢が原でやっていたように、ノートに書き付けることから始めている。日本人のほとんどは、12月には入ると師走モードになるので、その間に私なりに時間を無駄にせず、有効に動こうと思っている。

音読は一人でもできるが、企画は仲間が絶対に必要である。突然の私のアクションに、縄文、えっそれ何?と。これまで私の企画や活動を応援してくださった方々も、正直に色々な反応をいただいている。無反応な方もおられる。それでいいのである。

中世夢が原を退職した後、土取さんからの依頼で2012年に、私の住む西大寺の観音院と、玉島の円通寺で企画した【添田唖蝉坊・知道】親子2代、明治大正演歌を歌う(あのフリージャズのパーカッショニスト土取利行さんが、おなくなりになったパートナーの桃山晴衣さんの三味線を弾き歌ったのである、心底驚いた)は、それまでアフリカ他、私が企画したイベントに足を運んでくださった人たちの、ほとんどきてはもらえなかった。

あのときはほとんど協力者がおらず、受け付け他、妻と長女が手伝ってくれ、なんとか乗りきったが、いまとなっては、個人でよく引き受け実現できたものである。でも今回は違う。反応が思いの外多く、その事が私には、意外といったら失礼だが、真摯にわがこととして受け止め、何が出来るのかわからないけれど、と、控えめながらも熱を感じる。鳥取在住のMさんは直感で身に余るコメントもいただき、応援カンパも身に余る。祈り、念じれば伝わるのだ。

来年は2025年である。土取さんと13年の時が流れ再び共に仕事がやれるとは、青天の霹靂思いもしなかった。土取さんはフリージャズから出発し、古代サヌカイト、縄文鼓、弥生の銅鐸、ピーター・ブルックの国際演劇センターの音楽監督を40年以上、一口では語れないほどの多面的な音の探求者である。来年春4月3人でのパーカッションユニット【スパイラルアームズ】、秋は10月、猪風来さんとの縄文でのコラボレーション。お声かけしてもらって、正直呆然とするが、もう後には引けない、のだ。

土取さんは前人未到の分野を黙々と歩む、音の旅を続ける現在の稀人、異能の人である。猪風来さんも唯一無二の縄文一筋50年、現役の世界最初の縄文土器造形作家である。お二人とも芸術家、音の放つ神秘的力、縄文土器の燃え立つ美に全生涯を打ち込んいる。私にできることは、一人でも多くの未来を切り開拓(ひら)いてゆく、生きてゆく(ゆかねばならない)若いか方に一人でも多く告知し、足を運んでもらいたい。年寄りだが資料持参で動くつもりである。

PS  11月からの五十鈴川だより、一人でも多くの方にお声かけ、拡散をお願いします。



2024-11-20

匿名の五十鈴川だよりへのコメントに答え、労働仲間Kさんのの応援に感謝する今朝の五十鈴川だより。

 11月4日、香川の大鹿さんから突然のメールをいただき、私のなかでは時間がまさに一気に流れて、ようやくちょっと落ち着いて五十鈴川だよりを打てるところまでは、きたという感じがからだをつつんでいる。

脱帽する猪風来坊美術館の活動記録

今朝の五十鈴川だよりは、先日猪風来美術館を訪ねた際のことを打った五十鈴川だよりに、ひさかたなかった匿名のコメントに対する、返信を兼ねている。私は生まれて初めて多いときには、ラインで繋がっている(ラインでは繋がってはいないが、大切な方もいる)20名以上の方々に、失礼も省みず、一斉送信なるものを試みたのだが、いまやってよかったという思いである。

一行であれ、絵文字だけであれ、20名に近い方々から、何らかのリスポンスが寄せられている。五十鈴川だよりにコメントをいただいた方を含め、私の想いや声かけに、反応してくださっている方がたにたいしての、これは私からの現時点でのお礼の五十鈴川だよりである。

企画者の端くれとして、なぜ高齢者のいま企画を打ち続けているのか。すでに打ったが、話が土取さんからのお話であり、そのご縁で猪風来家族の壮絶な歩み、まさに人生をかけて取り組まれた縄文世界探求の旅を、まさに時空を越えて、縄文人が蘇ったかのような人間に出会えたことの幸運が、企画を打たせる。一言、土取さんの企画、猪風来さんの企画を、我が事として共有し、その企画の輪に加わわりたい。(加われる幸運)

タイミングというものがある。体が脳が反応するタイミング。この年齢ならばこその反応と言い換えてもいい。もう私には何も怖いものがないのである。いまなら間に合う。全勢力で取り組める。体は高齢者ではある、がお金のことは(企画には時に家庭生活を脅かすほどの決断を強いられることがある。個人で企画するのだから)ともかく、いまの私は働いている(パートタイマーではあるが)これまでの人生でもっとも心と体が自由なのである。余裕があるといってもいい。

その私の 念いの輪を汲んでいただけるような仲間、メンバーがこのようにたくさんいてくださることが、とにかく私は心強い。老いのワクワク。これらのの仲間と共に、高い山に登る。私の肝は決まっているが、企画は一人ではできない。緩やかにこれらの仲間と、肝胆相てらしながら、様々なアイデアを持ち寄り実践し、関わるすべての仲間の情動がお互いが出会うことで、活性化する事がなんとしても大事。

肩書きや、経歴はまったく関係ない。この輪のなかに入り、何よりも自分が楽しいと思える感覚を共有できる仲間と(旧知の仲間ともきっと新しい関係性がより深く築ける予感がする)新しく私は出会いたい。

ここでいきなり話は変わる。長くなるから簡単に。共に労働して2年8ヶ月、仲間のKさんがいる。ウクライナの音楽を聴きに来てくれ、翌年の沖縄の音楽家、そして今年のマルセを生きるでは裏方として私を支えてくださったかたである。(その上チケットつきのカンパまでしてくださった)そのかたから何をしたらいいですか、とのメールをもらった。私は返信を打った。

そして昨日、私が猪風来さんからいただいた資料の数々を職場で見せると、パンフと猪風来さんのおなくなりになったご子息、村上原野さんが10才の時に書いた絵本(絵も文章も直筆、とにかく現代文明を根底から照射する、スゴい)を読みたいから貸してくださいと、持ち帰ったのである。

企画をなぜするのか。その答えの一部が私に返ってきた瞬間である。正直、今回の企画に彼が反応をするとは思わなかったし、私も無理して誘おうとは思わなかったのだが、意外といっては失礼に当たるが、本当に嬉しかった。

仕事ではなく企画に関わる一番の醍醐味は、やはり思っても見ない出来事が出会いによって生ずる、その事が私をしてきっと活性化する。この年齢でもにわかに、意外なことがわきおこる。それをして私の活性化、高齢者の贅沢時間とする。

来年の土取さん、猪風来さんの企画に向けて、県内の仲間、県外の仲間いずれも7~8人と連携、関係性を深めながらゆっくり進めてゆきたい。

2024-11-17

晩秋、猪風来美術館を訪ね、猪風来さんと語り合う、そして想う五十鈴川だより。

 年齢的な、たぶん疲労が体の奥から聞こえてくるが、何やらの打ちたい、打たずには余計に体が、変な疲れがたまってゆくように思え、今朝も打つ。

このような本を出されていたとは

さて、昨日五十鈴川だよりを打ち、朝食を済ませ、ひさかた訪ねていなかった、新見の法曽にある猪風来美術館を訪ねた。9時半すぎ家を出てちょうどお昼過ぎに、猪風来坊美術館につくと、猪風来さんが広い敷地の中央でたたずんで待っていた。そのたたずまいに、氏のこれまでの人生が凝縮されていた。

それから私は美術館を辞するまで、ほぼ3時間半、初めて膝を交え、猪風来さんのお話に耳を傾け、猪風来さんが、満を持して来年の秋にやる企画イベントに耳を傾けた。成り行き、あらましは土取さんから、伺ってはいたが、私としては何はともあれ、猪風来さんから、直接お話を聞きたかったからである。

(お昼、美味しい茹で玉子、美子さんお手製ののお結びをいただきながら、時おり合いの手をいれながら、ただ私は猪風来さんの念いに耳を傾けた)午後3時半過ぎ猪風来美術館を後にし家に6時についた。往復5時間の運転、現在の自分の体力も確認できた。

結果、昨日猪風来美術館を訪ねて本当によかったというおもいが、今朝私に五十鈴川だよりを打たせる。語らったことの、わずかでも打たずにはいられないが、それはまず無理だというおもいの方が先立つ。とは言うもののやはりその歯がゆさ、自分の能力のなさをいいわけにはしたくはない。

猪風来さんとの語らいの最後に、氏の造形縄文土器作品、奥さま美子さんのいま展示されている(11月1日から来年2月末まで)タペストリー作品、そして5年前あまりの若さで他界されたご子息原野さんの作品を猪風来さんに説明していただきながら、あらためて見いったのだが、その作品の放つ純粋な魂の息吹、に圧倒された、ことを一行五十鈴川だよりに打っておく。

そのひとつひとつの作品に込められた親子の縄文土器作品、美子さんのタペストリー、分けても、原野さんの遺作となった(完成してすぐ倒れられたとのこと)縄文のヴィーナスは私などの素人が見ても、あまりの造形美に、まさに時空を越えて縄文人がよみがえってきて、創ったのではないかと、思わせられた。(すべての作品に命への讃歌がねりめられている)現代人が失いつつある、命への畏敬の念の消失。

話は変わるが。猪風来さんから土取さんへ、来年秋のイベントのお話があり、そのお話が、私に伝えられるということがなければ、まず猪風来さんのお話を、何はともあれ聞くことから始めたいという、私の直感は正鵠を得たものとなったことを痛感している。

企画者の端くれとして、ささやかに可能な限りいつも続けていることは、アフリカでも、インドでも、沖縄でも、とにかく現地の臭いを嗅ぐ、土の臭いを、風を感じる。頭ではなく体で感じることから私の場合始める。

長くなるのではしょるが、年が明け、話が具体化する前に、現地で猪風来さんとお話ができたことは、有意義というしかないひとときとなった。もう大きな企画は無理だと思っていた私に、私より年長者である土取さんや、猪風来さんが、まさに命がけで生涯取り組んでこられている(こられてきた)いま現在の企画に声をかけていただいたありがたさが、今朝の体を包んでいる。

命の時間は有限である。土取さんや、猪風来さんの仕事に、少しでもお役にたつために、何ができるのかを、虚心に自分に問いながら、微力を尽くす覚悟である。

PS 企画者として、いただいた、猪風来さんのご本、原野さんの小説、資料、じっくり読み込みたい。

2024-11-16

11月13日、14日、土取利行さんと二日連続して、語り合える時間が持て、そして想う。

 土曜日、お休みの朝である。13日夕刻高松の駅のそばのカフェで、14日午後一時から、岡山は奉還町のカフェで土取さんとの打ち合わせ、そして何よりも旧交をあたためる貴重な時間を持つことができた。

1999年の出版、時代の先駆け

高松は私だけであったが、奉還町での打ち合わせには、香川からOさん、瀬政さんと義理の息子さんのSさん、それにハレノワのWさんが(私がお声かけした)急遽土取さんにご挨拶したいということで、計5名での、打ち合わせをかねた実りの多いカフェ時間を過ごすことができた、旨五十鈴川だよりに記録として残しておきたい。

細々、長くなるからはしょるが、来年春、土取さんが再結成したパーカッショングループ、スパイラルアームの公演場所を、先ずは岡山のどこでやるのかということと、日時を決めるということが話し合われた。

その件、予定していなかったハレノワのWさんが急遽短時間ではあったが、参加され、Wさんがまだ東京のセゾン劇場でお仕事をされていたときに、土取さんとは面識があり、他ならぬ土取さんなので、一肌脱ぐことになり、ハレノワの小劇場に春空きがあれば、ハレノワでやることに、話がすんなりと決まったのである。私としては、年内に場所と日時を決めるということからスタートだと考えていたので、思わぬ展開に幸先良し、と安堵した。

来年春のスパイラルアームの公演は、名古屋、京都、岡山、香川での4ヶ所でやることが決まった。そのひとつ岡山での公演を私が引き受けることに。後は名古屋から始まるツアーとの日程調整である。全体のマネイジメントは(共通フライヤー他)香川のOさんがする。

来年秋の、猪風来縄文美術館での公演に関しては、猪風来縄文美術館が来年オープン20周年を迎えるので、その記念イベントとして土取さんと何かやりたい、と猪風来さんからの依頼企画なのである。猪風来さんの思いを新見市が日時他まったく現段階では決まっていないとのことが、土取さんから聞くことができた。春のスパイラルアームの公演はあくまで土取さんの企画、縄文は猪風来さんの企画である。

猪風来さんの企画の思いを、新見市が先ずはクリアーした後、動き出すとのことで、現時点では来年の秋の日時もまだまったく決まっていないとのことなので、現時点ではそれ以上の展開にはならなかった。いずれにせよ、土取さんからO氏を通じてスパイラルアーム岡山での公演依頼メールがきたのが、11月4日、その日からまさにあっという間に、今日がきている。

もう大きな企画をやることはないと打った矢先の、我がいい加減人生の急展開、それもこれも土取利行という稀有な人間との出会い、交友(交遊)の蓄積の上に降ってきた、ありがたい出来事として受け止め、土取さんが活動するかぎり、私も土取さんとの仕事だけは引き受ける腹を決めたのである。

土取さんが何に突き動かされて、次から次に多面的創造活動を持続する能力には、時に畏怖しおののきもするが、ありがたき事と受け止める腹を決めたときに、私らしく引き受けるしかないとかたの力が抜けたのである。

それにしても、外見は年相応なのだが、話し出すと演奏するように淀みなく言葉が溢れる。そのエネルギーの根元は謎である。芸術への見果てぬ夢、限りない愛とでも言うしかない、と言葉にしてもせんないが、言葉にして五十鈴川だよりに打たずにはいられない。ひさかた、土取さんの変わらぬ言葉のつぶてを浴びて、前向きにたたずむ私がいる。



2024-11-13

辰年私の干支、残り一月半の朝に想う、五十鈴川打より。

 還暦から12年、考えてみると私の干支は辰年である。あまり験担ぎとかはしない私なのであるが、やはり年なのか、そういえば辰年、なのだなあ、とある種感慨深くなるのは、土取さんとは、やはりこういう巡り合わせなのかもしれないとの、タイミングの奇縁にある種の自分にしかわからない、想いが沸き上がるからである。

3月23日からマエストロに聞けが始まり、平行してマルセを生きるの企画を進め、合間4月土取さんの香川でのサヌカイトの演奏会を聴きに行き(その事は4月19日の五十鈴川だよりに書いている。是非読んでもらえると嬉しい)、長くなるのではしょるが、共演したチェロ奏者(これまたすごいというしかないない演奏者)エリック・マリアと土取さんと、私の3人で、一枚記念写真を撮った。 その一枚の写真は、土取さんが幼少期を過ごした多度津に近い空海ゆかりのお寺で、サヌカイトの演奏会の翌日、チェロのエリック・マリアが、空海に奉納する演奏会(関係者のみが聞き入った)おこなわれた後、私と土取さん、エリック・マリアとの3人で記念の写真を撮った際に、(なぜか私が真ん中)なにかまた企画をすることになるかもしれないと思ったからである。土取さんからの依頼を受けたときに,何故かそのことが思い出されたのである。 話は変わるが、69才になって一月後、私は人生ではじめて大小併せて一度に3回の手術を体験し、無事に3月23日生還、退院しあれから3年、まもなく3年8ヶ月になる。退院後、3ヶ月に一度の定期検診を続けているが、今日は午前中その検診日である。(というわけで五十鈴川だよりが打てている) あのとき、手術を受けた際に感じたこと(悲しいかなヒトは自分のことして体験しなと何事もわからないのかもとの苦い認識)、命について以前にもまして、ずっと深く考えるようになったことは間違いない。生きているだけで、とにかくありがたい、という感覚を3ヶ月事におもい出すのだが、その事を私はありがたく想う。 コロナのもっとも大変な時期に、よき先生に恵まれず、手術が遅れ、タイミングが悪かったら、きっと私は今ごろこのように五十鈴川だよりを打ってはいない。退院後、本当に私は以前にもまして(自分で言うのは気恥ずかしいのだが)、年齢的に、一日一日を大切に過ごすようになった。70才でウクライナの音楽家、71才で沖縄の音楽家、今年はマルセを生きる、古稀を迎え3年連続企画をすることが叶ったのは、私にとってのはじめての大きな手術体験がなかったら、まず実現しなかったに違いない。 また、この間新たにふたりの孫が私に与えた命の精妙さの(今も)不思議、命のはかなさ、フラジャイルさ、だからこその尊さを、老いの身に知らしめる。だがよきにつけあしきにつけ、ヒトは忘れる。私もまたそうである。また忘れることもまた重要である。その絶対矛盾の狭間を私はたゆたっている、という認識から逃れられずにいる。(自己正当化だとも想う)だがヒトは己の運命を受け入れ時に抗い、いやでも生きてゆく他はない。 話を戻す。そこで降ってきた土取さんからの依頼、正直私の今の生活のなかで、何が可能か、創造的に関わるには、、、。これまで何回か土取さんを企画してきたが、あの頃とは時代はまったくといっていいほどの、変容ぶり、私ごときに何が可能か。単なるお手伝いではなく、老いのみだからこその役割を想うとき、孫たちがそっと私の背中を押してくれるような気がしてならない。それは私の孫たち、という狭義の意味では毛頭ない。 未来の人たちのことを想うとき、私の理解や想像を越えた未来を感知しているかのような、単なる音楽家という範疇を、ずっと昔から真の意味で逸脱するアーティストとしての歩みの集大成的な、土取さんからのアクションに(それは猪風来さんも同じである)私もまた心から参加したい、かかわりたいとの意気を見つけたのである。正直、第一報メールをいただいたときは、ハムレットのように揺れたのである。 だが、いま私の心はゆれていない。これは仕事ではない。生活者としてずっと企画してきたというささやかな自負がある。小さな企画であれ何であれ、腹落ちしないと私の場合エネルギーはわいてこない。明日土取さんが岡山にやって来る。すべてはそこからである。

2024-11-10

晩秋、老人は荒野を目指す、【マエストロに聞け】参加者からの予期せぬリスポンスに励まされる今朝の五十鈴川だより。

 すっかり日の出が遅くなった。晩秋のこの季節が私はことのほか好きで、分けても休日の朝の静かな時間帯をこよなく大事にしている私である。昨日、ちょっと土取さんとの出会いなどを、五十鈴川だよりに打ち、長くなりそうだったので、続きは明日打つことにしたら、あっという間に、今朝が来たという次第。(昨日午後玉ねぎの苗を300本植え、頭を冷やした)

岡山に移住する前の宝のポスター

昨日午前中、五十鈴川だよりをアップした後、ラインで3日連続ロングメールを打ったのだが、わずか一日で、新たに何人ものかたから、応援メールをいただき、それぞれのかたには、今日を含め、返信メールを打たねばとは思っている。

瀬政さん、河合さん、京さん、ヤナセさん、大場さん、Iさん、Yさん、Mさん、Gさん、Nさん、Wさん、Aさん、Hさん、娘二人を加えると、15名のかたから、励ましや、何らかのお手伝いを(皆さんそれぞれの生活を抱えながら、困難な時代のなか)したい、遠方だけれどなにか力になりたい等、メッセージが寄せられている。

ロングメールの度に、ショートリスポンスをくださるかたもいて、短長の文面ではあれ、その方のお人柄の現在感覚(人はそれぞれの場所で変容しながら生きている)が自ずと浮かび上がってきます。(五十鈴川だよりを打つものとして、応援メールをくださったかたに、この場を借りて心からお礼申し上げます)

すべてありがたく、アクションを発信しなかったら、決してこのようなリアクションはいただけなかったかと言うことを勘案すると、改めて私はなぜこのようなアクションを起こしているのだろうと考えなくもありません。仕事でもなんでもなく、ただ土取さんからの依頼だというだけで、この年齢で、なぜかくも心がざわめきたつのかは、やはり土取さんだから、というしかありません。

土取さんのことを知らない、知ってはいてもまったく関心のないかたには、脳が動かないのが当たり前、それが自然なのである。私としては、反応のある方々との裾野が拡がってゆく、見果てぬ夢を面白くいきる、ささやかでも粋のいいエネルギーを結集したい。金銭等の力もさることながら、私を含め、いっぱいいっぱいの日々の生活のなかでの、このようなリスポンスこそが、私にエネルギーをくれ、ある種の思いもかけないアイデアが浮かぶ、ぎりぎりをサーフィンする、面白がる。

リスポンスのなかでとても嬉しかったのは(全部嬉しいのですが)今年3月から、おおよそ4ヶ月、10回程度シェイクスピアのリーディング音読、【マエストロに聞け】に参加してくださったかた、(河合さん瀬政さん以外の参加者)3名からリスポンスがあったことである。

その中のひとりHさんからのリスポンスは、まったく意外で、これだから人間は面白いと言う他はない。このかたは、シェイクスピアのリーディング、カラオケの延長みたいに、とにかく声が出せればいい、ただ音読してみたいくらいの、のりで参加されており、私のようなシェイクスピアへの偏愛はまったくない方でした。その上お仕事の都合等で毎回の参加は非常に難しい方だったのですが、レッスンに参加された時は、つっかえつっかえしながらも、必死に声をだされていたのがとても印象に残っているかたなのである。その思いもかけないかたからの、わずか一行、いただいたメールは、私を感動させました。

私はイデオロギーも何もなく、根のある風のように生きて行ければそれでよし。ただし、これはという友達のためなら、ハムレットが言うように、例え藁しべ一本のためにも腹をくくって挑む(これはあくまで理想です)。という生き方に憧れる。(多分に父親の影響もある、誇りをもって人がやりたがらないことをやれという、言わば家訓のようなもの、私はとても古い人間なのである)

生来の感動するバネのおかげで(ありがたいことに)なんとかこの年齢までたどり着き、いまこのようなお話を土取さんからお声かけいただけているのだとの認識がある。Hさんからの一行のリスポンスが私に五十鈴川だよりを打たせる。Hさんとはお茶を飲んだこともなく、我が家に来ていただいたこともなく、お話をしたことさえありません。だけれども、きちんと生活されておられる方、というのが今も私のHさんに抱いている印象である。

マエストロに聞け、のレッスン、(今現在の私の中から湧いてくる情熱のすべてを出し切ったので、思い残すことはない)いただいたメールふたり目、Yさんは、うちの長女と同世代、二人のお子さんを抱え、お仕事子育て真っ最中なのに(いつの日にか時間がとれるようになったら再びレッスンしたいとのこと)私のレッスンに果敢に挑んでくれ、とてもよい印象、磨けば変身する可能性を感じさせる方でした。時間の許す範囲で当日スタッフとして、とありました。3人目男性Gさんから昨日いただいたメール、これまた前向きな応援メールでした。

【マエストロに聞け】全10回のレッスン参加者からいただいたメールを読み、想うことは、シェイクスピアのリーディング音読を通じて、なにがしかの私の存在意義のような思いが伝わったからこそいただいた応援メッセージだと、改めてレッスンをやってよかったと思う。

人と人との関係性の深い構築は、一朝一夕に叶うものではなく、お互いをさらけ出し、ぎりぎりのところで踏ん張る力をその人なりの力で、おりおりは致し方なくあきらめながらも、再び力を蓄え果敢に挑んでいくことを繰り返した仲間との共有関係のなかでしか育み得ないというのが、私の正直な認識である。

そういう意味で、今年マエストロに聞け、がなかったら出会えなかった方たちからの応援メールは、私の土取さんとのコラボ実現に向けて新しい風を運ぶ。当たり前だが、ドアを叩かないとドアは開かないし、ドアを開かないと新しい風は入ってこない。河合さん、瀬政さん含めマエストロに聞けから5名もの応援前向きメール。やはりシェイクスピアは守り神である。ワクワクときめかないイベントは、ごまめの歯軋り、私にはできない、(のである)。