どんよりとした曇り空の朝、静かである。書斎というほどではないが、乱雑に積みおかれた、入るのが億劫になる部屋の整理、私がこの世から消えたら、娘が困るような品物を順次ちびりちびり処分している。いまだ肉体労働もやり、五十鈴川だよりを打てるほどに元気な私なのだが、明らかに老いが忍び寄っているのは自覚している。だから、勇をこしてやっている。
![]() |
| 蒙が開かれます |
あまりの無知の自覚を、18歳で体感してからというもの、ようやっと私の人生は始まったのだと言うことを本棚を眺めていると分かる。これらの本のおかげで、何とか今現在まで生きてこられたのである。
そう思うと、簡単にはお別れができない。お別れしても良いものと、お別れできないものとの、区別整理を年内には終えたいという願望はあるが、そうは問屋がおろさないだろう。
話は変わる。古希を過ぎて老眼が進んでいるが、本を読むという楽しみには今のところ支障はない。老いても、最後の心の拠り所としての本を、大事にしなくては、と思いつつ整理を進めている。
整理していると、読んでいない本、再読したくなる本などが次々と顕れる。そうなるともういけない。遅読の私の時間はすぐに過ぎてゆく。でももういいのである。気分の赴くままに二つの部屋(寝室にも本棚がある)をいったり来たりして過ごすのが、このところの休日の楽しみなのである。
したがって、よほどのことがない限り休日、私は外出しなくなってきた。私なりの気持ちのよいよい老人生活の日々が送れている。(臆面もなく打ちます)お金や物、華美な欲望に足をすくわれない、目には見えない心地良さを見つけたいのである。自分がこれまで執着していたこと、やってきたことを、手放せるものは限りなく手ばなし、手放せないものを大事に、囲まれて生活したいのである。先ずは、数年前までは存在していなかった孫たちとの時間を最優先に生活したいのである。私の元気な時間は、有限である。そのような気持ちになったのは、先日の沖縄、桑江良健さんのあじくーたーの世界へ、旅をしたからである。それと、良寛の言葉に偶々触れ、短いのだが書写したことによる。私ごとき煩悩者には程遠い感覚とはいえ、生きている間に、少しでも自由と慈悲いう、奥深い人間としての最低倫理、哲理を一ミリでも学びたい、のである。PS したの写真も上の写真も整理していて手にした本。赤坂真理さんの本は12年前の本ですが、素直な疑問が、こうまで戦後の不可解さをあぶり出すという意味で画期的な今も十分に読みごたえがあり、老人の私は教えられ学んでいる。石川九楊先生の本、書写をしたい私には必読の本である。
した









