私のGWは菜園場で過ごすことで日中の大半が過ぎようとしている。スパイラルアームズ岡山公演を引き受けたことで、菜園場の管理に手が回らなかったので、いま土に触れている時間がとても嬉しい。私のようなぶきっちょな人間はあれもこれもは、全くといっていいほど出来ない。
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一輪のウララ(妻丹精の) |
だが、抱えたものにしか味わえない、感じられない達成感、喜びがある。あの夜のハレノワでのスパイラルアームズのライブの余韻はいまだ我が体を浸している。が、青空のもと菜園場で土と触れていると、たまっていた疲れがとれて、ようやく普段の生活に戻りつつある。
今日は、終日夕刻まで妻と、菜園場で過ごす予定である。玉ねぎも収穫する。だから短い五十鈴川だよりである。ぼーっとして、本を手にしても集中力が持続しなかったのだが、昨日あたりから、(図書館にいった)ようやく本を読む集中力も戻ってきた。
話は変わるが、この年齢での、私にとっての企画をするということはどういうことなのかを、改めて考えている。70代に入り4本の企画をなして想う。言葉ではとても言い表せないが、それでも私は人間なので言葉にしがみついて、考えるしか方法がない。
人間と付き合うのは本当に骨がおれる。時に心も折れる。だがなぜ仕事でもないのに企画を持続するのか、を私は思い考える。気障だが、見えないギャラを40才から企画を始めて、ずっといただいているからだと想える。とは言ってもこのように能天気な五十鈴川だよりを打てるのは、私ごときの企画者を(いたらないことのおおい)応援、支えてくれる、これまでの人生で培ってきた友人、仲間のカンパのお陰であることを、五十鈴川だよりにキチンと打っておく。
生活的なお金は、肉体労働でいまだおぎなえる。だが私にはどこかの誰かのギャラが、人間がヒトとして幻想ではあれ、豊かになってゆくためには、支援ギャラが絶対的に必要である。今回スパイラルアームズ岡山公演が無事に終われたのは支援者のお陰である。支援者がいれば次の企画が打てる。支援者は次の企画を生む原動力である。普段の生活、暮らしのなかで、生きることを見つめ、支援者仲間と共に夢のある企画を育むために、私なりに努力したい。
私にとっては企画をするということは、その夜限りの観客、他者とアーティストを介在してコミュニケーションをする、ということなのである、ということをあらためて得心した。スパイラルアームズとその夜限りの観客を出会わせるという、お膳立てをする役割である。
一夜のライブのお膳立てに、土取利行&スパイラルアームズを、暗雲漂う現代の今、企画できたという事実こそが、私のギャラなのである。私の信頼する友人Y氏が撮影記録をボランティアで撮ってくれた。満足である。ユーチューブにアップするために撮影しているのでは全くない。