水曜日、今年から労働はお休みにした事で、後れ馳せながら、あらためての無知を知らされ、学ぶ読書時間が増えている。一口に学ぶといっても多岐にわたる。経験し、体で学ぶ。例えば先日も打ったが、雨の中で急斜面の草刈りをする、何てのも、私にとっては、実践的な学びと認識している。両方、私には必須である。
雨の中でも働いている方などを、たまさか眼にしたときなど、我が身の想像力が及ぶのは、自分もやった経験がいささかあるからだろう。厚顔に打つが、古稀を過ぎての労働はさておき、知的渇望、本を読み学ぶ悦楽は一段と深まっている気がする。(のろのろ亀のように読む)
狭い範囲の本しか読んでこなかったという反省、気付きが最近とみにしている。読書世界の水先案内人としての先生は、松岡正剛先生である。これはという本は再読する効用を先生は説いている。同じ本を年齢を重ね再び手にすると、以前読んだときには、全く心が動かされなかったとところが、染み入って来る。あたかも脳内ニューロンのシナプスが、老いつつも活性化し、幸せホルモン、セロトニンが分泌される気がする。
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| 下記に記します。 |
話は変わるが、ウカマウフィルム作品を見たことで、以前だったら手にして、まずは読まなかったであろうと思う、太田昌国先生の本、1991年に出版された[鏡のなかの帝国]を労働の前にちびりちびり読み進めている。草取りするような案配でのバイト先の倉庫での読書である。
ウカマウフィルム作品に出会ったことで、必然的に先生の本を読みたくなったのである。(今半分ほど読んだところだが、今さらに蒙が拓かれている)手にして良かったというおもいが五十鈴川だよりを打たせる。
私は政治にはアレルギーがある。(世の中に出てから、今もめするこの国の政治家の顔はなんとも魅力に欠けるのだ、多くを語りたくないほどに)。40歳、都会暮らしに決別し、岡山での第2の新しい生活のなかで、気がつくと、主にアフリカ、アジア、エリアの音楽を企画することで、ちびりちびり学んできた、と思える。
先生の本、ページをめくるごとに、自然な人柄がにじみでる真摯な文章に、学ぶことの大切さを深く教えられる。先生は若い頃から埴谷雄高著、[幻視のなかの政治]などを読破しているのだから、恐れいる。世代、生まれは異なるが、出会ったのである。難解な本も読もうと思う。怖れる必要はない。自分が変われば、出会うべき人や本に出会える。そんな風に最近思える。
いずれにせよ、ウカマウフィルム作品を通じて、太田昌国先生と出会えたことで、ラテンアメリカ世界の本を読みたくなったことは確かである。著者の声が、聞こえて来るかのような本、先生推薦の本を読みたい。(時間は有限なのだ)企画をすることは、私の場合学ぶ事と同義である。だが、肩に力のはいった読書は私には出来ない。草刈りと同じように駆り立てる、苦楽の喜び読書である。
PS 太田昌国先生の思考の軌跡が辿れるご本である。岡山で、ウカマウフィルム作品を製作順に、東京小平の学園坂スタジオと同じように自主上映しながら、先生のご本もまた、順次、ちびりちびり読みたい、と考えている。








