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2025-12-13

わずか一週間弱妻が不在、時折一人での生活を哲学する、師走半ばの五十鈴川だより。

 土曜日の朝がきた。今年も余すところ2週間である。東北北海道の太平洋側では、今も地震が続いており、その地で暮らす人たちは、緊急避難に備えて、心の休まる時のない不安な師走を過ごされている、。

一方の私の老人の日々は、こうやって五十鈴川だよりをうてる、穏やかな日々が過ごせている。この例えようもない、あまりの相違を想うと、言葉がない。

気を変えて、普段の五十鈴川だよりに戻る。10日水曜日から来週火曜日まで妻が娘たちのところに上京している。したがって私一人ですごしている。娘たちが独立し、所帯を持ち、子供が授かってから、老夫婦交代で上京するようになってから、長いときは10日位は一人での生活を余儀なくされているので、今のところ、もう老人一人暮らしにも不都合はない。

実体験レポートエッセイ、凄い。

炊事、洗濯、買い物、掃除、 メルと花のケアなどなどをそつなくこなせれば問題はない。敢えて打てば、 年に数回このような老いの一人時間があったほうがいいのだと思うことにしている。

ことほどさように、来年で巡り逢って40年、もう十分に夫婦としての歳月を過ごしていると、とくに私の場合、その有り難みに無感覚になりがちだから。

このようなときに、夫婦といえどもやがては離れ離れの宿命は逃れようがない。どちらが先に逝くとしてもである。考えても仕方がないとはいえ、面と向かってはなかなか口にしては言えないことに関して、結論はさておき、時に立ち止まり嫌でも考えておかねばと、自省するのに一人時間は有効である。

さて、話題を変える。もう金時飴のように、代わり映えのしない身の回り老人五十鈴川だよりである。だが毎年新しい初めての白秋期を生きているのだから、出来ることなら、その老いゆく未知のゾーンをしっかりと見つめながら、活きたいものだと、凡人なりに考える。哲学する。オギャアと生まれしわが命の行く末を。

古稀直前の私にとっての大手術から、来年の3月23日で、まる5年になる。退院日を忘れることは、もっと老いて、脳が萎縮するまでけっして忘れることはない。コロナで世の中てんやわんやのなかでの三度の手術。このまま死んでゆくのかもと、うすらぼんやり考えたことがある。

私の場合、ほんとうにうすらぼんやりとしかのおもいだせないが、覚悟するしかない、いわば諦念感覚に委ね、M先生にお任せしたのである。結果、再び命を与えられ、退院後3ヶ月に一度、M先生の定期検診受けながら、お陰さまで元気に日々を過ごしている。(お陰さまで血糖以外全ての数値が正常である)

やはりあれほどの手術をすると、ただ生きているだけで、存在しているだけで充分にありがたく幸せであるとの、感覚は深まる。このような敢えて言葉するなら哲学感覚、いよいよ老いる哲学を学びたい。そのような叡、智賢者の書物で老いの体を磨きたい。このようなことを打つとどこか気恥ずかしいのだが、年寄りの妄言だと思われようと、もう十分に年寄りなのだからいいのである。

老いを哲学する。もっと打つなら哲学的に老いを思考しつつ、答のない人生を、脳が許容してくれる時間、思考し続けたい、のである。だから五十鈴川だよりを打つことも、そのような私の営為の一部なのである。

話は変わるが、青春の終わり(31歳から33歳まで)、簡略に記す。富良野で大地にへばりついて、知的な本を読むような時間を持てず、ある意味で、もっとも不自由な、自分の時間が限りなく少ない中での集団生活というものを経験し、私はほんとうに体を動かし、地に足を付けた生活を志向するようになった。

以来、ほぼ40年、今も体を動かし、ささやかに思考し活きながらえている。今の私の生き甲斐の一つである肉体労働、まる7年続けている。毎日自然は変化する。季節にあわせ労働内容も自然に合わせる。老いゆく労働哲学実践ずる。日々流転し変化する雑草を始めとする植物と、対話をするかのように、天を仰ぎ我が老いゆく体を動かす、限りなき単純労働が、面白いのである。

先日も打ったが強制労働ではなく、依頼されて、自分のリズム、責任の範囲でやれ、評価される。好きなことなので発見があり、続けられる。(私が宇宙の塵となっても雑草植物は生成流転する)一事は万事に通ず。細部に手を抜かない、細部をこそキチンと完遂することの気づきの悦びである。それもこれも全ては健康なればこそである。


2025-12-07

[なるようになる。]という養老孟司先生の本を夜中の3時半から読み始め、読み終えて思う五十鈴川だより。聞き手‥鵜飼哲夫。

 昨日も打って、今朝も打ちたくなったのは[なるようになる。]副題、僕はこんなふうに生きてきたという養老孟司先生の本を読んだからである。いまも売れ続けている、バカの壁という本が出版されたのはもう20数年前だとおもう。何度読んでも面白いし、学べる。私の書棚には唯脳論ほか先生の本が僅かではある(手放せない本)が収まっている。直に講演会も二度聴いている。

岡山に移住してのち、つまり40歳から折々今も対談集も含め先生の名前が図書館で目に入ると、必ず手にし読んできた。今回の本は2023年の11月に発行されている。先生は1937年のお生まれなので86歳の時の本である。

聞き手の鵜飼哲夫さんが素晴らしい

第一章、幼年時代と戦争。第二章、昆虫少年医学部へ。第三章、章解剖学者の奮闘。第四章、バカの壁と愛猫まるとの出会い。最後、養老先生への50の質問で構成されている。敗戦の時8歳、3歳で父上が亡くなる。記憶の始まる回想、父とのお別れは目頭が熱くなる。

読売新聞に32023年1月から3月まで、全35回にわたって連載した[シリーズ、なるようになる]が本に成ったものである。聞き手の鵜飼哲夫さんは読売新聞編集委員である。読んでいてすっきり、正直で、どこか漱石の坊っちゃんを思わせるような語り口が痛快で一気に読み終えた。

一貫して虫、自然の側からの視点が揺るがない。ヒトも自然の一部、現代人は死体を怖がるようになっているが、生きている人間のほうがはるかに怖い。私もこれからは死者の側から、死者の声に耳を傾ける読書時間を増やしたい。

養老先生は、自分に正直に物事を突き詰めてしつこく考え続けてきたからこそ、養老孟司先生の現在が在るのだと知らされる。難しい論文ではなく、私のような者でもすーっと、読める語り口で、分かりやすく説得力があり、その上面白く府に落ちる。

長くなるのではしょる。が、私のような田舎者が18歳から東京都市生活にウンザリ、身も心も消耗、内面がカサカサに渇いて、これでは駄目になると直感、娘が生まれ、岡山に移住する。結果、その決断で中世夢が原で自然に囲まれ体を動かし生き返る。私は再生することができた。

古稀直前、人生で初めて大きな手術をしたが、再び生き返る。自然に委ねて、あれから4年生き延びている。それが何故なのかを、こんなにも分かりやすく言葉で説いてくださったかたはいない。マイノリティであれ、自分の感覚が求めるところ、気持ちが安らぐところで、これからを虫のように過ごすのだ、との思いの深まりが五十鈴川だよりを打たせる。

それにしても、目からうろことはこの事である。書きとめたい、膝を打つ先生の言葉が染みてくる。。随所で深く頷く自分を発見する。強制労働ではなく、体と遊ぶ工夫、体動かし労働がかくも気持ちいい事を、岡山に移住して33年、私は見つけたのである。やがてはできなくなる、とはいえ今は気持ちよく働ける。続けてきたからこそ見つけられたのである。

長くなるが、もう少し。五十鈴川は流れる。流れないと水は澱む。どのような原石も磨くことで何らかのその人らしい光を放つ。唯一無二の自分自身という授けられた存在を在りがたく、生涯かけて見つけてゆく営みをこそ大切に生きる。そこに生まれてきた理由が在り幸福が在ると先生は言う。

もっと打ちたいのだが、これ以上打つと野暮になる。が、夢なんか持たなくてもいい。希望なんか持たなくていい、と先生は言う。現代の価値観とは真逆になるようなことを、あっけらかんと語る先生は、私にとっての坊っちゃんである。サイコーにカッコいい。爪のあかでも先生のように存在したい。

2025-12-06

2025年12月、師走最初の五十鈴川だより。

 昨日夕刻、運動公園で東の空に、浮かんでまもなくの大きなまあるい月を眺め、朝老犬メルの散歩で西の空に同じ月を眺めて、休日、師走最初の五十鈴川だよりである。数日前から一気に気温がさがり、俄に日本列島はいよいよ冬に入ったかんがある。

いま2階の寝室で、冬の日差しを背中に浴びながら打っている。寒いが暖房は入れていない。膝にはダウンをかけ、上半身に温かい衣類を羽織って打っている。中世夢が原という職場で私がほとんどの時間を過ごしていた園内には、 武士の屋敷の囲炉裏しか暖房がなかったので、おそらく22年間の痩せ我慢生活で、自然に鍛えられたのであろう我が体は、このくらいの寒波には耐えられる。

もっと痩せ我慢を綴れば、敢えてこのくらいの寒さを感じながらのほうが、頭が冴えて五十鈴川だよりも打てるのだと思いたい、あまのじゃく思考の私である。

未知の世界をいつも案内してくださる

さて、世の中、高市総理の台湾有事に関しての発言が、日中間に軋轢をもたらしている。そのほか佐賀関の火事、香港の火事、インドネシア、スリランカ、タイなどでは水難災害、国内では物価高のニュースなど、など(もうほとんど書物からしか情報を得ていない)が頻繁に報じられている。

あらゆる報道されているニュースに、諦感のような感覚におそわれる。今日一日無事に過ごせることのなんたる在りがたさをおもう。私は自分がそのような目に遭わない限り、決して身に染みては分からない、のだ。

だが、一切合切をなくすほどのことの経験を我が両親はしている。いきなりの敗戦、北朝鮮からの引き揚げで体験している。3歳の姉と生後半年の兄を連れてである。30代、両親とも若かったから再生、出発ができたのだ。持たないものは強い。

私が今このような目にあったら立ち直れるだろうか。高齢者である私がこのような事故、アクシデントの状況にいきなり置かれたらと想うと、私のような軟弱なものは想像を絶する。

私を含めた多くの庶民は、それどころではない現実をそれなりに耐えて生きているのだと思う。心に余裕がないのである。世の中あらゆる格差がまかり通って差はますます広がっている。そのような世相のなか、いかにお金をやりくりし、そのなかでいかに生き延びてゆけばいいのかを考えるのか、私は私なりに考え続ける。貧すれば鈍す、にならないための方法である。

私の場合、やはりお手本は我が両親にある。老いるにしたがって両親の小さい頃の教えが甦ってくる。今時辛抱なんて言葉をほとんど聞くこともなくなったが、私は今も折りにつけ、辛抱辛抱と呟く。両親がよく辛抱しなさいといっていた声色が耳に残っている、のだ。

念仏をとなえるようにである。もうひとつ、ひとのやりたがらない事をやれ、と父は言っていた。小学生の頃、父は肥くみを私に兄たちと共にやらせた。私はこれが大嫌いだった。が思えばこれが下地になっている。

今の私を支えているのは肉体労働と読書である。小さい頃の生活水準から考えると、十分に私の生活は足りている。先日も打ったが今の私の日常生活には読書時間がもっとも大切なのである。

一番安価で、才能のない私を育て助けてくれたのは本である。本が行動を促し、旅を促す。そして日常生活、日々高齢者の私に生きるエネルギーを与えてくれる。10月の半ばから11月、師走の今までほとんど人に会っていない。労働し、本を読む生活で足りているのである。面白いから読める。ただそれだけである。

本は次の本を授けてくれる(暮れる)、師走の夜長、冬の読書は(夏の読書とは比較にならない)私には老人生活一番の悦びである。