ページ

2025-12-20

師走、12月20日、もの思う土曜日の五十鈴川だより。

 土曜日の朝である。本来なら昨日からふるさとに例年通りお墓参りに帰省していたのだが、ちょっと帰省できなくなり、自宅で静かな時間を送り、生活をしている。古稀を過ぎてからというもの、ゆっくりゆっくり、執着していた、情熱を打ち込んでいたもろもろをかなり手放し、随分身軽になれた自分自身を感じている。長くなるので割愛するが特に今年はその感が深い。

69歳の手術後から、命の有限さをかなり意識し生活するようになってから、これで最後というおもいで予期しない企画を続けられた。改めて人生とは思いもかけぬ、自分の意思ではどうにもならないという、あたりまえの事実を今年も、余すところ10日おもい知らされつつ、振り返っている。文脈があちこちするが、老人なのでお許し願いたい。

超シンプル生活が、手放すことでくっきりはっきりとしてきて、板につきつつある。手放したことで、どうしても手放せない事柄が明確になってきたのである。そのような個人的な老人生活を、いよいよもってこれからの人生時間を、(妻との時間を最優先に)オネスティに体のおもむくままに過ごしたいと念っている。

年の瀬、今年一年を振り返るには、いろんなことが思い浮かび、整理しきれないので、今朝の五十鈴川だよりでは打つのは控える。ただ新見の猪風来美術館に10月12日のイベント当日まで、何度も通った日々、私のなかで何か言葉にしえない、ある種の幸福感におそわれ、その後2ヶ月を過ぎても、あの豊かな時間が、現在のしっとりと落ち着いた師走時間を彩っている。(のは間違いない)

一言、言葉で縄文時代、だが私にとってのとてつもなく長きにわたっての縄文文化の、全ての水先案内人は猪風来さんご夫妻である。今年の私にとっての大きな、それもこの年齢で出逢えたからこそ、かすかに実を結べたのではないかと言う気がするのである。10年前の私だったら、こうまで耳を傾ける体と心をを持ち合わせていなかったかもしれない。

そのようなことを思うとき、やはりあの三度の手術体験の大きさを、今更ながら噛み締めるのである。無くすことで感じる、見えてくる世界があることを。生命の輝き、讃歌、大いなるものへの畏怖、祈り、感謝が、猪風来縄文造形作品には籠められている。よし子さんの作品にも。

だからなのだと思える。このようにゆったりとした師走時間を過ごすことができているのは。もっと言えば、ただ存在しているだけでもう十分に足りているのである。新見、法曽に往けば猪風来さん、よし子さん、原野さんの作品にあえる。その事が私にあたえる安寧は秘事的でさえある。

読書の幅が広がってきた。

話は変わるが、猪風来さんと出会い、初めて新潟は長岡エリアをわずか旅することができた。猪風来さんと出会わなかったら、先ずこのような旅は、この年齢でできなかっただろう。

旅の最後、11月3日、八王子で千住真理子さんのヴァイオリンを聴いた。10月12日までの日々の、あれやこれがや脳裏をかけめぐった。ご褒美の音色が老人の私の体を隅々まで慰撫してくれた。

猪風来さんご夫妻との出会いは、手放したからこそ、見えないものが与えてくださった、千住真理子さんとも巡り遇わせていただけたのだと、私は思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿