もう労働は年内あと1日だけで、もうほとんど私のなかでは終わっている。年末長女家族が帰ってくるまで、老夫婦だけでの静かなことこの上ない穏やかな師走時間を、私は有り難く過ごしている。
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| 冬至の夜明け前 |
激変する世界の動向には(決して無関心ではない)低みの見物といった程度で、超保守的に老夫婦最優先時間の日々をおくっている。当たり前である。
出会って40年、妻の的確なサゼスチョン、支えがなければ、現在の私は存在していない。今だって然りである。私と同世代、もしくは上の世代は、このようなことを、臆面もなく打つのが苦手のようである。
だが、ほかのひとのことはともかく、こと私に限っては面と向かっては言えないような、気恥ずかしいことは、五十鈴川だよりに打てるのでそのてんでは有り難い。
私の父が亡くなったのが83歳である。先のことはわからいにもせよ、もし父の年齢まで私が生きると仮定して思うことは、妻と過ごす時間を(家族全員でも含めて)、日常、非日常まるごと大事に過ごしたいのである。後は実践するだけである。父が実践していたようにである。
この一年は、もし私が元気にあと10年も生きて、現世に存在し、意識がしっかりしていれば、今年が大きなターニングポイントポイントになったのだと、クリアに振り返れるようなきがする。
先のことはわからいが、岡山に移住して33年、企画や、音読に重きをおいた(ある種急き立てられるかのように)時間を生きてきたのだが、それを手放す覚悟が出来てきたのである。
時期に従う。老いをいい意味で受け入れ、これまで執着していたことを手放し、そこから感じる、見えてくる内面風景に身を委ねたい、とでもいうような。もっと言うなら、これまで執着していたことには無縁な世界に身を委ねて、静かな内面的世界、見えない世界に耳をすます、自身との対話時間を大切にしたいのである。(そのことがとても楽しみなのである)
このようなことが、あきっぽい私に出来るかできないかは、ようとしてわからないが、明らかに、一年前までは思いもしなかったことが、今年の年の瀬に起こっている。その事実を冷静に受け止めている。
還暦を過ぎて、五十鈴川だよりを打ちながら、あちらこちら蛇行を繰り返し、その果てにこのようなおもいに結実している自分がいる。男、なによりも私という性格は飽きっぽくも諦めが悪い。だがやるだけやって、限界だと察知したら、その都度諦め、新しい未知の世界に身を投じて(身を捨ててこそ浮かぶせもあれ)現在まで生き延びてきた。
いつわらざる、いまの思い。これからは木の葉が舞うように、限りなく欲望から遠く、自由にただ存在したいのである。私にとって永遠に未知の人である妻との時間を、同じ空間で過ごしたい。新しい夫婦時間を見つけたいのである。

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