妻がお正月準備に終われている。私も出来るだけ妻の意向に添うように務めている。もう明日には次女家族が帰省するので、五十鈴川だよりを打っている時間はとれなくなるけれど、なるべく寸暇を見つけて、打つのを心かけたい。一年のほとんどの時間を、二人の娘が巣だってからというもの夫婦で過ごしてもう十数年になる。
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| 玄関他4箇所妻のお飾りが。 |
この間、私も妻もフルタイムではないが、今年も働いているので、何かとやることが多く、時間をもて余したりすることは、ほとんどない。
妻も私もなにかとつぎつぎにやりたいこと、やらねばならぬことが見つかるので、やっていることはまるで異なるにもせよ、一日が充足して過ぎる日々を、これ好日といった塩梅で暮らせている。
40年共に生活していても、お互い微妙に変化し続けているからこそ、ひとつ屋根のしたで、それなりの距離感をキープしながら、付かず離れず共に生活ができているのだと思う。
千差万別の夫婦、その一夫婦として、とくに今年の年の瀬思うことは、いよいよこれからの、老いゆく未知の夫婦時間を、いかに過ごすかという、新たな目的のような感情が強まってきている。
このような事を臆面もなく打つのは、もういい年なのに、未だどこか気恥ずかしい。野暮な老人にはなりたくないので控える。(故、井上ひさしさんはすべてのエッセイは自慢話である、と書いている)
話を変える。年の瀬、例年はお墓参りに帰省していたのに、今年は取り止めたお陰で、この数十年で初めてといっていいほどの、ゆったりとした年の瀬、夫婦時間を過ごしている。年の瀬の12月、余裕をもって五十鈴川だよりを打つのは、初めてといってもいい。
私が家の周辺をうろちょろする位で、ほとんどの時間を家で過ごしている。物価高騰のなかでも、普通に何とか生活できている。世の中に出て55年、カツカツの、お金には余裕なき耐乏生活を、嫌でも継続してきた。(特に妻と出会うまで)もう2度とあのような耐乏生活はしたくない、といった過去の思いがきっと私を支えていることは間違いない。お金の有り難みを、何度か心底経験したことが、やはり大きい。
私にとってお金は、本当に必要な時のために、いざというときのために使うものである。したがって、自分でも無駄遣いはしない(出来ない)。とはいっても、何点か、苦しい余裕のないときに、絵を求めたことがある。2000年ミレニアム、家族で西インドを訪れた時に、一枚の絵を見て、どうしても欲しくなり、なけなしのお金をはたいて買ったのだが、その絵はあれから25年、今も我が家のリヴィングルームに掲げてある。多分私がこの世から消えても存在する。
お金の有りがたさ、使い方次第で人生は豊かにもなるし、全く正反対にもなる。お金は恐ろしい。だから、私は努めてお金に頼らず、自分の体が悦ぶお金の使い方を、老いて益々心掛けている。いつかも書いたが、ケチではなくいざというとき、好きな事に大胆に使いたいのである。
昨日だったか、徹子の部屋にタモリさんが出ていて、本を捨てられないというお話をされていた。徹子さんも頷いておられ、お二人とも、文庫本の安さに(古本屋で買ったら100円で手にはいる)ふれていた。何万円もするブランド品を身にまとわなくても、わずかなお金で、体が悦ぶお金の使い方が出来る人間に、孫たちにはなってほしい。お爺の願いである。その孫たちにもうすぐ会える。4人の孫に会えるお正月が待ち遠しい。

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