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2025-11-30

ブレディみかこ著、ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルーを読み(七編を読んだところ、)、想う五十鈴川だより。

  11月30日、末日の五十鈴川だより。明日からは師走になるとはとても思えない日差しを我が部屋で浴びながら、本を読んでいたら急に打ちたくなった。

今、2021年11月に発行されている、ブレディみかこ著(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2)を読んでいる。最初の本を読んだのは、多分最初の孫、望晃ノアが産まれた頃であったと思う。続編である。

最初の本を読んで打たれたことは、五十鈴川だよりに打っていると思う。新聞を購読しなくなって、書評やトピックに触れる機会が激減したことは間違いないし、新しい言葉に触れる機会も減っていることは間違いない。だが私の生活にはほとんどといっていいほど支障はない。


この度のブレディみかこさんの本ももし妻が見つけて来なかったら、読むタイミングを逃していたかもしれない。だが出版されて5年後であれ読めている事実に、素直に嬉しく、五十鈴川だよりにこの本のことを、僅でも打たずにはいられない高齢者の私がいる。ところで、私が高齢者だとか、老人とか五十鈴川だよりに打つと、あまりお褒めの言葉はいただかない。

たんに私の日本語能力の語彙が少なく、他の言葉を持ち合わせていないにすぎない。だが、私は白秋期老人で在ることは事実なのだから。

何か若いということや、健康で元気であることにしがみついている、あるいは重きを置いているご仁があまりにも多い気がするのは、ちょっといただけない。年寄りは年寄りなのだし、あくまでも他人のことには関知せず、自分らしく在りたいだけである。

話をブレディみかこさんに戻す。何故かくも私はみかこさんの本に感動するのかは、長くなるので割愛するが、一言で言えば、カッコいいからである。ブレディみかこさんは1965年福岡県の福岡市の御出身、1996年から英国ブライトン在住とある。

パートナー(ルーツはアイルランド)との間に、本の中では中学二年生であったご子息いて、今現在のブライトンでの3人の庶民生活が、特に弱者に向けられる温かい眼差しが鮮やかに綴られている。端々に息子さんへの愛情が絶妙の距離感で(実父、パートナーにたいしても)みかこさんの独自の文体、一見軽いのり、冷静でユーモアに溢れている。

全11編のエッセイが収められている。いま7編ほど読んだところである。いずれも素晴らしいが、毎年夏休み福岡の実家に息子さんを連れて帰る。80歳近いみかこさんの父親が十数年お母さんの一切合切全てのお世話をしている。(お母さんは精神を病んでいて、近年は認知症も進んでいる)

毎夏の帰省の折々の息子さんの成長と、実父との交流は例えようもない。毎年、福岡空港での来年までの暫しのお別れは、打っていてもお爺さんの私には目頭が熱くなる。初めての日本福岡に帰省した、おそらく小学生の頃、病んでいたみかこさんのお母さんに(おばあちゃんへの)にたいしての接し方にしても、年齢を重ねぐんぐん成長してゆく。家族のそれぞれを、母として、娘として、人間として、作家として、見つめ考え続ける。

随所に、実体験、日々の暮らしの今の裏付けが有って、高齢者の今を生きる私にも共有感覚が鋭く突き刺さるのは、きっと私の長女が旧東ドイツ、ドレスデン生まれの男性を生涯の伴侶、パートナーにし、間に二人の孫が授かっているからなのだと思う。(感動する、何度も目頭を押さえた)

赤裸々にお母さんのこともみかこさんは書かれている。みかこさんのお父さんが一転、お母さんの介護を続ける。凄い。還暦過ぎてからの変身。人間は愛があれば変われるのである。

思い通りにはあまりにもならない、庶民生活の普通の家族の徒然が、みかこさん独自の文体で綴られる。九州人の一人として、お父さんの博多弁が文字化されると私は意味もなく嬉しい。みかこさんの中には脈々と博多女性の血が流れているのが分かる。九州男子という言葉は女子にもあてはまる。あっけらかんと前向き突き進む。いさぎよい、くよくよしない。

同時代、福岡生まれのみずみずしい作家が生まれたことが、同じ九州人として嬉しい。そして英国は(正確には連合王国)ブライトンから、世界の片隅から、庶民目線で発信していることに感動する。

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