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2025-11-09

晩秋、午前中雨音を感じながら打つ五十鈴川だより。

 雨である。昨日菜園場に午前中いたので、今日は静かに体を休めようと思う。五十鈴川だよりを休日に打つのは、ほとんど習い性の、体の調節機能、自己満足免疫低下を防ぐ、暗示のようなものである。

私は高校を卒業し、無謀にも(今思うに)演劇を学ぼうなどという、漠然たる寸志を抱いて上京した。当たり前、井の中の蛙を実感し続ける人生を送って来て、よくもまあ、この年齢まで生き延びて来られ、こうやって五十鈴川だよりを臆面もなく打てる今が、時折俄には信じられないほどである。


バカの壁、という言葉がある。世の中に出て、時代に翻弄され、世間の壁に何度も何度も、時に絶望的な気分に落ち込み、凡人であるから悩み深き淵に沈んだことも度々経験してきた。そのような私なのだが、なんとか生き延びてきた(生き延びられた)いちばんの要素は、生活に終われても、時間がなくても、すがるように本だけは読み続けてきたから、生き延びて来られたのだと、今実感している。

世の中には本の虫のような方も居られる。が私はまったく違う。本を読むのもとても遅い。旅をするのもそうだが、旅が旅をよび、本が本を呼ぶ。だから終わりがない。たくさん旅をしたから、本を読んだからといって、身に付いて賢くなったとも思えない。

だが、確実に言える事は、もし本を読み続けることをしなかったら、現在の私は存在していない事は間違いない。私の場合の読書は生きてゆくために必要な読書である。日々の生活のなかで、時に心のエネルギーが枯渇して、根本(本という文字)が脅かされそうになったときに支え、叡智を授けてくれるもの、それが本なのである。

先の旅に持参したのは、佐藤優著[私のマルクス]である。文春文庫で2011年11月のおく付けがある。定価714。私はこの20年、佐藤優さんの書かれた本をかなり読んでいる。長くなるので割愛するが、私の庶民レベルの読書量ではおっつかない、しかも知的レベルが圧倒的に異なる(恐るべき読書量である)巨魁とでも言うにふさわしいようなご仁である。私などには想像を絶する修羅場を何度も経験、潜り抜けて来られた稀な方である。でも今の私には畏れる事など何もない。謙虚に学びたいだけである。

私のマルクス、というタイトルの本のなかに出てくる、佐藤優さんが同志社大学の神学部で学んだ、フロマートカ始め、ズラリ神学者の名前がでてくるが、一冊も私は読んだことがない。ましてや、マルクスもエンゲルスも、聖書も読んだことがない。

だが、私のマルクスを読み終えた。登場人物が魅力的で面白く、一種の青春グラフィティとして読んだ。本音、直球でぐいぐい真理に迫って学んでゆく、記憶力のすごさの文体は、余人の追随を寄せ付けない。10年前に手にしたときは、あまりの知的胆力に圧倒されたものである。

佐藤優さんは、プロテスタント、カルバン派のキリスト教信者である。それも筋金入りの信者、神学者である。このような人が、現在の日本社会に存在しているそのことの、在りがたさを、私は感じる。(私の貧しい頭でも)

先の縄文遺跡を訪ねる旅では、新幹線、在来線、バスなどの乗り物に乗る時間が多かったので、思いもかけない読書旅ができた。今年も余すところ50日、日に日に日は短くなるが、目が疲れない程度に、老人なりに良い本を読む力を養う読書力をキープしたい。若い頃に買って、いまだに読んでいない本がある。生きるための読書、生き延びるための読書、今の精神生活にエネルギーが注がれる読書を私はしたい。

PS 今日の写真は長女のパートナーレイさんが稲城に借りている菜園場で、苗に水をあげる2才半になる未彩の写真です。


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