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2025-04-30

いよいよ、スパイラルアームズが、ハレノワにやって来日の朝の五十鈴川だより。

 26日から京ちゃんが、今日の日のために我が家にステイしている。昨日の栗林公園内の建物のなかの素晴らしい景観をバックにスパイラルアームズのライブを聴きに、相談の上行ってきた。朝6時過ぎの電車で岡山へ。待ち時間カフェで朝食、7時10分のマリンライナーにのる。高松駅から栗林公園まであるいた.着いたのが9時。

友来たり、ゴールデンウィークとなる

既にスパイラルアームズの二人が着いていた。栗林公園に入り、私と京ちゃんは楽器の搬入や音響の搬入、ステージの椅子並べなどを手伝った。11時すぎには全てが完了、すぐにお昼となり、昼食後スパイラルアームズのリハーサルをじっと私と京ちゃんはみいった。約30分近くで、リハーサルが終了。13時半開場、お客様がやって来る。午後2時本番開始、3時半ライブは無事終了。ちょっとだけ物販のお手伝いをし、私と京ちゃんは再び栗林公園から高松駅まで歩き16時20分のマリンライナーで岡山へ。

着いたのが5時過ぎ、今日打ち上げするお店の場所を再び確認し、ついでにそこで夕飯とした。又もや京ちゃんにご馳走になる。19時11分の赤穂線で我が家へ。西大寺駅のそばのコンビニで、京ちゃんが我妻に、アイスクリームほかの手土産を買った。家で妻も加わり3人で、今日の最終確認をしながら歓談、楽しい時間が流れた。妻の笑顔、私は幸せであった。

最後に昨日のライブ演奏。老人の血が騒いだ。思わず踊りたくなり、とてもではないが、座っては居られなかった。わずか3人での演奏とは思えないほどの、緻密で堅牢で豊かなリズムが響き合う、多種類のパーカッションの交流即興演奏にしびれた。あの演奏が今夜ハレノワで岡山の聴衆とともに体感できる。岡山引き受け窓口を受けて本当に良かったと、春の朝の陽射しを背中に浴びながら想う。


2025-04-28

一昨日と昨日の行動をスケッチ、記録的に打つ、五十鈴川だより。

 26日午前10時岡山駅に着いた京ちゃんをピックアップ。瀬政さんと私の3人で猪風来美術館に向かい、私が運転しお昼について、途中道の駅で買った、お弁当で猪風来さんご夫妻と昼食をとり、午後少し野焼きの準備を手伝った。瀬政さん京ちゃんも。

午後2時過ぎ土取さん一行、スパイラルアームズが到着、猪風来さんと土取さんは打ち合わせをしたのち、猪風来美術館から車で20分、その日の宿である吹屋の元仲田邸に移動、我々3にんも。午後4時前に着いた。

元仲田邸は昔の造り酒屋の主の豪商の明治時代に建てられた大邸宅である。その貴重な建物をを宿に作り替え、吹屋が誇る宿泊施設である。そこの仕掛人で、一切合切を取り仕切っている大場さん、私の友人が温かく迎えてくれた。早速湯を浴び、夕飯までのひとときを、明治の建物の風情が色濃く残る2階建ての離れの別次元に誘われる別邸で、新緑の山郷を望みながら、おのおの自由にくつろぐ。何と大場さんが私と京ちゃんにビールを振る舞ってくれた。瀬政さんはお茶を。2階からの眺め、部屋の古い調度品に囲まれ、タイムスリップ、京ちゃんはご満悦であった。京ちゃんの笑顔が嬉しかった。

夕刻6時半から、6名での夕飯。地元のおばあちゃんお手製の吹屋の食膳を頂いた。全て美味しかった。食後の吹屋の焼酎、京ちゃんが持参した泡盛を、私を含めて4人は飲み、私は久方ぶりに酔って語った。お酒を飲まない土取さん、瀬政さんも、酒宴、談論風発時間の輪に付き合ってくれた。意外な組み合わせの、一期一会の歓談の宴に大場さんも途中から加わりヒートアップ、愉快な山里の夜は更けて午後11時お開きとなった。

現場で体感、見学、感動した。

翌朝朝食前、最高の別邸で6時、早起きの私に大場さんがコーヒーをいれてくれくつろいでいると、瀬政さんがやってきた。7時土取さんが加わり、大場さん、瀬政さん、私の3人は土取さんの途切れない貴重なお話に耳を傾けた。。発端は別邸にかけられていた一枚の変色した写真から始まった。8時が来て、朝食をすませチェックアウトも済ませ、再び別邸で土取さんの話に耳を傾けた。内容は割愛する。

10時過ぎ大場さんの先導で吹屋に移動、弘兼邸を駐車場から眺め、吹屋の大場さんのやっている紅やというカフェに車をおきほぼ一時間ベン柄の里吹屋の目抜通りを散策し、大場さんのカフェで少し休んで、そこから大場さんが道を途中まで先導、猪風来さんの野焼き祭り見学に移動する。お昼に到着、快晴のもと順調に野焼きは進んでいた。

着いたときの野焼き、のろ場の温度はすでに600度、そこから約1時間半で900度まであがり午後2時、予定より1時間早く野焼きは成功無事完了した。終了したことを祝い、作品を作った人たちを中心に数十人で輪になって踊った。私もちょっとだけ輪に加わった。輪に入ってよかかった。土取さん短時間ではあったが見学したことで、秋に望める。スパイラルアームズの二人も野焼きの現場をしっかりと確認したので、私としては大いに安堵したことを、五十鈴川だよりに打っておく。

午後2時半、スパイラルアームズは香川に移動、我々3人は岡山へ、途中まで賀陽の道の駅でコーヒータイム、瀬政さんを岡山で下ろし我が家に5時前に着いた。妻の御許しを得、5時18分の電車で岡山へ。駅前の居酒屋で京ちゃんと飲み語る。20時4分の電車で家に戻る。妻も暫し参加して3人でのひとときを過ごしたのち、最後はふたりで京ちゃん持参の美味しい泡盛を戴く。午後10時お開き。とも遠方よりきて助っ人になる。一泊二日の旅、そのありがたさがしみた。その事を最後に打っておく。


2025-04-26

明日、猪風来美術館でおこなわれる春の野焼きを見に行くまえの、短い五十鈴川だより。

土曜日の朝が来た。明日は新見の猪風来美術館で春の野焼きがおこなわれる。今日は土取さんも午後新見にやってきて、明日の野焼きを見学するので、今日は吹屋に泊まる。めったにない機会なので、私も共に行動することにしている。ちょっと時間があるので記録もかねて五十鈴川だよりを打っておく。

咲き始めた今朝の我が家のもっこうばら

博多の盟友京ちゃんが、午前10時に岡山に着き、ピックアップして、瀬政さんと3人で新見に向かう。とも遠方よりきたる。従って我々3人も土取さんとともに吹屋に泊まることした。(偶然が重ならないとこのようなことにはならない、人は物語を紡いでゆく生き物である。特に私はそのような傾向があると、自覚認識している。企画をすることは、ある面物語を紡いでゆく裏方なのであるのかもしれない。この世に生を受け、あの世に召されるまでの、偶さか時間を、出遭えた息の合う面々で、夢を紡ぐのである)

猪風来さんは新見に移住、以来20年にわたって、毎年年、春と秋の2回野焼きを行っている。不徳のいたすところ、私は猪風来さんの野焼きを見たことがない。秋の20周年特別企画の企画協力を依頼されたものとして、なんとしてもこの春の野焼きをこの眼でみておきたいのである。今日は明日の本番を前に、猪風来さんたちはその準備に追われていると思うので、できる限り、お邪魔にならないように、とは思っている。

とここまで打って、他にはなにも打ちたいことがなくなった。とにかく明日の野焼きの本番がどのように進行してゆくのかを、しっかりと見守りたい。それだけの今朝の五十鈴川だよりである。

2025-04-24

回らない頭で、谷口英久さんにお礼を伝え、想う春の宵の食後の五十鈴川だより。

午前中の肉体労働が終わり家に戻ると、またもや伊豆大島の谷口さんから4月30日のスパイラルアームズの打ち上げようのお酒が届いていた。麦から芋へ。

お礼。その事さえ打てば、もう私はなにも打つことはない。正直もうほとんどなにも打つ気にならないほどに、気もまわらず五十鈴川だよりを打っている。

なにせ、夜食後に五十鈴川だよりを打った記憶がない。だが、今宵は打っている。谷口英久さんにお礼を一言打ちたいがための、五十鈴川だよりなのである。

だが、単にお礼を打つだけでは、もったいないという、老いたりとはいえ、純な気持ちが私にはまだあって、蛇足の感謝を伝えたいのである。そういう気持ちに私がなるのは、添えられていたお手紙が素晴らしいからに他ならない。

話は変わるが、今回スパイラルアームズを引き受けたことで、枚挙にいとまがないくらいに、次から次に、劇的な再会がいちいち記すことができないほどに出来している。その事の筆頭が谷口さんとの再会である。くどくどとは今宵はもう触れない。本番を目前にしてこれ以上打つことは控えるが、スパイラルアームズの今回の企画は、はこれからの私の老いの前途を照らしてくれるように思えてならない。

その事に関して老いのおき火が、今後どのように変化してゆくのかは、いまはまだなんとも私にもわからない。本番を終えて、かならず私の体と心が、何かを見つけてくれる予感がする、としか今宵はいえない。

とまれ、話は変わるが、あたかも恥ずかしいというしかないが、たった一杯のハイボールのせいかもしれないが、生きているということのなんたる神秘に、殊勝な気持ちに誘われるのはきっとまだまだ私が、巌と生きていることの証左ではないかと肯定感に浸れるからである。ともあれ酔うのは勝手だが何事も実現しないと、砂上の楼閣である。老いの可能性を、谷口さんのご神火のスピリッツを口にして想う春の夜である。

2025-04-23

雨上がり、我が家の庭の春の草花が輝く、午前中の五十鈴川だより。

五十鈴川だより、 他に打つことがないのかと、時に思わぬでもないけれど、もう私は一老人の老境を綴り打つことが、老いの心身機能調節として欠かせない、からこそ打っている。

妻丹精の小さき花、小さきままに生きる。

66才の夏から働いている、今の肉体労働アルバイトだが、この夏が来れば、丸7年働いている。この間のコロナ下生活でも、人との接触のないこの労働のおかげでどれ程私が救われたことか、本人がいちばんよく自覚している。年金生活者は余裕がない。額の多寡ではなく、収入がある暮らしというものがないと、まず私の場合企画することは不可能である。

幸い娘たちの手が離れ、老夫婦のみの生活なので、余分な出費が不要だからこそ、このような願ってもない暮らしが、つつがなく送れていることはまず間違いない。他の方はいざ知らず、何よりも体が動いてくれているからこそ、労働もやれているし、企画もやれている。

その事にまずは、例えようもない有り難さを痛感しながら、73回目の春の日々を、ありがたいお念仏を、草を刈りながら天空の下で唱えながら生きている。真の意味で富良野での天空の肉体労働、中世夢が原での天空の下での22年間、そして今の労働をプラスすると、すでに30数年、私は天空の下で、四季の移り変わりを体感しながら、大いなるものに身を委ねる生活を、日々生きている。

従ってお金と言うものとは、一定の距離をおきながら(必要な時にのみできるだけお金を使う)の生活を送ってきたし、お金のない暮らしと言うものを、18歳からいまに至るも継続しているそのせいなのか、耐乏生活を続ける耐性感覚がいやでも身に付いている。

だからといって、けちな生き方は御免である。どなたかの本のタイトルではないが、貧乏だけど贅沢な生き方がしたいと、いまも心からそう願っている。だからなのではないかととも思える。企画することを継続しているのは。文章を書いたり、音読したり、本を読んだりするのには、ほとんどお金は不要であるし、何よりも精神的な安寧が得られる。

もっと年を重ね、いよいよもって家からほとんど出掛けられない、体が動かなくなってくる日を、一日でも先伸ばしするための、今のところ私が見つけた一番の方法は、気持ちよく体を動かす労働力をキープすることである。起きてから日が沈むまでの生活と、陽が沈んでからの生活のメリハリをつけ、老いては夜は体をひたすら休める。余分な情報は入れない。これまで学んできたことを、ただ繰り返す。ご縁のあった方々と共に生きる。これにつきる。(今日はこのような五十鈴川だよりになりました)


2025-04-20

4月30日、スパイラルアームズ、ハレノワでの挨拶文を何とか書き上げて想う、五十鈴川だより。

 昨日日帰りで名古屋に行き、スパイラルアームズの演奏と五木寛之さんの、私の親鸞と言う講演会を聴いた。突然やはりゆかねばとの思いにかられて行ったのだが,1932年生まれ、今年93歳になられる、そのどう表現したらいいのかわからないほどの、たたずまいとお話に感服した。その事実だけを五十鈴川だより打っておく。

さて、昨日の演奏を含めての、スパイラルアームズ5ヶ所のツアーが始まった。10日後にはハレノワにやって来る。もう私としては当日を無事に終えられるように、準備をしっかりとやるだけなのだが、何とか今朝、当日こられたお客様に配布する後挨拶文を書き上げたところである。 生来いろいろなことの、準備とか細かいことが苦手な私が よくもまあ、企画なんて煩雑な手続きのややこしさを何年にも渡ってやってきた事実に、自分でも驚いてしまう。

でもそれもこれも、有能なボランティアスタッフがいて、当日の細かい役割をこなしてくださるかたがいればこそ、成り立つのである。その事に思いを馳せるとき、我が身のなんたる有り難さを、嫌でも痛感する。我妻も含め、今回も12人のボランティアスタッフがが、当日の舞台設営、受け付け準備、楽屋、お客様誘導から、終わってからの片付けまでをボランティアスタッフが労を惜しまず手伝ってくださる。映像撮影やカメラ撮影もボランティアである。すべてのボランティアスタッフに、経費を計上したらまずこのような企画は実現不可能である。まず私にしてからがボランティアである。仕事ではとてもできないし、仕事ではではないからこそ、やれるのだとも言える。 ではなぜやれるのか。一言で言えば土取利行さんの一途と言うしかない、絶滅危惧種とでもいうしかない、あまりのひたむきさに圧倒されつつも、そのひたむきさの、老いを凌駕してあまりあるパーカッションの音波動を浴びたいのである。昨日五木寛之さんがお話されていたが、企画者は演奏家と聴衆を繋ぐ仕事なのである。どんなに素晴らしいアーティストでも当日足を運ぶお客様の存在なくしては成立しない。中世夢が原で一から企画者として出発した私だが、企画を積み重ねることで、徐々に企画することの面白さに目覚めてきた、小器晩熟の私である。正直この年齢でも企画が打てることに、驚いている。それもこれも年齢を超越したかのような、土取利行さんのおかげである。土取さんは、私を簡単には老人にさせてはくれない。だから私は覚悟を決めたのである。土取さんからのお声かけには、何としても応えられるように、足腰を鍛えておかねばと念うのである。

2025-04-18

猪風来美術館にゆくことが、最近の私の一つの喜び、楽しみであることを、告げる春の朝の五十鈴川だより。

 年だなあと思うし、感じる。こんなことを打つと、そうは思いたくない方々から、あまり年だ年だと、打たないほうがいいとやんわりと指摘される。が本人がそう感じているのだから、致し方ない。

だが、だがである。ここらへんのいわく言いがたい言葉の綾で、受け取りかたは多様にかんじてしまうのは、致し方ないと、私は思っている。どちらかと言えば、老いてきたなあ、と感じるのは肉体の方で、心の方はいい感じで老いを迎えられている、のだ。

今フライヤーをNさんが作っている

その事を、言葉で表すのは至難なのでよすが、私としてはこれが自然なので、どう思われようと、私自身の内実の吐露を五十鈴川だよりに打ちながら、流れるほうに流れてゆきたいと、ただ想うのである。

老いたなあと感じるのは、だんだんと血が騒がなくなってきつつある、というか、もう何が起こってもすべて受け入れるとでもいうしかない、どこか諦感にもにた感覚、感情が芽生えてきている、のだ。再び、だがだがである。絶対矛盾とでもいうしかないが、老いの心は、青春時代とはまったく異なって、激情にはほど遠いが、老人の心も激しく右往左往するという、当たり前を私は生きている。

話は一気に変わるが、昨年暮れから、新見の猪風来縄文美術館をたびたび訪れている。今年になってからは、猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念事業、秋の大きな企画のお手伝いをすることになり訪れている。公私なくゆくのが愉しいのである。

つい先日15日も、そのための大切な打ち合わせ、秋に向けてのミーティングがおこなわれ、猪風来さん、村上よし子さん、とNさん、香川からOさん、瀬政さんと私の5人でおこなわれた。濃密でよきミーティングができたことだけを、五十鈴川だよりに記しておく。

私が打ちたいのはその事ではない。明らかな私自身の内面の変化が、(猪風来縄文美術館を訪れるたびに)起きているということである。老いゆく喜びの発見とでもいうしかない、ような感情にたた誘われるのである。その事に関して、今は縷々綴っている余裕はないが、老いつつも心がいきいきとしてくる感覚が満ちてくるのが分かるのである。だから私は新見の縄文美術館にゆき、猪風来さん、よし子さんに会いたくなるのである。

私がとうの昔に無くした、記憶のなかの風前の灯火の源風景が、あたかもまるで忽然とよみがえってでもくるかのような(錯覚であれ)安堵感に私は浸れるのである。だからゆくのである。臆面もなく五十鈴川だよりに刻んでおくが、今や猪風来縄文美術館は、現在の私のよりしろのような精神のトポスなのである。(今朝はこれまで、これから労働します)

2025-04-15

新見の縄文美術館に出掛ける前の、朝の五十鈴川だより。

 15日の朝である。春雨、花冷え、春雷とめまぐるしく季節はダイナミックに移り変わり中、とりあえず30日のスパイラルアームズを見据えながらも、あくまでも私の基盤生活である労働をしながら、日々を過ごしている。いい意味での老人生活を送れている安堵感がある。

手で書き、伝える

だが、フラジャイルな人間の生活には、いつなんどき何があるか、皆目わからないので、若い頃と違って私は静かに、できる限り腹をたてず、穏やかに暮らす営みを求めている。

ちょっと油断したり、横着になったり、億劫になったり、つまり手抜きをすると、まず自分の気持ちがスッキリしないので、できる限り起きてから日が沈むまではキチンとした生活を心かけ、日が沈んだら弛緩する、ってな案配である。

たびたび、今後は超シンプル生活に移行したいと綴っている。限りある元気時間を大切に生きるためには、もう余分なことには首を突っ込まず、どうしても手放せない人たちや、ものに囲まれて暮らす、と決めたのである。(老いては義理を欠くのである)

とはいっても、家族を含め、大切な誰かに頼まれたりしたら、私にできる恩返し的なことには、労を惜しまず動ける間は動くといった気構えではいる。土取さんからの依頼で、スパイラルアームズを引き受けたことで、その気構えがよい方向に流れていっていることを、今、私は感じている。

老いた企画者ではあるが、うまく言葉にはできないが、70才からの再出発、老いの可能性が深まってきて、若い頃には考えもしなかったことに想いが及ぶような感覚が生まれている。だからこのようにきっと能天気に極楽とんぼ的な五十鈴川だよりを、打てるのだと思える(のだ)。

実現する、しないはともかく、まずは私の場合思い付かないと、何事も始まらない。思い付いたら信頼できる友人に相談する。そういう友人が、今現在私の回りに想像以上に存在していることが、一番の財産であり宝である。大事な人、あってウキウキ感が湧いてくる人、男であれ女性であれ人間で、その日一日一日をしっかりと生活している人にいちばん私は憧れる。

文化的なことや、芸術的なことに、つまり私がこれまで出会って来た世界では、出会えなかったような人間に、いまわたしは惹かれる。生活者であり、自分の役割、仕事にいきいきと没頭している人間に惹かれるのだ。だから自分自身が先ずはそのような人間でありたい、のである。そのために、どのような生活を心かけたらいいのかを、五十鈴川だよりを打ちながら考えつづけたい。(時間が来た、本日はここまで)

2025-04-12

春の宵闇、岡山のFMレディオモモに、スパイラルアームズの告知出演、そして想う。

 わずか一週間で、桜の花も既に散り始めている。私が働いている広い敷地も、新緑の芽吹きのすさまじさに、老人の私の体は圧倒されている。自然界の摂理はあまねく公平に全生物、万人に訪れる。

読み始めたばかり、すごく面白い

そして、私は冬を忘れ、春爛漫の世界に酔いしれる。とりたててどこかに出掛けてお花見をするなんてことはほとんどしない。わが労働先と、家の近所、我が家だけの春の訪れを、私は充分に楽しめている。ありがたい春を私は愛でる。

さて、昨日の夕刻、岡山のFMレディオモモに10分間、スパイラルアームズの告知のため出演した。いかほどの反応があるのかは皆目わからない。この年齢での労働生活を基本に据えながら、なおかつスパイラルアームズの企画窓口を引き受けるということは、背負ったものにしかわからない、ある種の覚悟、腹をくくる胆力がいる。ベストを尽くすだけである。

終えるとすぐに、瀬政さんからメールを頂いた。あたたかいメールであった。瀬政さんは山陽新聞の告知のために動いてくださっている。

山陽新聞の告知が出れば、もう私としてはことスパイラルアームズに関しては、やるべきことはやったという感じである。後は本番を迎えるだけである。やりきった感、これだけは私にしかわからない。

ところで、ながくなるのではしょるが、このレディオモモ出演は、とある方の紹介でレディオモモ社長、O氏にお会いしたことですんなりと決まった。O氏は何と、昔私の企画を中世夢が原で聴いたことのあるかただったのである。

古希を迎え企画を再開した私にとっては、いきなりの味方出現というわけで、改めて夢が原という強力な野外音楽芸能に適した場所で、数々の企画が、わが人生でやれたことの幸運を思い知らされた。O氏はその思い出をとつとつと語ってくださった。あの時代の、私の企画を今も心のうちに宿していてくださるかたがおられることに、企画者冥利というしかなかった。

その上O氏は、必ずスパイラルアームズ聴きに行きますとチケットを、その場で2枚(カンパ付き)買ってくださり、激励してくださった。

出演を終え、家に向かい車を走らせると、空にはでたばかりのほぼ満月の春の月が浮かんでいた。能天気な私は、月が祝福しているかのように感じられた。




2025-04-06

今朝起きて五十鈴川だよりを開いたら、谷口さんから3連発のコメントをいただき、有り難き春の夜の夢のごとし、なり。

 昨日新見の猪風来縄文美術館を訪ね、(午前9時前に着いた)打ち合わせを約2時間した後、猪風来さんご夫婦、瀬政さん、那須さん、私の5人で持参したお弁当で、和気あいあいの昼食を済ませ、岡山市内に戻ったのが午後2時であった。朝7時2分発赤穂線で岡山駅へ。瀬政さんが西口で私をピックアップしてくれ、一路新見を目指した。往復瀬政さんの車、彼が運転してくれた。(瀬政さん運転、ありがとう、ご苦労様でした)

風雪を、耐えて凪海、舞い降りる

岡山市内の天神山文化プラザで降ろしてもらい、私は6月22日の猪風来さんのトークのための会場を押さえるべくその足で事務所に向かった。あいにくすべての部屋が埋まっていたので、そのまま歩いて県立図書館に向かった。7年前リア王の発表会で使ったことのある空間が空いていればと願ったのだ。空いていた、よかった、すぐ手続きを済ませた。

猪風来さんの体が空いている日を押さえ、その日のうちに会場を押さえる。スムースに事が進んだことで、企画者の私としての心は一気に軽くなった。が、まだ春の日は沈まない。持参したスパイラルアームズのフライヤー200枚を、必ず置いてくださる、シネマクレールの浜田さんに直接お会いし、フライヤーを置いてもらえるようにお願いした。

浜田さんはニコニコと、いつものように応じてくださった。やはり眼力がある。岡山の中心部にシネマクレールがあるということは、岡山の誇りである。浜田さんは映画と言うものに、映画への愛に全人生を、いまもそそいでいる稀な方である。そのうつむき加減のたたずまいに秘めた底力、覚悟を想うとき、企画者のはしくれとしてエネルギーをいただくのである。

シネマクレールでのフライヤー配布を終え、岡山駅まで歩き赤穂線で西大寺の我が家に着いたのが午後5時近く。起きてから帰宅するまでおおよそ12時間、充実した疲れが体を浸していたが、またもや谷口さんから、心有り難きコメントが入っていて、あり得ない夕刻の五十鈴川だよりを打つということになり、結果ヨレヨレの体で打った。

そして今朝である。3連発のコメント。心にぎゅっと、グサッときた。14年目に入っている五十鈴川だよりだが、3連発でのコメントは、もちろん初めてである。オーバーではなく、実感する。このような稀な珠玉と言うしかない、宝石のようなコメントをいただくと、またもや老人はあらぬ世界に舞い上がるのである。ヒトは昔鳥だったのかもしれないね、という中島みゆきさんの詩が老人の頭に甦る。たぶんヒトは出会いと別れを繰り返し、刹那の人生に夢をみる。

もうこの年齢なので、お恥ずかしくも打つが、、、。だがやはり控える。今日は日没をできたら眺めながら、感じながら、ひとり谷口さんのお言葉にしたがって、凪海を呑みたい。

2025-04-05

谷口さんのコメントに想う、猪風来縄文美術館を訪ね、打ち合わせをした春の日の夕刻に打つ、稀な五十鈴川だより。 

 五十鈴川だよりにはいただくコメントが少ない。だからたまにコメントをいただくと本当に嬉しい。実は新見の縄文美術館に打ち合わせに行って、(瀬政さん、那須さんと4月30日に配布する、予告フライヤー、及び猪風来さんの縄文土器に打ち込んだ50年の人生を語るトークフライヤー2種類を作るための)帰ってきたばかりで、ぐったり疲れているのだが、谷口さんの頂いたコメントを読んだら、無性に何か打ちたくなったのである。

今日頂いたDVDのフライヤー

コメントに交通事故に遇われたことが触れられている。改めて想う。お会いしたのは一度だけ、あれから33年の歳月が流れたのである。おそらく誰にでも訪れたであろう時間の流れ、重みを想うとき、文字だけではなく、じっくりと改めて送られてきた焼酎【凪海】を飲んでみたくなったのだが、今のところまだ開封していない。

長くなるからはしょるが、先日我が家にステイした、小島京ちゃんと4月30日のハレノワが終わったら、我が家で祝杯をあげることにしていたのでそれまでは、凪海を味わうことは控えている。凪海は、私にとっては特別のお酒になってしまったのである。

であるが、今後いつまで飲めるかは別にしても、飲める間は谷口さんの造った焼酎を家では飲み続けたい。いや、飲む、だから、ささやかだが谷口酒造の焼酎を年に何回かまとめて注文したい。あわよくば、私の回りの焼酎好きにもPRしたい。

なにやら舞い上がっているかのような、老人五十鈴川だよりだが、ヒトは舞い上がれたり、動き回れるあいだに何事も思い付いたら吉日をモットウ、としている私としては私の心が思い付いたことに従うのである。

よしんばそれが現世の常識的通念とは乖離が甚だしくとも、感じるヒトは感じるし、わかるヒトは解るし、解らないヒトには解らないのだから。そういう意味では、今年は私の中の老いをより深く味わい、意識的に生きる老人元年として記憶に刻み付ける、エポックな年にしたいという老いのいい意味での欲望が、谷口さんのコメントで湧いてきている。谷口さんの造る御神火焼酎は名前が、今を生きる老人の私に火を灯すに充分である。

誤解を恐れずに敢えて打つが、ハレノワのスパイラルアームズが満員にはならなくても、もちろん満員にはなってほしいのはやまやまなれど、私のなかでは、どこか企画を引き受けた段階からなるようにしかならないという、どこかいい意味での諦念のような感覚が、ぬぐえなかったのは事実である。(うまく言えないが今という虚ろな時代を必死で生きているヒトはきっと反応する)

本番迄一人でも多く足を運んではほしいものの、どこか腹をくくってはいる、のだ。来られるかただけで、ハレノワの空間にえもいわれぬ熱が満ちれば足りるのである。谷口さん始め、濃い聴衆が駆けつけてくださることがハッキリしているからである。

この年齢にして、またもや何かを掴んだという実感が今の私の体を包んでいる。謙虚にこの感覚を育てれば、何か次の世代にバトンタッチできるような、プロデュースする側の意識の転換イベント、企画になる予感が今日も打ち合わせをしていて、体にわいてきたのである。ハレノワから秋の縄文美術館でのイベントにつながる流れを私は模索している。文章で思いを伝えるのは、やぶさかではないが、この五十鈴川だよりに実体を注ぐには、私の今現在の肉体が動いて事実を伝えるしか私には方法がないのである。                                 

2025-04-01

3月31日夕刻谷口英久さんから【凪海】とお便り届き心にぎゅっと春が一気にやってきた。

 昨日、谷口英久さんから【凪海】と言う素敵な名前の焼酎と、またもや谷口さん独特の文字のお便りが夕刻とどいた。極めて超個人的な喜びを、花粉症のせいなのか、鼻水が止まらず体調が悪いのだが、短くても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。




いちばん嬉しかったことは、きちんと今現在の五十鈴川だよりを読んでくださったことである。自分のことはあまり自分ではわからない。私のやっていることへの評価をこのような形で直さいに伝えてくださったことへのあまりの嬉しさである。そして直しも含めての谷口さんの直筆の独特さ。軽みと純粋さと子供心。思い立ったら、駆けつける粋な今時珍しい心意気。いい年をして、ハシャギ、妻にあきれられる始末。

今回の企画は、あらゆる意味での不思議な再会が続いているが、この谷口さんとの再会は、自分でも信じられないくらいの、意外な出来事のひとつとして、生涯の晩年の思い出の筆頭になることは間違いない。

何事も愚直に持続継続していると、ときおり神様が粋な計らいを与えてくださる。まるでお酒が発酵してなにか突然変異が内なるからだで起こったかのような喜び、これまであまり経験したことがない嬉しさなのである。今をとにかくがむしゃらに生きていて本当によかった。

最後に、何度か書いているが、自分の体、手で文字を書く、その人の文字の力である。こればかりは機械で書くような画一的にはゆかない、その人なりの全人格が自ずと出てしまう。もういいのである。自分の文字で遊び刻み引っ掻くのである、。自由自在、どこ吹く風、その日の風に身を任せ。いよいよこれからの時間は、遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、そのような仲間との時間を大切に生きてゆきたい。