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2024-06-30

6月末日、立花隆著、最後に語り伝えたいこと、大江健三郎との対話と長崎大学の講演を読み想う五十鈴川だより。

 まさに梅雨本番と言うしかない小雨模様の朝である。少し迷ったがメルの散歩を済ませ、朝一番公園を散歩し、牛乳他必要な品を求め、五十鈴川だよりが打ちたくなった。3連休今日が最後である。この二日買い物と散歩以外は家から出ず、おもに本を読んですごし、眠くなったら寝るという、(この半年のたまった疲れをひたすら体をやすめるということに)気まま極まる時間を過ごしている。(本質的に私はぐうたらである)

このような正直な知識人は希である

ボーッと過ごすひとときが、いかに大切か、そして睡眠がいかに無意識につもり積もった形容しがたいおりのような疲れを、どこかへ運んでくれる有りがたさを想う。つくづく私はいい加減な存在である。歳を重ねると睡眠が浅くなるとか眠れるなくなるということをよく耳にするが、私の場合今のところほとんどそのようなことがない。あっという間に眠りに落ちて気持ちよく起きられる。

そのような生活が、ほぼ32年間。そして大きな手術前も、その後も持続できている。お陰さま、よく寝て食べ、働き、限りなくつましくも、(臆面もなく打つが)限りなく充実している生活が何とか送れている現在(いま)、平安に五十鈴川だよりを打てることへの在りがたさは例えようもない。ちょっとスイッチを入れれば目を覆いたくなるようなニュース映像、老人の私にはまるで理解に苦しむ事件、ときに気が塞ぐ。

老人は塞いでいたら持たないので、どこかで平衡感覚をキープするために、過剰な情報はインプットしないように心かけている。信頼できるかたの教え、情報から繰り返し学ぶ方が限りなく有益である。だからもう今年から新聞も購読をやめた。古希をすぎ十分すぎるほどに生きてきて、いつ何が起きても悔いることのない生き方を、今現在も継続している(できている)つもりではいるので、わがうちなる声なき声に耳を傾けて生活する、しかないという、どこか諦念感覚を生きている。

できるだけ静かに暮らす。やりたいことにのみこれからの時間を過ごす。家族、友人、今、日々の生活のなかで過ごす人たちとの気持ちのよい関係性を深めて行きたい。それから読書。シンプル極まる生活を限りなく大事にしたい。そのような生活のなか6月も今日が最後の日なのだが、3月23日から始めた音読リーディングのお陰で、私よりずっと若い人たちとの新たな関係性が生まれてきていることが、どこかでやんわりと私を活性化させる。(魅力的な面々である)

それもこれも、シェイクスピア作品の音読リーディングを継続してきたからの恵みという以外に言葉がない。シェイクスピアの作品を介在して、他者と本質的に出会うことによって、新たな自分とも出会えているかのような感覚。絶えず今を生きなおす(草は生きて毎日伸びる、その新鮮な雨に濡れた草との対話)。うまく言えないが私は絶えず移ろう。そのような不確かな私という存在と長きにわたって交遊を続けてくださっている人たちへの有りがたさへの感謝は例えようもなく、これからは交遊録も折々五十鈴川だよりに刻んでおきたい。

さて、話は変わる。2021年に出された立花隆さんのご本【立花隆 最後に伝えたいこと】 大江健三郎との対話と長崎大学の講演、中央公論新社を昨日読み終えた。私の本棚には立花隆さんのご本が10冊くらいある。折々該博な知見から蒙が拓かれるかのような読書体験をしてきた稀な作家の一人である。

立花隆さんは1940年生まれ、私より一回り年上である。この世代はとにかくすごい方が多い。お亡くなりになったのは3年前、2021年の4月である。この本は亡くなれた80日後ご遺族によって編まれた本である。立花隆という稀有な存在、作家のラストメッセージ、魂が込められたご本である。読み終えたばかりだが、五十鈴川だよりを読んでくださるかたには、是非とも手にしていただきたい、と願わずにはいられない。

このような好奇心と行動力と知的探求力、正直に身を賭して命を削って渾身の生き方を実践された存在に打たれた。解説を書かれているのが昭和史の大家保坂正康氏である。このちょっと長い解説が素晴らしい。じーんとくる。立花隆さんと保坂正康との間にこのような交遊があったのを初めて知った。本物同士の関係性の極致がある。慎んで冥福を祈ると共に、改めて氏のご本から、そして先人たちから学ばねばならないとのおもいが五十鈴川だよりを打たせる。

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