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2024-06-28

マイスターに聞け、を終えシェイクスピア作品のリーディングカンパニーを夢見る朝。

 故郷から戻って昨日まで労働し今月は終わり、今日から3連休である。雨音を聴きながら打っている。いきなりだが18才から世の中に飛び出し、何とか今も身すぎ世すぎという感じで、とにかく働きながら、カッコつければ淡い夢のような世界を追い続けている自分がいる。

大地の恵み初収穫

文化的なことに、ややもすると片寄っている人、というような印象を持たれているかたがいるかもしれないが、私のなかでは分かちがたく、生活者としてまずは足場を固める自分と、シェイクスピア作品を音読したり、時に企画をしたりする自分は同根である。

話は変わるが、今年も来週から7月である。あっという間の半年間であったという陳腐な言葉しか浮かばないが、自分のなかでは、新しい有意義な時間が切れ間なく続き積み重なってすぎたという実感がある。そのことは折々五十鈴川だよりに打っている。(継続して打つことの大切さ)

マルセを生きるを企画したことで、梨花さんとも関係性が深まり、またひとつ学べた気がしている。そして3月23日から6月23日まで不定期ではあったが、シェイクスピア作品の音読リーディングで、情熱のある参加者と出会えたこと、がやはり私にとってもっとも大きい出来事である。そのことに関してのいちいちは、とても五十鈴川だよりでは打てない。ただ未知の、あたらしい人たちとの一期一会の出会いリーディングが新鮮で楽しかったこと、がまたもや新しい気づき展開を産み出している。

シェイクスピア作品のリーディング音読、マイスターに聞けと言う、私の意を汲んだN氏の企画は、当初5回の予定とフライヤーには記されていたのだが、あにはからんや、その倍近いレッスンが貴重な参加者と私との間で展開され、6月23日、一応のピリオドが打たれた。だが、終わったわけではない。

いったん終止符の後、新たな展開での再開を私はやりたい。私のレッスンを継続して希望する参加者がいるので、名前も含めN氏や参加者と共に再出発することに決めたのである。コロナ渦で遊声塾を閉塾して後4年、よもやまさかこのような展開が、古稀をすぎてのわが人生に起きるとは想ってもみなかったので、私としては、臆面もなくあえて打つが、どこかシェイクスピアのお導きとでも言うしかないほどの、身に余る嬉しさにおそわれるのである。

重ねて臆面もなく打つ、そのお導きはきっと61歳から68歳まで、(ときに参加者が少なくて二人きりの時も)コロナウイルスがやってくるまで継続していたからこそだと。繰り返し私はうち綴っている。高校生でフランコ・ゼフィレリのフィルムを観たことが私の人生を変え、あれから半世紀はとうにすぎたのに、今もまたW・シェイクスピアの豊穣な作品群は老いゆく私の人生の羅針盤として行く手を照らす。そのことの有りがたさ、感謝、日本語のシェイクスピア作品群に出会えたことの喜びは筆舌に尽くしがたい。

ゼフィレリのロミオとジュリエットを半世紀ぶりに、リーディング参加者と共に天神山で見たのだが、今見ても私は感動したし、当時生まれていなかった参加者たちも感じ入る感性を持ち合わせていた。打っていると次々打ちたくなるのではしょるが、今回マイスターに聞けに参加して継続レッスンを希望されるかたは、いずれも個性的で熱心である。自分を変えようとしている。私のしつこいレッスンにも食らいついてくる。そこに希望がある。だから私はやりたい、のだ。

ある日突然レッスンが、声が出なくなっても悔いはない。だが声が出せる間は参加者と共に、あの劇詩人シェイクスピアが紡ぎだした魔法のような言葉言葉言葉の素晴らしさを共有し、挑戦したい。奇跡的とも言える、たまたま出会えた魅力的な人たちと日本語を味わいリーディング、面白可笑しくプレイしたいのである。

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