今年は、とくぎりをつけるのとはちょっと違うのであるが、次々と予期せぬ、どちらかと言えば正直、若い頃であればなんてことはないのに、実年齢を考えるとちょっと無理がたたるような日々が続いている。だがその事を悲観的ではなく、どこか嬉しい出来事が続いているといったあんばいで日々を過ごしていたら、あっという間にそろそろ梅雨入りの時候、そしていよいよマルセを生きるの公演が目前に迫ってきた。
梨花さんといろんな話がしたい |
それにしても意外なな出来事が連続しなかったら、きっとマルセを生きるという中世夢が原での公演は実現しなかっただろうし、よもやまさか、退職後再び中世夢が原の神楽民俗伝承館でマルセ太郎の娘である梨花さんのトークパフォーマンスを企画することはなかっただろう。
昨年暮れ、マルセを生きるという本が梨花さんから送られて来ることがなかったら、あえて老人の身をわきまえない、ちょっと無謀な企画は生まれなかったに違いない。中世夢が原で22年間がむしゃらに企画してきたのでよくわかるのだが、企画を実現するのには、実に煩雑な手続きが付きまとう、その事を億劫がるようになったら企画は実現しない。
いまも続く泥沼膠着戦争がウクライナで大々的に報道され、その年70才でウクライナの音楽家を企画、昨年は沖縄の音楽家、今年はシェイクスピアの音読リーディングだけの予定であったのだが、今年一月、神戸で続いている文忌という催しに昨年に続いて2度参加し、そのときに打ち上げで梨花さん、お嬢さん(文句なしに素敵なお嬢さんだった)弁護士をされているお兄さん(このかたがまたとつとつと多様な視点で物語る梨花さんとは異なる魅力を持つ)らと語らうひとときがあった。
その席で私の年齢も省みず、マルセを生きるという本の出版を祝う、小さな企画をやりたくなったのである。あれから5ヶ月が瞬く間に過ぎたというのが正直なところである。生活し、音読し、企画もする、そのすべてにこの年齢で挑むということの困難さを時におもう。
だがしかし、あえてそれでもなおやりたいという何か言葉にはしにくいとらえどころのない熱情があるからこそ実現している。労働も音読も企画も(まるごと私の生活)薄氷を踏むすれすれを生きている、生きていられるいまをきっとどこかで苦楽しながら愉しんでいるのだ。(とおもう)
一人でも理解者があれば、単細胞の私はすべてのことに自分が責任を持てるのであれば、自然に正直にいまやれる情熱を傾けたい。ただそれだけである。神楽民俗伝承館で父娘2代の芸が実現するなどとは思いもしなかった。当日どれ程の観客が来てくれるのか、おそらく来場者の数は少ないとおもうが、企画者の端くれとしておもうことは、入場者の多い少ないではなく今自分が背負える、責任がとれる企画をやりたいし今しか出来ないのだ。
梨花さんとの出会いで、かって私を育ててくれた場と空間、中世夢が原で再び里帰りのような企画ができるとは、オーバーではなく私には夢の出来事なのである。そして今回の企画は、あらためて、企画することの原点感覚を私に喚びさます。いまは言葉にし得ないが、そういう感覚が老いのみに芽生えたのは、きっと5月24日、岡真理先生の魂の講演会を、リアルタイムで接したからに他ならない。
岡真理先生との出会いで、私はこの年で初めてアラブの文学に触れている。その事で老いのみに微かな変容が起こっている。またもや無知、未知との出合いである。若い頃のようにはゆかないが老いゆく時間のなか、ゆっくり雑草をしつこく抜いてゆくように学ぶ勇気を持たないと、まずい、あまりにまずいと自戒する。やるだけのことをやって6月16日を迎えたい。
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